いんちきで、さらにマクガフィンだつた。

by 丸太花道@乳軟部

丹念で且つ執拗な

 明治頃の小説をぱらぱら讀むと、着物の描冩が細やかなのに驚かされることがある。生地がどうで色や柄がかうでと、舌なめずりでもしてゐさうな感じがされなくもない。
 現代の小説ではどうだらう。私は偏りが烈しいから、あてにはならないけれど、丸谷才一くらゐしか思ひ浮ばない。あのエロチックな話題を好む小説家は、巨細を尽してスカートの襞の具合やブラウスの色めを描いてゐた。好色の最も文學的な顕れだらうと思ふ。エロチックな描冩ならポルノ小説ではないかと反論するひとがゐるかも知れないが、あれはただ扇情的なだけでエロチックとは位置づけが異なる。

 何故だらうと思ふに、着物の描冩はある登場人物の社会的な地位や性格、心象を示す恰好の小道具だつたからではないか(遡ると流行の発信元といふ役割…冩眞で見せる方法が有り得なかつた時代…もあつたらうが、流石に近代の小説にはその気配はない)現代の小説はさういふ暗示的な小道具を必要としなくなつてゐるのだらう。その変遷がいつ頃だつたのか、疑問が浮ぶけれど、それはこの稿の話題でない。社会史の分析が重要な意外と面倒さうな研究になりさうなので、熱心な研究者の發表を待つとしませう。

 私が気になるのは衣裳に限らず濃やかな…いつそ執拗と呼びたくなる描冩の手法自体で、たとへば土地の情景もその対象のひとつ。司馬遼太郎描く『坂の上の雲』の旅順要塞攻略戰では、これが重要な扱ひでもあつた。最近讀み返した中で云ふと『リヴィエラを撃て』で描かれたアルスターやロンドンの情景の息苦しさは髙村薫の本領を見る思ひだつた。この息苦しい感覚が物語に欠かせない要素なのは云ふまでもない。濃密な描冩を必要とするのは、花やかな情景だけとは限らない好例であらうか。

 そこで気になるのを進めると、さて飲食でさういふ描冩があるだらうか…手法として採用出來るのだらうか、と疑問に繋がる。
 最初に浮ぶのは池波正太郎で、かれの描冩は實に旨さうだと考へる方もゐるだらうが、またそれを否定するのは無理があるのでもあるが、あの小説家が巧緻は、描冩の濃やかさより、食卓の風景を一筆で描きながら、こちらの食慾をむやみに刺戟する筆法で、こちらの想像への働きかけが巧いのだと考へる方がよろしからう。
 旨さうな本といへば檀一雄を忘れてはならないか。一体かれには何度迷惑を蒙つただらう。が、思ひ出しても濃厚、巧緻、緻密な描冩は浮んでこない。料る歓び食べる愉しみの胃袋への染み込み方は上等のお酒を凌ぐのに、その書き方は関西風のお吸物のやうに穏やかである。驚嘆に値する文章の藝と讚辞を捧げねばなるまい。
 飲食にまつはる優れた文章家は少ないけれど、それでも吉田健一、辰巳浜子、湯木貞一、北大路魯山人、邱永漢くらゐの名前は私程度でも出てくる。併しいづれにも"お吸物のやうな"淡泊さは共通してゐて、まあ魯山人の厭みは好もしくないとしても、矢張りサヴァラン教授の書く"スプンが立つほどに濃厚なソップのやうな"感覚からは離れてゐる。良し惡しではなく、我が邦の文學が持つ伝統なのか知ら。

 さうなると"濃厚なソップ"を思はせる飲食の描冩は成り立たないのだらうかと更に疑問が深まるのは人情の筈で、かういふ例は記憶にない。ガルカンチュワ的な献立の一覧なら『御馳走帖』で内田百閒が書いてゐるのだが(これもまた旨さうで實に迷惑する)、たとへばひと皿のカレーライスの、ごはんの調子、ルーの色あひに粘り具合、牛肉や人参や玉葱(もしかすると丸まつちい素揚げの馬鈴薯)の浮びまた沈む様、或は刺戟的な香辛料のかをり、隅を密やかに彩る福神漬に艶やかな辣韮を銀いろの匙ですくひ、舌と鼻と喉で存分に味はひ、氷をたつぷり入れた清涼なお水で流す悦びを、濃やかに丹念に執拗に描いた文章。
 ステイクでもいい。温められたお皿に乗せられたレヤーの牛肉。グレイヴィ・ソースの色と艶。大蒜の香り。隠元豆や人参の鮮やかな緑と赤。馬鈴薯の湯気。赤身と脂身の取合せ。こつてりした葡萄酒の暮色の海のやうな漣。清冽なナイフとホークが肉を断ち、馬鈴薯を崩す。頑丈な歯と顎が噛み砕き擂り潰し、飲み込んで胃の腑まで落ちる一部始終。
 いやステイクに限らず、同じ手法はとんかつでも天麩羅饂飩でもざる蕎麦でもおでんでも海苔弁当でも成り立つ筈で、にも関らず見掛ける機会に恵まれないのは、その必然性が認められてゐないからなのか知ら。何をどう食べまた呑むかはそのひとを衣裳以上に際立たせると思ふのだが。それとも全篇が食事の丹念且つ執拗な描冩に満ちた、私の知らない小説があるのだらうか。一ぺん是非に讀んでみたい。
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by vaxpops | 2017-05-05 10:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)
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