いんちきで、さらにマクガフィンだつた。

by 丸太花道@乳軟部

13049-0197 『無題』

 絵画や写真で『無題』と云ふのを偶に見掛ける。『習作』だつたりする場合も或はあるが、あれが非常に気に喰はない。

 何だか作者が"手を抜いて"ゐるやうに思はれる。作者本人には本人なりの事情があつて、『無題』(或は『習作』)を撰んだのかも知れないが、それはただ作者の都合なので私に斟酌しろと云はれてもこまる。

 色々な考へ方を認めるのは吝かでないとして、絵画や写真や映画を観る、或は小説や随筆を読む、音楽を聴く我われを仮に受け手とするなら、受け手の特権は自在な解釈が赦される点で、作者が意図しない解釈をしても文句を云はれる筋はない。

 自分の意図しない解釈…誤解や曲解もあるだらうが、それを受け手がしたと云ふなら、それは受け手に別の解釈をさせる余地を残した作者の責であつて、たとへば詩歌ならば多重的な多層的な多義的な解釈に或る種の面白味があるからそれは例外として、一般的な散文ならば明晰が尊ばれるもので、絵画や写真でもその骨組みは同じではないかと思ふ。

 絵画や写真はただそれだけで在るものだと主張する聲はあるだらうし、それは全面的ではないとしても正しい。然し"ゆゑに"無題なのだと云はれると、それには首を横に振りたくなつてくる。では"『無題』と云ふ題"そのものが邪魔ではないか。『無題』は絵画や写真と絡ませながら"無題の中に含まれる意図を暗示させる"目的で撰ばれるのが本来であらう。云はば一語で詩歌の代役を果すのが『無題』でなくてはならない。それが筋と云ふものだ。

 翻つて巷に氾濫する『無題』にその気配は感ぜられない。面倒だから、或は思ひつかないから、そんな程度の安易さだけが際立つてゐて、眺める我われにその題が含んでゐるにちがひない作者の情景を想像する愉しみを奪つてゐる。裏を返せば"安易なる『無題』"は一枚の絵画なり写真なりが本来示したであらう何事かの前に、烈しく音を立てながら扉を閉めてゐるやうなもので、作者は兎も角、絵画や写真には気の毒な事と云はざるを得ない。

 然し私は画家或は写真家(これは絵や写真で口を糊するひとの意ではない)だから、気の利いた題名なんて思ひつかないと云ふひとがゐるとすれば、題を付ける事について、言葉を撰ぶ事について、絵画や写真と題名の関係について、二重三重に不勉強で無神経の謗りを免れない筈で、さう云ふひとの描く絵や写真なら碌なものではないだらうから、ごく一部の例外を除いて、『無題』は無視を決め込める最適の記号であるかも知れない。
[PR]
by vaxpops | 2013-02-14 17:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://zampablack.exblog.jp/tb/17829822
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
名前
URL
削除用パスワード