いんちきでさらにマクガフィン

by 丸太花道@乳軟部

カテゴリ:徒然諸々( 425 )

問題の三番め

詰り、宝亭。
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ま、詳しくは、云ふまい。

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by vaxpops | 2017-03-29 07:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)
 私が勝手に云つてゐるわけでないのは、画像をご覧になれば一目瞭然。
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 ね、さうでせう。
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by vaxpops | 2017-03-26 07:45 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(4)

遠足の前の日

カメラにおやつ。
タオルと充電器。
お財布と切符と。
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ええと、それからわくわくの気分。

忘れちやならない替へのパンツ。

待つてゐろよ、明日、行くから。

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by vaxpops | 2017-03-17 07:45 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)

 どうも我ながらにぶいなあと思つた話をする。寫眞の話。
 丸太の表藝が文章だといふのは以前から公言してゐるから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にはご存知でせう。出來の評価はなさらなくてかまひませんよ。落ち込むのは明らかだから。
 併しこれもご承知のとほり、この[いんちきばさら]では使ひ廻しも含め、画像を多用してゐる。義務感があるわけではないが、習慣的…もしかして半ば機械的となつてゐる風には思ふ。自慢にはならないよね。とは云へ、画像抜きで[いんちきばさら]を書けないのかと訊かれたら、そんなことはないですよと応じられる程度に自信はある。更新が月二回くらゐに減りさうだけれど。

 それで先日ふと、おれはどうして画像を使ふんだらうと考へた。二本目の罐酎ハイを呑みながらだつたと記憶するが、それがドライだつたか檸檬だつたかは抜け落ちてゐる。

 最初に浮んだのは寫眞が好きだからといふ理由だつたのだが、説得力に欠ける。改めるまでもなく私の寫眞は他人さまに自慢出來る代物ではないからで、呑み喰ひの記録乃至報告は兎も角、寫眞それだけで成り立たせるだけの強靱さまでは持合せてゐない。謙遜でも卑下でも劣等感でもない、これは事實である。それにさういふ寫眞を見た時に感心はしても羨望は感じないから、まつたく向上心に欠けてゐるよ貴君と叱られるかも知れない。

 お叱りは甘受しつつ事實はさうなのさと呟きながら、もう少し考へると、居直りも含めて寫眞を出したいのだといふ、ある種の顕示慾があるのかと不安になつた。不安がをかしければ疑念でもいい。目立ちたくない、世間から身を潜めたい、隠棲したいとは思はないが、おれの寫眞を見ろと思はないのも本心だから、そこに顕示慾が入り込んでくるだらうか。偶々たれかの目に留まつて、その偶々のたれかが面白がつてくれれば、概ねは満足だよな、おれは。さう思ひ到つて、これも正しくはないだらうと結論づけた。

 我ながらにぶいのはここで、どうして表藝ではない寫眞の方向から考へたのか。前提といふか、出發点がそもそも誤つてゐたのです。
 私が寫眞乃至画像を撮るのは何故か。色々と事情はあるが、今の時点で最も大きいと思はれるのは記録乃至記憶。脳細胞が滅びつつある毎日、外部にその一部を委ねる為の手段が寫眞乃至画像なんである。常用の手帖と近いですね、扱ひが。

 さういふ扱ひをしてゐる寫眞だから、文章の中にあしらふ場合、それは主役にならない。書きたいこと(大したものでないのは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏のご存知のとほり)を強調さしたり、明示(或は暗示)さす小道具である。だから仮になくても[いんちきばさら]は書ける。あれば便利。それがどうやら丸太の寫眞使ひらしい。もう少し簡潔な譬喩を試みれば、文章の補助線か。
 うん、我ながら惡くない譬へだと思ふ。文章を寫眞の説明にしない。と格別に意識をした、してゐるわけではないが、結果(の多く)がさうなのだから、"丸太の寫眞補助線説"には割りと説得力がありさうな気がする。併し多少なりとも冷静であれば、こんな分析の必要はないわけで、矢張り私は些かにぶいと云はざるを得ない。
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by vaxpops | 2017-03-15 07:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

フヰルムカメラで遊ばう

 第一にフヰルムカメラは事實上、滅んでゐる。
 第二にフヰルムカメラを私は、隠居してゐる。
 なのに"フヰルムカメラで遊ばう"と云ふのはどうも烏滸の沙汰ではないかとも思はれるが、さういふ些細な点に拘泥するのは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ…この際あまく見てもらひたい。

 最初に考へるべきは"事實上、滅んでゐる"点で一部には反論もありさうだが、数奇者向けだけが残つてゐると見立てるのは誤りではない筈だし、数奇者は常に少数派でもある。さういふカメラは絶滅目前の野性動物と同じで、人工的に繁殖させる企てを継續させなければ消え去つて仕舞ふ。ただ数奇者相手の商ひでも商ひとしては残つてゐるから、その気になればフヰルムカメラを使へなくはない。割高だし不便でもあるけれど。
 不便といふのは商ふお店の激減と、そこで必要な時間が激増したことで、簡単に云へば撮つたその日の内に、その日の寫眞で遊びにくくなつた。逆に云へば、時間を掛けるのを前提にすれば、フヰルムカメラの遊びはまだ成り立つ余地がある…と書くと、前提が何かをかしくないかと感じるひとが出てきさうに思はれる。
 そこで説明すると私の属するニューナンブは"スーパーどんたく"でフヰルム対決をするのが慣例だつた。一本のフヰルムを半日掛りで撮影をして、当日の現像プリントに出し、その夜の肴にする趣向である。デジタルカメラのやうにその場で画像を確認出來ないのを逆手に取つてゐて、互ひに何を見て、どんな寫眞になつたのかが、何時間か後になつて判るのがいい肴になる。それが前述の事情で實施が六づかしくなつた。フヰルムカメラを隠居した私だから、デジタルカメラに移行していいのだが、それだとこの稿が成り立たない。

 カメラ…寫眞を始めたのは四半世紀余り前だつたのを思ひ出した。その頃の私にはおつき合ひをしてゐた女性がゐて、デートの際には必ずカメラを持ち出したのはいふまでもない。あちこちに出掛けては寫眞を撮つて、プリントを次のデートで見せる。彼女はその中で気に入つたのを何枚か撰ぶから、それをプレゼントする。あの寫眞はどうなつてゐるのだらう。かうして文字にすると恥づかしいね。
 恥づかしいが、デートと次のデートの間も云はば寫眞の樂しみだつたのではないか知ら。その場で一緒に液晶画面を覗きこめるデジタルカメラの樂しみはそれとして、プリントを家で見直しながら、どれが気に入られるだらうと考へるのは、何だか幸せな気分だつた記憶がある。都合よく修正が掛つてゐるだらうとは思ふが、そこを自分で認めると身も蓋もなくならうと云ふものだ。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、丸太にもそんな時期があつたのだねと微笑むに留めて頂きませう。
 ここで考へたいのはフヰルムで撮ると待たなくちやあならないのだが、その待ち時間はデジタルカメラでは味はへない点。では待ち時間そのものを、やむ事を得ないのではなく、その一面は認めるとしても寧ろ、積極的に遊びの要素とするのがよいのではないか。撮るのと現像プリントと見るのを分ければ樂しみ…肴にする機会を増やせるでせう。もし撮る時間自体が長大になつても、その長大な時間が記録乃至記憶に変ずる(可能性或は期待がある)わけで、間延びするだらうか。併しフヰルムカメラ一台ですべてをまかなへはしないから、どうにかなるだらう、きつと。
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 と、ここまで書いた私は自縄自縛の危険を感じてゐる。

 フヰルムカメラの徒花と呼んでいい規格にハーフサイズといふのがあつた。キヤノン・デミ、リコー・オートハーフ、コニカ・アイや京セラ・サムライ。そしてハーフサイズの原型、元祖で頂点のオリンパス・ペン。
 ライカ判の半切で使ふカメラなので、フヰルムの撮影可能な枚数に対して倍の数が撮れる。長い時間を掛けて撮るなら、かういふカメラの方がプリントの段階で面白がれる度合ひが高くなるのではないか知ら。正月に入れたフヰルムが次の正月まで残ると揶揄はれたカメラだが、まさかそこまで極端にはならないとしても、数ヶ月くらゐは必要さうなところが好もしい。
 オリジナルのペン系統なら(意外なほど重いけれど)持ち出すのに躊躇を感じない大きさだし、少し凝つた眞似をしたければペンFといふ、世界に類例のない変態…誉め言葉ですよ、念の為…カメラだつてある。
 ペンSと同Fは以前に持つてゐて、上から見た時の操作部位の配置がほぼ同じだつたのは非常に感心した。最初の設計が正しく、またスタイリングが優れてゐた證拠ですね、これは。知る限り、同じ方向性での成功例はライカとR1からGRに續くリコー以外になく、フヰルムの愉快と樂しみに設計とスタイリングへの敬意を加へれば、SでもFでもペンは有力な候補に成り得る。…のだがフヰルムカメラを隠居した私が、こんなことを考へ出すのはまつたくのところ、あやふい。
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by vaxpops | 2017-03-09 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

不見転

 さう滅多にないが、不見転で呑み屋に入ることがある。知らない町中で呑みたくて堪らないと思はない限り。或は見知つた町でも気の迷ひで何だか通ひ馴れたお店で呑む気分ではない場合。繰り返すがさう滅多に感じることはなく、私くらゐの年齢になると、進取の気性が乏しくなるものだからやむ事を得ない。ただ些か開き直ると、何度も通ひたくなるお店はさうさう見つかるものではないし、それでなくても好もしさを感じる幅は狭くなつてゐる。詰りうまい肴、そこそこの酒精、快い客あしらひが揃つてゐなければ(それで廉なら云ふことはない)、宜しいものだと思へないのだから、不見転を極力避けようと考へるのは寧ろ道理ではあるまいか。

 それでも不見転で呑む夜をなくすのは、意外の悦びから離れることでもあつて、絶やして仕舞ふのは詰らない態度である。店構へ、暖簾の具合、中から漠然と伝はる匂ひ。それで稀におやと思へる時がある…かう書くと、もう少し具体的に書き玉へよ、君は文章が表藝なのだらうと云はれるのではないかと思ふが、確かに表藝と宣してはゐても、それと文章が巧いかは別の問題である。つけ加へれば職業文筆家でも、呑み喰ひに纏はる微妙な感情を記すのは三大困難のひとつ(残りは惡くちと下品る話題)で、信じられないなら近所の本屋で食べものに関はる文章に目を通してみ玉へ。サヴァラン教授や檀一雄、吉田健一といつたいはばクラッシックは例外だが、丸一日探してひとつ見つかれば上々だと断言出來る。それくらゐの難事を私のやうな浅學菲才が書けたとすれば偶然、いや偶然ではなく奇瑞に恵まれた結果である。
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 だから漠然のまま、兎に角おやと感じるお店が稀にあるのだといふことにして、そのおやと思つたのが果して正解だつたかどうか。それは概ね、お店に入つた時に素早く、愛想よく迎へて呉れるか…どうぞこちらへと席を勧めるのでも、どうぞお好きな席へと云ふのでも…で最初の印象が、こちらの様子を伺ひながら、何を呑みますかと尋ねる間の取り方で次の印象が決る。
 最後につき出しが口に適ふかで、ここが可也り大事な点になる。念を押すが別に趣向を凝らした小鉢を用意してもらひたいと考へるのではなく、かういふところを蔑ろにしないかどうか。私のささやかな経験から云ふと、つき出しが口に適へば他の肴も大体はうまい。うまいといふ云ひ廻しには無理があると思はれるかも知れないが、他に基準を用意する方がもつと無理になる。

 出汁の具合や火の通し加減。
 塩や胡椒や醤油の使ひ方。
 葱や木ノ芽のあしらひ具合。

 たとへばそんな風な細分化は出來なくもないとして、細分化したら解り易くなるとも限らない。一枚の寫眞、一回の演奏に心を打たれ、それを幾つもの要素に分割した話をして、伝はるものだらうか。化学の分野なら兎も角、何が何%といふ手法を呑み喰ひに応用するのは些か強引に思へる。色々の渾然がつき出しの旨さ…そこから期待される肴の旨さの素で、そこにはその夜の気分やら空腹の具合、或は晝に何を食べたか、また独りなのかたれかがゐるのかが含まれるし、それらで大きに変化する。それらが塩梅よく一致した時、不見転だつたお店はその町に足を運ぶ機会には通ふべき一軒へと進化する。さう滅多にないことで、うむ合格だと呟けた夜はその町の格まで上がる。
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by vaxpops | 2017-03-06 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

二重の疑念

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 やる気があるのかと疑念を抱きたくなる。

 ただ"食べればハッピー めでたい"の惹句で使はれてゐる活字の

『まあこの程度でかまはないか。といふか他の活字、よく知らないしね』

感覚は、寧ろ感心すべき箇所かとも思はれて、となるとこれは巧妙きはまる包装なのかと別の疑念が浮んでくる。

 まさか、ね。
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by vaxpops | 2017-03-05 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

横たはる

月が眠る。
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といふのが大嘘なのは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にとつて自明の筈で、瓦斯コンロの火なのでありますよ、これは。

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by vaxpops | 2017-03-04 08:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)

指示代名詞

 散らかして、撮つて。
 少し計り、加工して。

 これだけのことで、何となく思はせぶりでそれつぽくなるから、寫眞…画像といふのは不思議なものではありませんか。
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 もつと不思議なのは、それつぽいの"それ"が何を指してゐるのか、さつぱり解らないことで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、これは一種の詐欺と考へる方が宜しからう。
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by vaxpops | 2017-02-25 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

沈黙と饒舌

 ある寫眞が一枚あるとする。その一枚の寫眞を見るひとがゐるとする。その一枚の寫眞と見たひとの間に何かしらの…肯定的否定的はこの際問はないとして、何かしらの反応があつたとする。寫眞が表現(もつと大きく云へば藝術)になるとすればこの瞬間或はこの瞬間しかないのであつて、音樂でも絵画でも彫刻でも映画でもその辺りの事情は変らない。勿論不肖丸太が弄する文章だつて例外ではなく、無人の平原に打ち捨てられたオデュッセイアに何の値うちがあるだらう。

 簡単に云ふとそれ、表現乃至藝術は作り手と観る(聴く)側の共犯でしか成り立たない。

 さういふ視点に立つと、作り手は表に出して終り、後は共犯者の登場を待つのがあらまほしい態度となるのは改めるまでもなく、少なくとも文章に関しては詩を例外にすれば誤りではないと思はれる。このウェブログで云へば高校を卒業したくらゐの、詰り平均的な讀解力があれば理解出來る(厭み半分につけ加へると、歴史的仮名遣ひだから讀みにくいとは云はせない。高校卒業くらゐの讀解力があれば、普通の口語文と変らないし、もし本気でさう思はれるなら、それは現代日本語を理解する能力が致命的に欠如してゐると断定してほぼ間違ひない)から、意図的にさうされない限り、誤解曲解される心配はない。誤解曲解されたとすれば、讀者のおつむが余りにもアレだつたといふ極端な例外を除けば、さうされる程度の文章しか書けなかつた丸太が惡いんである。

 では寫眞ならどうかといへば、必ずしも作り手の要因と云ひきるのが六づかしい。解釈の余地が文章…散文より遥かに広いからで、抽象性が高いと云ひかへても宜しからう。
 抽象性の良し惡しでなく、それが受け手の解釈の幅を広げ(得)るといふ話である。
 さてそれでも作り手は沈黙を"守る"のがあらまほしい態度だらうか。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、閑でひまで何もすることのない午后に考へてもらひたい。それで考へたことを教へてもらひたい。讀者諸嬢諸氏の見方がどうなのか、非常に興味がある。序でながら、些かなげやりなことをご容赦賜りたい。
 この辺りまでが前置きで、私は寫眞に関する限り、表に出した後
「いやその寫眞はね」
と話をする…後出しをするのにまつたく抵抗を感じない。[いんちきばさら]で寫眞を上げつつ、その説明に終始することは殆どない筈だが、それは意味がないどころか、無駄だと思つてゐるからに過ぎず、隙があればあんなことを考へこんな狙ひだつたと、それがうまく運んだか失敗に終つたかと話をしたい。
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 こんな風に書けばきつと
「それは狡い。寫眞だつて(文章と同じく)表に出したら沈黙を守り、受け手の解釈に任せるのが正しい態度だ」
と批判されさうだが、私の場合(我が親愛なる讀者諸嬢諸氏とは異なる立場)、文章が表藝、寫眞は余技で、余技であるからそこに表現だの藝術だのの意識または気分はない。有り体に云へば遊びであつて、不眞面目と非難されるのはこまる。遊びなのだから眞面目に取り組むのは当然で、その遊びについて饒舌になる、ならうとする、なつて仕舞ふのは非難される態度だらうか。

 何も云はない。沈黙を守り續けることで受け手の解釈を広げ、豊かな"共犯関係"を結ばうとするのは勿論ひとつの手法。私はそれを否定する者ではない。それと相反する方法があつたつてかまはないし、相反する方法が"共犯関係"を拒むかといへば、それはまた別の話ではないかと思ふだけのことで、讀者諸嬢諸氏は如何お考へだらう。
 たとへば今回の画像は何かの意図があつたわけでなく、仮にあつたとすれば、余りにも捻りのない宣伝文句に苦笑ひが浮んだくらゐしか思ひ出せない。それをトリミングしてモノクロに変換して周辺減光をかけただけである。さうすると何となく勿体振つた雰囲気になつたのだが、かういふ画像を使ふなら、饒舌を添へなければ成り立ちさうにない。ある寫眞が一枚あるとして、その一枚の寫眞でどんな風に"共犯関係"を結ぶかには色々な手法があつて、その云ひ訳も色々とあつて、私の立場からそれを書いてみた。

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by vaxpops | 2017-02-14 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(4)