いんちきでさらにマクガフィン

by 丸太花道@乳軟部

カテゴリ:徒然諸々( 472 )

ダブルポテト問題

曰く、"上の"なら上つぽく、"下の"なら下つぽい味に仕立てますよ、と。

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残念ながら、食べ較べるだけの勇気は、持合せてゐなかつた。

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by vaxpops | 2017-07-16 08:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)

閑雅にはあらず

 夏を題に取つた和歌で、暑いのが我慢ならないとか、水が温くて不愉快とか、さういふのは見当らないさうですね。絶無ではないにしても、風に揺れる水面が涼しさうとか、夜の虫の音が秋みたいだとか、そんなのが大半だといふ。これは

『暑いとかむしむしするとか、文句を云つたところで、暑くなくなつたり、からりとしたりする筈もないんだから、涼しさうな歌で、さういふ気分にならうぢやあないの』

詰り文學的冷房なのだ。といふ説は勿論私の頭に浮んなのでなく、確か丸谷才一の随筆に書かれてゐた。巧妙な見立てだなあ。せせこましいと云へばその通りだけど、閑雅に転じさせたのも、大した工夫である。

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 それで涼やかと云つたら、矢張り観月だらうと思つて、月見蕎麦を啜つた。さうしたら大汗をかいただけで、閑雅も何も、ただこまつた。

 冷しにするべきだつたか知ら。
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by vaxpops | 2017-07-12 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

連想

 最近めつきり、紙燐寸を見掛けなくなりましたね。煙草を喫むひとが減つてゐるのだから、嘆くにはあたらない。それに電子タバコと云ふのか知ら、ああいふのが受け容れられて、"煙草の先に火を点す"なんて、もう時代遅れの行為になつてゐるのかも知れない。併し喫煙者の愉しみには喫煙具も含まれてゐるもので、煙草入れや灰皿、ライターを挙げれば、煙草を喫まないひとにも漠然と想像してもらへるだらうか。ジッポーの収集家がゐるでせう。私にその趣味はないけれど、気分は解る。ライカ収集に似てゐるんぢやあないか。

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 燐寸も喫煙具の一種なのは云ふまでもない。詳しいことは判らないが、撰び始めると中々に奥が深いさうで、あるシガーバーで教はつたのは、葉巻を嗜む際には、葉巻向けの燐寸を使ふ。頭が大きくて、軸も太く、また長い。葉巻には、紙巻煙草より強い火を長く点けなくてはならず、それ用の燐寸がちやんとあるのだ。序でに云ふと、灰皿もまた、長方形で葉巻をしつかり置ける形状になつてゐる。一本点けると、太さにもよるが半時間近く、くゆらすことになるから、それに適した形が必要なのだな。
 さう云へばそのバーにはもう長いこと、足を運んでゐない。場所が妙なところで、切つ掛けをなくして仕舞つたのだ。勿体無い。お客の中には葉巻だけでなく、パイプを嗜むひともゐたな。葉の撰び方や保存方法の知識を交換してゐて、嗜好品の正しい意味がそのままカウンターにあつた記憶がある。そこでは三杯呑んで、葉巻を一本もらつて五千円かそのくらゐだつた。知らない話を教はる値段も含めたら、まあ妥当なところだと思ふ。呑ませるものが旨かつたのは、云ふまでもなく、でなければ一時期であつても通ひはしない。
 面白かつたのは、件のバーでは賣りがハイボールだつたことで、あんなのソーダで割ればいいんだよと思つてゐると、背負投げをくらふ。氷とソーダとヰスキィを案配宜しく一ぱいのグラスに纏めるのは、非常に高等な技術が要求される…らしい。ヰスキィに何の銘柄を使ふかで、ソーダの口当りが丸で異なる。尖つた感触の時があれば、まろやかな舌触りの時もあり、バーテンダーの動きを見ても、どこでちがひが出るのか、さつぱり判らなかつた。素人目に判らない技術があるから、カウンターの中にゐるのだらうけれど。
 それにこれは他のバーで経験したことがないのだが、そのバーテンダーが"フロート"と呼んでゐる作り方があつた。どちらかと云へばかる目のヰスキィをハイボールに仕立てた最後、表面に薫りの濃いヰスキィを匙一杯、乗せるのだ。銘柄の組合せが巧妙だつたのだらう。涼やかと濃厚が同時に味はへて、大きく飲み干したくもあり、変化をゆつくり樂しみたくもある、悩ましい一ぱいであつた。

 画像の紙燐寸のお店でも、ハイボールを呑んでゐる。但し残念ながら、"フロート"藝は味はへない。
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by vaxpops | 2017-07-11 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

冷し中華について

 好物…いやちがつた、大好物なんである。だつて、旨いぢやあありませんか。暑い季節に貪り喰つてもいいが、寒くなつてから部屋を暖めて、啜りこむのだつてまた、うまい。

 昂奮してはいけませんね。
 クールにいかう。
 冷し中華だけに。

 ああいふ麺料理、大陸では見掛けないさうですね。何かの本で讀んだ記憶があるのだが、かれらは我が邦に來て、食べものに多大な興味を示し、また實際に食べもして、併し驛弁の冷たいごはんが喉をとほらないのだといふ。大陸人にとつて、食べものは(原則として)温かいまたは熱いものらしい。
 元は衛生の観念なのだらうな。温かな食べものは火を通した證だから。それに火をたつぷり使ふのは、豪奢…詰り燃料代を気にしない態度…でもあつた筈で、さういふ習慣に舌が馴染みきつたひとにとつて、驛弁の冷たいごはんは、困惑させられて仕舞ふでせう。

 さう考へると、我われのご先祖はいつ頃から、冷たいごはん…食べものを平気で口に出來るようになつたのだらう、と不思議になる。たれの本で讀んだか記憶にないのだが、ある殿上人が
 「豪勢な宴席は、もう飽いた。何か粋に食べられるものはないか」
と無理を云ひ出した時に、下人のひとりが、(炊いた)米を水で洗ひ、笹の葉に乗せて差し出した話を思ひ出した。確か源氏に因んだ洒落で、その貴族は大きに褒めあげ、小袖を賜つたといふ。本当かどうかは別として、冷した食べものが(少なくとも)(それなりに)地位を得てゐなければ、かういふ話は成り立たない。

 思ふに我われのご先祖は、汁ものを除いて、熱くした食べものに然程の拘泥を見せてゐなかつた気配がある。現在の我われに一ばん近しい日本料理は懐石か精進の筈だが、どちらにも熱さそのものを味はひに入れた料理が浮ばない。夜の和室の行灯のやうな、ほの温かさは連想されても、舌を焼く昂奮は縁が遠いでせう。不思議である。
 ごく単純に、火(薪や油も含めて)がおそろしく貴重だつたと考へればいいのか。干して漬けて、或は醗酵させて食べるのは、嗜好ではなく、必要だつたからで、その必要が嗜好の基になつたと見るのは間違ひだらうか。…といふ考察は、この閑文字の目的ではない。不思議は不思議のままで、我われは何かの事情で、冷たい食べものにそれ程の厭惡を感じないとだけ、理解しておかう。

 そこで冷し中華なのだが、どうも發祥が判然としない。といふより發祥以前に、冷し中華つてどんな食べものなのか。私の中では
 『うでた中華麺を冷たく〆めて深めのお皿に盛る。そこに胡瓜、錦糸卵、ハムまたは叉焼を麺と同じくらゐの細さに切つたのを乗せる。そこに酸味のきいたたれをたつぷりかけ、出來ればトマトや紅生姜を添へ、余裕があれば海月も加へ、少々辛子をきかせた』
 我が邦独特の麺料理だといふことになるのだけれど、親愛なる讀者諸嬢諸氏から猛烈な反論が出る可能性がある。

 "酸味のきいたたれ"と書いてあるが、たれと呼んでいいのか。つゆまたはソップではないのか。
 何故トマトなのか、うで卵にするべきである。
 マヨネィーズを忘れるなんてお話にならない。
 いや盛るのはお皿ではなく丼ではあるまいか。

 「まつたく丸太は、冷し中華のことを丸で解つてゐない」

 ここだけが大合唱になりさうだね。
 冷し中華への理解の深さは兎も角、侃々諤々になるだらうことは容易に予測出來て、かうあつてもらひたい、かうあるべきである、と論ずる余地があるのは、冷し中華が未だ完成されてゐない證であらう。併し前述の"〆めた中華麺、細切りの胡瓜とハム(または叉焼)、錦糸卵に酸つぱいたれ(仮称)"は受け入れられると思はれる。詰りそれが原型なのではないか。

 ではその原冷し中華はどこから導かれたのかと疑問が續くのは、人情として当然のことで、そこにラーメンがあるのもまた、当然でせう。眞夏にラーメンは熱すぎる。何とかならないか。切つ掛けはそんなところだつたらう。たれが云ひ出したのか…きつと我が儘な常連客にちがひない。
 ラーメン屋の親仁は何を考へたらう。身近で参考になりさうな"冷たい麺"と云へばざる蕎麦と考へられる。ここから推察するに、プレ冷し中華はざる蕎麦を眞似た、今でいふつけ麺に似た姿だつたか、もしくは平皿に冷たくした中華麺と、同じく冷たいソップを打ち掛けた程度。旨くはなかつたらうね。常連客もがつかりした筈だ、気の毒だなあ。

 それで思ふのは、あの酸味のきいたたれ(とここでは呼びますよ)を使つたのが、冷し中華のエポックではなかつたか、といふこと。天才的な發想だよね。どこからあの組合せに到つたのか知ら。
 最初に連想されるのは酸辣湯でせう。文字通り酸つぱくて辛い一種のソップ。大陸人はかういつた極端な味のあしらひ方が實に巧妙で、ラーメン屋の親仁がその技術を知らなかつたとは考へにくく、試行錯誤のプレ冷し中華の中で、酸辣湯も試されたとする方が自然な想像だらう。ただ酸つぱさは兎も角、辛みは眞夏に似合はない。常連客の舌にも適ひにくかつたのではないか。

 酸味を何とか活かさねばならぬ。
 お客の舌にも適はさねばならぬ。

 鯵の南蛮漬けが登場したのはこの辺り、といふのは根拠も何もない空想だが、ありさうな気がしませんか。私はそんな気がする。だつて、旨いもの。涼やかな硝子の器に、玉葱や鷹の爪、ピーマンにパプリカの彩りが相まつて、いかにも夏に似つかはしい。
 これだ!
 びつくりマークつきで、ラーメン屋の親仁が掌をうつたかどうか、そもそもが根拠のない想像だから、そこは解らないとして

①ざる蕎麦のつゆ
②酸辣湯
③鯵の南蛮漬け

が渾然一体となつて、冷し中華のエポックであるところの、"あの酸味のきいたたれ"に昇華されたと考へるのは、無理のある流れではなささうに思ふのだが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には如何だらうか。

 ここまで書いたことが、事實かどうかは別として、冷し中華といふ奇妙な麺料理が、様々の國の様々な調理法を取り混ぜた上に成り立つてゐるのは、誤りのない理解の筈である。ゆゑに我われは尊敬をもつて、冷し中華に臨まねばならない。そこで問題になるのは、どのように食べるかといふ点になるのだが、これは私の手に余る。
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by vaxpops | 2017-07-07 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

密かな樂しみ

 前後は覚えてゐない。昔の日本人は随分と歌を詠んだ、といふ話。名も残らない、和歌を習つてゐる少女が、嬉しいことがあつたと詠み、哀しいことがあつたと詠み、先生に褒められたといつてまた詠んだ、そんな話。

 かういふ風潮がいつ頃まで残つてゐたか、私は知らない。永井荷風は断腸亭に揮毫を求められたと記してあるし、内田百閒もその著書に幾つかの句を載せてゐる。また丸谷才一にもユーモラスなものがあるが、いづれも發句であつて和歌(乃至短歌)ではない。それでもこの世代の人びとに、何かと云へば詠む習慣は(薄つすらでも)あつたのは事實と思はれる。ここから考へるに、明治から大正にかけて産まれたひとには、多少なりとも歌ふ感覚はあつたのだらう。

 今ではゐないでせうね、かういふひと。辛うじて川柳が余命を保つてゐる程度ではないか知ら。それに川柳詠みといつても、何かにかこつけ、一句を捻つてゐるとは思へないから、五七五(七七)の短詩は、滅んだのに等しいと見立てても誤りにはならないと思へる。

 不思議ではある。
 短い文章(の一種)だから、現代向きの形式だと思ふんだが、ちがふのだらうか。

 かう書くと、古くささうとか、季語だの枕詞だの何だのと、規則が解らないとか、反論または文句が出てきさうで、古くささは兎も角、諸々の規則の方は、私もさう思ふ。併し知らなければ詠めない理由があるわけでなく、序でに知らうとすればよいので、支障があるとは云ひにくい。
 發句の形式でも短歌の形式でも、取敢ず、字を並べてみればよささうな気がされる。勿論それは字数だけがあつた、最初は変形の散文だらうが、別にかまはないでせう。偶には言葉が上手く嵌まりこむ瞬間だつてあるだらうし、 定型詩の方が、さういふ機会に恵まれる筈である。

 ここまで云へば、勘のすすどい我が親愛なる讀者諸嬢諸氏のことだから、ははあ丸太は自由律の散文詩に苦手を感じてゐるのだな、と推察されるだらう。
 正しい。
 僅かな例外を覗けば、自由律の散文詩は解らない。多くの場合、一讀して、これは果して詩なのか知らと不思議になつて仕舞ふ。尤もらしい改行と、意味の重ならない抽象的な言葉と、貧弱な譬喩。そんな風に感じるのが殆どで、迷惑だよね、ああいふのを讀まされるのは。いや失礼。

 とは云へ、仮にも詩を書かうかとするなら、言葉の撰び方は慎重丹念が求められるでせう。そんな場合、好き勝手な形式より、定まつた型で工夫を凝らす方が好もしいと思へるんだが、をかしな見立てだらうか。
 そこまで云ふなら丸太はどうなのか。詠んでゐるのか、と疑問を持たれるのは当然。結論をそこで申し上げると、詠んでゐる。但し他人さまに見せられるかどうかは、まつたく別の話。これは丸太の密やかな娯樂なんである。
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by vaxpops | 2017-07-06 07:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

身近な金属

 身近な金属と云へば、罐麦酒に罐詰である。私はさう、思つてゐる。かう書いて、常用の灰皿も金属製だと思ひあたつた。どれもこれも、近すぎて金属といふ意識が持ちにくいね。

 罐麦酒も罐詰も灰皿も、軽いからだらうか。

 印象の話ではあるが、"金属製と重さ(う)"は直かに結びつく。たとへば30年ほど前のカメラを思ひ出すと、まつたく重い物体だつたでせう。レンズをつけて1キログラムくらゐ、あつたんではなからうか。掌がああいふ重さを記憶してゐると、かるい金属物体を持つても、それを金属製だと理解しにくくなつて仕舞ふ。

 ただ罐麦酒やら罐詰やらには、手元にあると安心感がある。この"心理的な重さ"は中々大したもので、今日の晩酌とつまみは大丈夫だ、と思へるのは有り難い。かういふ感覚はカメラだと余り感じた記憶がないのは何故だらうな。

 随分と前、ニコンのF4にトキナーの24-40ミリをつけて使つたことがある。可也り重たい組合せで、だがそこに安心を感じたかと云へばそんなことはなかつた。持ち運びながらひたすら、この野郎重たいよと、自分の持ち物なのにぶつくさ云つてゐた。但し構へた時は、その重さが必要な場所に分散されて、實に素晴らしい安定感だつたのには驚いた。その驚きは他にライカM3と90ミリ・ズミクロンの組合せで感じたきりである。

 とは云へこの場合、私が感心したのは重さの配分の妙の方で、罐麦酒乃至罐詰の(心理的な)重さとは異なつてゐる。軽いと云つたり重いと云つたり、我ながらいい加減なものだなあ。

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 画像の身近な金属物体には、からく調へられた鶏肉が入つてゐた。
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by vaxpops | 2017-07-04 07:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(4)

逆境鐵骨

…。

…。

…。

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間ちがひ。

逆光鐵骨。

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by vaxpops | 2017-07-03 08:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)

不逞の輩

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には"不逞の輩"と云へば直ぐ、ニューナンブと結びつくでせう。怪しからん連想だが、誤りとも云ひにくい。そのニューナンブはこの年度から、月に一ぺん、集まる機会を持つことになつた。定例クリルタイである。

 参集は(勿論)義務ではない。時間のあつた面々が賑やかに呑み、喋り、笑ふ。さういふ集り。ここで慌てて念を押すと、我われはただ、呑んで喋つて笑つてゐるだけではありませんよ。前年度は"マスケティアズ"を名乗つて、冩眞の活動をした實績だつてあることだし。えへん。

 へーえ、では今年度はどうなの。
 さう訊くのですか、そこの貴女。
 さう訊くのですね、そこの貴女。

 ありますよ、ちやあんと。

 称して、"液温24℃"といふ。

 現在、冩眞から距離を取つてゐる私だが、かういふ面白くなりさうな…いや面白くするのでもある…不逞の企てから距離を置く手はない。その"液温24℃"の一番手は頴娃君である。詳しいことは近々、かれのウェブログで明らかにされる筈なので、期待して頂きませう。

 さういふ話とさうでない話で呑みながら、うまいものを(例の呑み屋で)喰つた。

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 先づ、鰹。大蒜が効果的で旨かつた。品書きには土佐造りとあつたが、どこがどう土佐の造りなのだらう。何せ土佐人に知合ひがゐないから、本筋なのなどうか、見当もつかない。

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 續いてしらすを乗せた玉子焼き。下手にしらすを混ぜ込むと、妙な磯臭さが鼻につきかねず、こちらの方が好もしい。大根おろしが少ないのが些か残念だけれど、それは贅沢か知ら。

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 更には合鴨のロースト。こいつは山葵醤油でやつつける。脂つ気は感じられるが、口当りがすつきりするのが宜しい。お酒には刺身よりかういつた肴の方が似合ひさうに思はれる。

 三人で空にしたお酒は冷やで八合くらゐ。不逞の輩たちにしてはやや控へ目な量だつたと思ふ。どうも普段より酔ひの廻りが早く感じたが、さてこれは久しぶりゆゑか、ただ弱くなつたからか。詮もないことを考へた。
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by vaxpops | 2017-07-02 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

夢魔

ナニかに引き摺られて
入つた場所は

ナニかの誘惑があつて
確かにそれは

ナニかの愉快もあつて
確かに感じた

ナニかに弄られた筈で
併し解らない

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夢魔に玩ばれた夜の欠片

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by vaxpops | 2017-07-01 07:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)

非クライマックス

 便利だなあと思ふ。えーと、これはスマートフォンのカメラ機能で使へる加工について。

 ご覧になつて直ぐに判るだらうけれど、上の画像が元のもの。下が色々に加工した結果。かういふ遊びをその場で出來るのは、大した發明だと思はれる。デジタルカメラでも不可能ではない筈だが、あちらで撮るのは冩眞。スマートフォンに収めるのは画像だから、扱ひがちがふ。

 なんと丸太はさういふ区別をするのか。

 と詰め寄られたら、ええその通りと応じたい。何かしら趣味的な行為をする時、そこで用ゐる器材…もつと恰好よく道具と云つてみたくもある…に格をつけるのは当然の態度ではありますまいか。
 有り体に云へば私はスマートフォンのカメラ機能をひくく、詰り格下に見てゐる。ゆゑにそれを使つた画像もひくく(格下に)見てゐて、加工…どこからがそれなのか、ここでは深く考へません…に躊躇ひを感じないのはその所為かと思ふ。但しそのひくく見るのと、惡いが結びつくわけでもなく、我ながらややこしい心理だなあ。

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 手元にアグファ銘でsensor 505-Dといふ型番の玩具デジタルカメラがある。乾電池で動く500万画素の機種。手に入れたのは随分以前だから値段は覚えてゐないが、玩具だから相応だつたのだと思ふ。それにはハクバだつたかのグリップと携帯電話用のコンバージョンレンズを取りつける為のリングを貼り付けてある。だから元に戻せないのだが、さういふ扱ひで問題はない。本もののアグファなら敬意を持つて丁寧に扱ふけれど、こちらのアグファはおもちやだからといふのが理由。

 sensor 505-Dそのものの話は別の機会にするとして、この玩具だからといふ気分、スマートフォンを使つた画像にも反映されてゐると思ふ。も少し具体的にどんな気分なのかと云へばそれは。
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by vaxpops | 2017-06-27 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)