いんちきでさらにマクガフィン

by 丸太花道@乳軟部

カテゴリ:徒然諸々( 447 )

無念

 佛語の綴りは croquette 、蘭語綴りだと kroket になる。日本語を同じ伝で綴ると korokke ださうで、發音はクロケットまたはコロッケ。潰した馬鈴薯またはベシャメル・ソースに挽肉や玉葱や魚介を混ぜ、衣をつけて揚げた食べものと、大雑把には定義出來るらしい。我が邦で馬鈴薯が基本なのをコロッケ、ベシャメル・ソースを基本にするとクリーム・コロッケと呼び分けてゐるね。ただ日本流のコロッケには南瓜だの肉じやがだのと変種が数多くあるから、一概にどうかう云ふのは六づかしい。さう云へば『檀流クッキング』(檀一雄/中公文庫)には"大正コロッケ"といふ、おからと魚の擂り身で作るコロッケが紹介されてゐて、これが中々旨さうであつた。気になる方はご自身で一讀なさい。損はしないと請け負ふから。

 併しそのクロケット乃至コロッケがいつ頃、どの辺りで生れたのか、もうひとつ、はつきりしない。日本コロッケ協会といふ権威ありげな団体のサイトによると、"1872年 文献にはじめてクロケットが登場"…日本でいへば明治の4-5年にあたる…と記載があるが、肝心の文献が西洋のそれか、日本のものなのか、触れられてゐない。困るなあ、これでは。併し同じサイトの1887年のところに、注意書として"オランダには1909年にフランスからクロケットが伝來した記録が残つてゐる"とあるから、そこまで古い料理ではなささうである。因みにクロケットの來日は明治20年。西暦だと1887年らしいから、蘭人よりざつと20年前に我らがご先祖(の一部)はクロケットの味を知つたと考へられる。尤も庶民に持て囃されるまでに30年ほど掛かりはしたけれど。

 ものの本によると(かう書くと池波正太郎風になるね)、我が邦でコロッケが大流行したのは大正年間らしく、ビーフ・ステイク、とんかつと並んで"三大洋食"と称された中でも一ばん高級品だつたさうだ。おそらく種を用意する手間の分がそのまま、値段にはね返つたのだらう。上手下手を問はなければ肉を焼くのは原始的な手法だし、カットレットは天麩羅の技術が応用出來た。クロケットだつて天麩羅の応用と見られなくもないが、種に限ればさうとも云ひ難い。近いところを考へれば掻き揚げが浮ぶとして、いやそれは無理やりな感が強いか。我われのご先祖は甘薯を(ある程度)大事にした経験はあつても、馬鈴薯の料り方は詳しくなかつたらうし、まして乳を使つたソースなぞ、あることすら知らなかつた筈だもの。

 裏を返すと種を作る手法を把握すれば、後はフライの技術がものをいふだけになる。クロケットがコロッケになつたのはおそらくここからで、大正から昭和初期にかけてがその時期だつたのではあるまいか。これは傍証に『断腸亭日乗』(永井荷風/岩波文庫)の記述を挙げてもいい。具体的な献立には欠けるけれど、大正末年から昭和に掛かる頃、この小説家が足を運んだお店(中には怪しげな、けしからぬ場所もある)を見ると、洋食を供してゐたとおぼしき名前が散見される。キュイラッソオを一盞、小星と傾ける伊達者が洋食を食べなかつたと想像する方が寧ろ無理といふもの。かれが食しただらうクロケット或はコロッケは馬鈴薯型だつたか、ベシャメル式だつたか、さういふ記述が見られないのは残念である。

 荷風山人が銀座のカッフェーでけしからぬ素性の女と遊んだ頃から20年もしないうちに、ところが我が邦は戰争の途を撰んだ。阿房な眞似の出來たものだと後世の私には思へてならないが、この時期コロッケ…だけでなく、洋食全般は潰滅に等しい状態に陥つただらうことはほぼ確實でせう。お米も野菜も味噌も醤油もお酒も配給で、コロッケも何もあつたものではない。明治に訪れ、大正に人びとを熱狂させたコロッケは、半世紀余りで一ぺん、駄目になつた。吉田健一は何度か、戰中戰後の食事が如何に貧相だつたかを記してゐて、大宰相の伜でもと意外を感じたが、あの首相は戰中、軍部に睨まれてゐたことを思ふと、不思議でもないか。吉田は英國に馴染みが深いひとだつたから、ベーコンやママレード、或はスモークト・サモンから引き離されて辛かつたらうな。

 併し今も洋食はあり、洋食屋は繁盛し、そしてコロッケは私を喜ばせる。コロッケの復活劇があつたからさうなるのだが、それがいつ頃から…"喰へればいい"から脱却出來て以降の筈…なのか、どうもよく判らない。ただ原型になるものは進駐軍がもたらしたと考へられるから、戰後間もない時期、特定の場所でささやかな回復が始まつたと見るのは誤りではない。昭和20年代の後半から、食べものの制限は順次解除されてゐて、餓ゑをしのげれば満足な時代も、この辺りから徐々に終焉を迎へたのかと思はれる。といふことは、昭和30年代過ぎからコロッケも本格的な復活に向つたのではなからうか。ちよいと洒落て、高級な洋食だつたコロッケが、ありふれたお惣菜に変化を遂げるのはこの間で、私にも我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも馴染み深いあの形とあの味は、實にナポリタン・スパゲッティと並ぶ近代洋食なんである。

 ナポリタン・スパゲッティについては後日に稿を改めるとして(詰り一ぺん、書いてみたい)、どんなコロッケが望ましいだらう。近代洋食の目で見るなら、馬鈴薯に挽肉と玉葱で仕立て、ウスター・ソースで平らげるのが基本中の基本かと思へる。フライものの揚げたては"何もつけない"のだと主張するひとがゐて、概してそれは正しいのだが、コロッケに限つては例外で、最初からソースを使ふのが宜しい。
 では遡つて大正の紳士淑女やモガ・モボを夢中にさせた原日本式コロッケはどうだつたのか知ら、と思ふのは人情の当然であつて、少し調べてみた。基本的には現代のそれと大きなちがひはなささうだが、『軍隊調理法』といふ本(明治43年發行/國立國会図書館のデジタル・アーカイヴで閲覧出來る)によると、今のコロッケより種はやはらかさうで、ソースに触れてゐないところから味つけも濃いめのやうだ。別のサイトを見ると、種に最初からドミグラス・ソースを混ぜ入れるといふ記述もあつて、可也りふはつとたした仕上りになるらしい。揚げるのがたいへんだらうなあ。併しかういふコロッケが鎮座し、トマトやセロリやレタス、シュリンプ・カクテルに彩られたお皿が登場することを思ふに、何とも云へない昂奮を感じて仕舞ふ。葡萄酒でも奢つて、荷風式のモダーンな気分を満喫したいところだが、私にはけしからぬ素性の小星がゐない。無念。
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by vaxpops | 2017-05-25 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(1)

明治めし

 日本人の文化的な意識の規範を遡ると室町の時代に辿り着くといふ説を目にした記憶があつて、確か司馬遼太郎だつたと思ふが、何しろ曖昧な記憶だからあてにはならない。そこは措くとして、ずいぶんと説得力に富んではゐる。今に残る建物や所作、或は藝能の根を探ると確かに室町人の姿が遠冩しに浮んできて、後を承けた織田豊臣徳川は300年余りをかけてそれを磨いてきたのかとも思へてくる。現代から見て最初のエポックだつたのではなからうか。わざわざ"最初の"と云ふくらゐだから、"次の"エポックがあるだらうとは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏のすすどい推察を待つまでもない。

 ところで開國した我が邦が案外なほどスムースに西洋文明を受け容れ得たのは、その室町から江戸期いつぱいにかけて、流通を基盤にした経済圏が整へられたところに要因のひとつを挙げられないだらうか。ごく大雑把に云ふと、当時の日本は半獨立國の集まりと見立てられる。今で云へば欧州連合(あくまでも大把みの話ですよ)が近いと思はれる。詰り貿易があり、為替や相場があつた。米の代金が相場を作り、蝦夷地の密貿易で得た大陸の布切れが京大坂でいい商品になり、西のお酒や醤油が下り物として江戸で珍重されたやうな例は幾らでもあつて、これは非常に西洋的な(が大袈裟なら近代寸前の)光景である。殖産工業だの富国強兵だのといつた惹句は莫迦げてゐなければ痛切可憐なのだけれど、その惹句を掲げた我が邦が列強式の経済圏に(曲りなりにも)潜り込めたのは、室町江戸の長い準備期間があつたからだと考へても強ち無理とは云へないでせう。

 では(前近代的な)経済圏が出來てゐたといふのは何を意味、または暗示するのか。と疑問を抱くのは当然の人情で、私はそれを"生活圏の中では見られない品々"に馴れる契機になつた点ではないかと思つてゐる。どうやら世の中、隣近所では賣られてゐない(珍しい或はうまい)物があるらしいぞ。とは経済圏…流通網の確立と充實があつて感じられる筈で、その充實を地域で受け容れることで、緩やかな変化をもたらしただらう。詰り鎖國的と云ひながらも均質ではなく、更に異質が…質や量の多寡は問題ではない…流入し得た状態が300年續いたのが次のエポックに繋つたのかと思はれて、やつと話が今回の題名にも繋がる。

 "明治めし"といふのはこの稿だけの仮の造語だから、他で用ゐると恥をかく。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には注意して頂きたい。今の日本の食卓は遡れば明治の中ごろ以降に根があると思ふ。

明治27年 ウスターソース販賣(越後屋)
 ※日清戰争
明治32年 とんかつの原型誕生(煉瓦亭)
 ※東京大坂間に電話開通/現在の森永創業
明治36年 ケチャップの製造販賣(清水屋)
 ※藤村操自死/平民新聞創刊
明治38年 國産カレー粉の製造販賣(大和屋)
 ※旅順要塞陥落/日本海海戰

 コロッケは大正6年頃の大流行、マヨネィーズは大正14年發賣(キユーピー/当時は食品工業社)だから稍遅れてゐるが、ひと續きの流れと見て差支へはなからう。序でながら『西洋料理指南』『西洋料理通』と題された本が明治5年に刊行されてゐたから、その当時から(限られた階層ではあつたらうが)どうも西洋料理とかいふ食べものがあるらしいといふ噂…風聞はあつたのだらう。念の為に明治5年から27年にかけてを俯瞰すると、廃刀令があり、西南戰争があり、大久保利通が暗殺され、鹿鳴館の莫迦騒ぎ、大日本帝國憲法發布とまことに慌ただしい。前途多難といふか先行き不透明といふか。

 併し國事多難とは云へ、多難だつたのは未だ政府の豪いひとだけだつたとも推察出來て、日本人全体が惨烈な状況に巻き込まれるのは日露戰争からだらう。庶民が近代的な意味での國民になつた切つ掛けとも呼べるわけだが、かういふ話は私の手に余る。詳らかなところは近代史の研究家に任せるとして、その間、庶民乃至國民はしぶとく新しい食事を受け容れ續けた。前段で触れた経済圏と流通網による変化が予習になつたのだらう。更に単に受け容れただけでなく、それを自分たちの舌に適はす工夫も怠らなかつたことは特筆してよいと思ふ。
 コロッケやとんかつ、カレーライスにハヤシライス、オムレツに種々のフライ、煮込みの応用でもあつたらうシチュー(ごく初期の紹介は大正13年頃らしい)は無名の人びとの工夫…或は喰ひ意地の發露であつた。前時代には無かつた食べものを半世紀掛けて、現代のごく当り前に変化…昇華させた原点が"明治めし"で、これをエポックと呼ばない理由は見当らないでせう。我われはこの"明治めし"を生み出した先人にふかく謝意を示さねばならないだらう。そこで気になるのは具体的にどんなものだつたのだらうといふ点で、たとへばかういふ記述がある。

「葱1茎、生姜半箇、蒜少計を細末にして牛酪大1匙を以て煎り水1合5勺を加へ、鶏、海老、鯛、牡蠣、赤蛙等のものを入て能く煮、後カレーの粉1匙を入煮る。熟したるとき塩に加へ又小粉大匙2水にて解きて入るべし」

 前述の『西洋料理指南』に書かれてゐるカレーの作り方(表記はこの稿にあはせて変更してゐる)で、鯛や牡蠣は兎も角、赤蛙を用ゐるのには少々驚いた。まさか全部を一ぺんに入れるわけではなからうな。中國料理では蛙を田鶏と称するから、鶏肉が手に入らない時の代用だつたのか知ら。牛酪は今で云ふバタ。上の手順を現代文風に訳すと

①細かく刻んだ葱と生姜と大蒜をバタ(大匙1)で炒める。
②そこに水270ミリリットルを加へ、鶏や海老、鯛、牡蠣、赤蛙なぞを入れてよく煮る。
③カレー粉1匙を加へる。
④煮えたら塩、それから小麦粉(大匙2)を水で溶いて入れる。

となつて、中々旨さうである。文明開化のごく浅い時期にこれだけの指南書が書けたのだから(實際葱を玉葱にすれば現在のカレーと殆ど同じくらゐに思はれる)、大したものではないか。当時の手順に忠實な"明治めし"…カリーだけでなくクロッケットやカットレットも…を用意するお店があれば、是非にも通つてみたいものだ。平らげるだけ平らげて、我われは室町人や明治人のやうなエポックを作れるのだらうかと、がつくりする心配があるのだけれど。
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by vaxpops | 2017-05-16 17:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

ソース焼そば探偵

 焼そばと聞くと小腹が減つたと思ふ。減つてゐなくても思ふことがあるから、一種の條件反射なのかも知れない。どこにその條件があるのか、判らないけれど、浮んでくるのは大体、鼻孔をくすぐるウスターソースの香り、豚肉の欠片か赤いウインナー、キヤベツ、毒々しいくらゐの紅生姜、それから親愛なる讀者嬢に会ふ前には困らされるにちがひない青海苔。或は鐵板の隅で焦げついた麺を含めてもいいか。あれはあられみたいで旨いんだよ。…と書いて思つたのだが、どうやら"私の焼そば"の印象は、屋台で賣られる安つぽいソース焼そば"にほぼ等しいみたいだ。塩味や醤油味仕立て、あん掛け、堅焼そばの立場はどうなるのだと叱られさうで、併し私の印象…即ち思ひ込みだからどうにもならない。

 正確さは保證の限りではないとして、原形は中國の炒麺(チャーメン?チャオミェン?)であるらしい。炒めるか揚げるか焼くかした中華麺に具を加へるか、あんにして掛けるかする調理法ださうで、前述の塩または醤油またはあん掛け乃至堅焼そばが近縁にあると考へていいでせう。さうなると我が邦と中國の焼そばを隔てたのは、ウスターソースと見立てて間違ひにはなるまい。ざつとしたところ

・19世紀初頭 英國で偶然發生
・19世紀前半 素早く英國で商品化
・19世紀末期 明治中頃の日本で量産開始
 (試作はもつと早かつたらしい)

といふ流れらしく、どう長く見ても100年経たず日本に入つたと考へていい。案外と早いね。尤も醤油と味噌が左大臣右大臣を張つてゐた時代だから、ウスターソースの割り込む余地は当初、ごく狭苦しいものだつたにちがひない。
 ではいつ頃から受け容れられてきたのかといふと、はつきりしない。明治人にとつてのウスターソースは"西洋醤油"だつたらしいが、西洋人は日本人のやうにざぶざぶ用ゐはしなかつたから、そのままでは使ひ辛かつたと想像出來る。おそらく西洋料理から洋食への変遷と發展と受容に併せ(当時のハイカラな若ものがひと役買つたのは疑ふ余地がない)ウスターソースも醤油的に変化したとすれば、本格的な受容は明治末から大正年間辺りだつたと推測して誤りにはならないだらう。

 では日本の焼そばが誕生したのはどうなのだと疑問が浮ぶのは当然で、さうなると中華麺が入つてきたのはいつ頃だといふ話になる。すりやあずいぶんと古いにちがひない。だつて水戸人が
『我が邦で最初にラーメンを食したのは我らが光圀公にあらせられる』
と自慢するくらゐだもの。これが大体17世紀中頃の話。確かに古い。
 但し水戸人には申し訳ないが、ご老公が召し上つたのは明國風の汁麺だつた。記憶で書くと再現したそれは、具のない汁そばに小皿で幾種類かの薬味を添へたやうなものだつたから、原形の元くらゐが精々と云つてもいい。それに朱舜水(日本に亡命して水戸に在つた明國の遺臣。光圀公に例のそばを振る舞つたのはこのひと)は中華麺を自分で用意したといふから、これをもつて中華麺の受容とするのは無理がある。開國によつて清人が入つてきた辺り…詰り慶應から明治初年前後にかけてと見る方が正しからう。

 天麩羅を持ち出すと余談めくが余談にはならない。江戸の頃の天麩羅は現代風にいふファストフードのやうな食べものだつた。種を串に刺し、小麦粉の衣でのんびり揚げたのを屋台で(火と油を扱ふので、店を立てるのは禁じられてゐた。火事への対策または恐怖の顕れである)賣つたらしい。ひと串何文だかで小腹を満たす下々の樂しみだつたのだらうな。
 ちよいと羨ましく思はなくもないが、ここで注視したいのはのんびり揚げた点である。たつぷりの油を高温にして、素早く揚げられなかつたからとは直ぐに解ることで、詰り火力の問題。この問題の解消と天麩羅の技術の融合がとんかつやコロッケや海老フライ、即ち洋食に直結するのだが、それはこの稿の話題ではない。

 さてここで思ふのは、炒麺乃至焼そばを作るのだつて、大きな火力が必要だらうといふこと。炒麺焼そばに限らず中國式の調理と巨大な焔はほぼ一直線に繋がる印象なのだが、そちらはまあ、措きませう。
 そこで清國の料理人が入りこんできたのが19世紀半ば頃、ウスターソースの受け容れが半世紀足らず後の話とする。とんかつが誕生したのは明治の末くらゐで、詰りそれ以前に大火力の問題は目処がついたと推測出來る。江戸人が食べたであらう和食は文明開化と大正モダンで変質乃至滅亡したと考へてよからうから、ソース焼そばが登場する條件は整つてゐたと見ても間違ひではない。さう私は睨む。割りといい線を引けたと思ふが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、如何だらうか。

 併しその先になると判らない。中國風の炒麺と西洋式の調味料の組合せが、どの程度の格で受けとめられたのか。それがどう向上し或は下落したのか。またそれらはいつ頃のことなのか。推測したくても手掛かりが見当らないのだもの。それでもまつたく判らない、とまでは云へないか。おそらく最初からそんなに高い地位を得はしなかつただらう。明治大正の我が邦でモダーンな食事が西洋基点の洋食だつたことを思ふと、がんらいの日本の食事に関りのうすい、清人が英國のコートを羽織つたやうなソース焼そばは、些か分が惡かつたんではないかと想像出來る。

 洋食気取り。
 洋食もどき。

 この辺りの評価が精々だつたらうが、決してまづくない。豪勢な具の用意を諦めれば、鐵板ひとつで廉価に作れもする。但しこれを不幸不運と呼ぶのは誤りで、私は落語を思ひ出す。けちん坊な男が鰻屋の隣で匂ひをおかずに飯を喰ふ。屋台の親爺に匂ひ賃を払へとねぢ込まれた男は銭の音を聞かせて、匂ひ賃だから音でいいだらうとやり返すとかいふ噺で、鰻の匂ひが如何に食慾をそそるかがよく判る。焼鳥のたれやカレーも同様で、かういふ"匂ひをも喰はせる食べもの"は、金華玉楼で出されても、どこかしら味気ない。我らがソース焼そばが例外にならう道理もなく、屋台や夜店や扉を開け放つて営業する潰れさうな店の軒先から、ウスターソースの焦げる匂ひが漂ふから、條件反射的に空腹でもないのにさう勘違ひするにちがひない。うん、やうやく推理が纏まつた。これからお八つにソース焼そばを食べるとしませう。
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by vaxpops | 2017-05-14 16:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)
 以前にも何度か話題にしてゐるが、気にせず書く。文章で口を糊する立場では六づかしからうとも思はれて、こんな時に素人は得をする。尤もプロフェッショナルだつたら、同じ種で一冊の本を書き上げられるかも知れず、さういふ本があれば一讀してみたい。詰りポテトサラドの話。

 ポテトサラドとは何ぞや。

 といきなりなところから話を始めるが、我われの多くはそれを、茹でた馬鈴薯を崩し、野菜や果物を加へて、マヨネィーズで和へたサラドの一種としてゐるのではないか。私はさうである。
 それで幾つかのウェブサイトを見てみると、微妙な差異はあるがおほむね、"茹でた馬鈴薯を主な材料とした"サラドとされてゐたから、ちよいと驚いた。マヨネィーズは必須でなかつたのか。併し"これぞ王道のつくりかた!"と題されたページでは具材(十)対マヨネィーズ(二)を黄金比と書いてあつた。キューピーが提供してゐるから、これでマヨネィーズを使はないのなら、そつちの方が寧ろ驚きだけれど。

 キューピーが主張する"王道の"ポテトサラドでは玉葱(薄切り)、人参(銀杏切り)、胡瓜(輪切り)にハム(短冊切り)を使ふ。マヨネィーズで和へたら塩胡椒で味を調へるさうで、これは確かに説得力がある。日本人が思ふポテトサラドの最大公約数ではないだらうか。他にもコーンドビーフに黒胡椒をあしらふ、鯖の水煮罐を使ふ、胡瓜やパプリカをピックルスにして混ぜ込む作り方の紹介もあつて、流石キューピー、どれも旨さうでこまる。

 そこで最初の結論。味変りのポテトサラドなら毎日でも宜しい。
 かう書くとたとへばマカロニサラドぢやあ駄目なのかと疑念を呈する讀者諸嬢諸氏もをられる筈で、さう断定は出來ないにしても、中々厳しいんではないかなと私は応じたい。それにマカロニの類ひなら、ポテトサラドの具に加へられるだらうとも思はれるのだが如何だらう。
 ここで前述の漠然とした定義が活きてくる。茹で馬鈴薯が主役のサラドであれば、ポテトサラドを名乗れる(可能性が大きにある)ことになつて、たつた六文字のカタカナが示す範囲はこちらが思つてゐより遥かに広い。僅か三文字のカタカナで大きな世界を示すカレーに近しい存在感(ポテトサラドの一部はカレー世界に含まれるのだが)と云つてよく、カエサル曰く寛容即ちクレメンティア…さういふ食べものと云つてもいい。

 但しポテトサラドがカレーと異なるのは、所謂変り種も十分に旨いのだけれど、結局のところはキューピー方式の"王道"に戻る点だらう。天麩羅だの月見だの冷しだのに舌鼓を打ちながら、矢張り最後はきつねうどんでなくちやあ締らないのと似てゐると思ふのは、どこかをかしいか知ら。譬へは兎も角、万人の認める基準があると云へば異論は出ないにちがひない。

 續いての結論。それでも細かな好みの相違は必ず發生する。
 一ばん大きくちがつてくるのは、おそらく(間違ひなく)馬鈴薯をどの程度まで崩すか、といふ点だと思ふ。私はペーストに近いくらゐの食感を好む。ごろごろ方式だと、折角の馬鈴薯が妙に堅く感じられるのが気に入らないからだが、これは馴染みの問題でもあるので念を押しておかう。
 もうひとつは果物を加へるか否かといふ点で、私の周辺では否定的な意見が多いのだが、私は好もしく思ふ。酸味のつよい林檎や八朔を少量入れると、その酸つぱさがポテトサラドの味をふくらまして呉れる。これもまた馴染みの問題と云へばそのとほりなのだが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏だつて、それは同じでせう。

 序でなので、もつと細かいところを幾つか挙げておくと、玉葱は生より炒めた方が望ましい。香りと歯触りが豊かになる。それからうで玉子も加へたい。堅茹でを小さく潰したの。目立たない程度で彩りがよくなる。またこれは変り種だよと批判されさうだが、枝豆も入れてもらひたいな。ペーストに近しい馬鈴薯好みには、これが歯応へになる。その代りと云つては何だが、人参は要らない。赤の色は隣にトマトを添へれば宜しい。問題はチーズとツナ罐だが、あれば喜ばしいくらゐで留めておかう。あれこれ入れすぎるのはポテトサラドの本來から遠ざかる。

 味つけは矢張りマヨネィーズを基本とする。少量の醤油を隠せば、風味は広がるだらう。色みが惡くなりさうなのが難点だから、別に用意するのが賢明かも知れない。ウスターソース(加へて三滴のタバスコ)やケチャップ、七味唐辛子、或は思ひ切つて味噌の類も同様で、最初の調味に用ゐるのではなく、その気になれば使へる準備をすれば宜しからうと思はれる。ポテトサラドはカエサルの云ふクレメンティアを体現してゐるから、さういふ調味料を受け容れる器がある。

 ただ何事にも例外はあるものだから、ポテトサラド(に用ゐる調味料)にもそれがある。即ち黒胡椒。私はがんらい胡椒の辛みをそれほど好まないのだが、羊肉とポテトサラドは別で、挽きたての黒胡椒との相性は抜群と云はざる得ない。そして黒胡椒を小皿に用意して振り掛けるのは望ましからぬとは改めるまでもなく、珈琲豆と同じく都度挽くのがあらまほしい。
 尤もポテトサラドといふ庶民的なおかずに、どこまで凝るのかと疑問は湧いてくるけれど。そしてこの疑問…黒胡椒ひとつに限らないが…は、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも提示して宜しからう。即ち、讀者諸嬢諸氏の愛するポテトサラドは果してどのようなものであるか。私はポテトサラド同様のクレメンティアをもつて、ご意見を伺ふ積りでゐる。
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by vaxpops | 2017-05-12 12:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(4)

識ス

 ふと思ひたつて、『断腸亭日乗』(岩波文庫/磯田光一による摘録)を讀み返してゐるのです。日乗は日記の意。著したのは云ふまでもなく荷風永井壮吉。日記を著すとするのは不適当の謗りを受けるかも知れないが(アンネ・フランクは日記をつけただけで著したわけではないものね)、断腸亭に限つては著すとしても誤りになりさうにない。まさかと思ひますか。だつたら最初の何頁かを捲つてみればよい。我われがぼんやりと考へる日記とは丸でちがふと直ちに判るでせう。

 どこがどうちがふのかと云へば、後年に刊行されることを明らかに理解してゐるからで、不特定多数の讀者を意識した書き方になつてゐる。刊行を望んでゐたかどうかまでは窺ふべくもないが、さうなるだらうと予測はしてゐたのだらう。自負と呼ぶべきか、意識過剰と云ふべきか。そこはさておいて、讀み物としては十分以上に面白い。讀み物だから、人物評や諸々のやり取りの正確性は割り引かなくちやあいけないけれど、随筆の変種だと思へば大した問題でもないか。

 『興味津ゝ小説を讀むが如し(大正13年3月21日)』

 と云ふのがぴつたりくる。この前年9月朔日は関東大震災の当日。この日の荷風は地震の後、山形ホテルで昼餉と夕餉をしたため、愛宕山にのぼり"市中の火を観望す"と書いてある。4日には絶縁状態の弟の妻と初めて顔を合せ、不快がつてもゐる。火災や強盗の話は絶無で、僅かに外出の際の糞尿の臭気が堪へ難いと記す程度。詰り私たちが知識として持つてゐる凄惨な實状にはまつたく無関心…少なくとも文面の上では…であつて、偏奇館主人の姿が浮ぶやうだ。

 怪しからん爺さんだと非難することも出來なくはなからうが、仮にその非難が聞こえたとして、荷風は馬耳東風で済ませるだらうなあ。1ヶ月過ぎた10月3日に江戸見阪から町を眺め、"自業自得天罰覿面といふべきのみ"と切り捨てるくらゐだもの。この偏窟者は現代…断腸亭の時間で云へば大正の末期から昭和中期…の日本を厭ふこと甚だしかつたから、帝都のひとつやふたつ潰れたところで、どうといふこともなかつたにちがひない。

 ここで大事なのは荷風山人の倫理性(非倫理的だつたといふ意味ではない。かれは欧米の文明にあくがれ續けたひとだつたが、それは時間…伝統に裏打ちされた在り方に対してで、本來の志向と嗜好は前時代即ち江戸にあつたし、明治前期生れの壮吉少年に江戸風の躾…倫理観…が影響を与へたらうことは許される想像かと思ふ)でなく、後に不特定多数に讀まれるだらうと判りつつ、非難されるやも知れない箇所を打ち捨ててゐる方ではなからうか。

 いい度胸だなあ、まつたく。

 もうひとつ。世間を慨嘆し、兄弟親族を罵り、新聞記者と軍隊をきらひ抜いた老人が、清廉で正直な自分といふ仮装にも丸で興味を示してゐない点もいい度胸と云つておかうか。怪しげな私娼窟に出入りし、私妓を連れて晩餐をしたため、ことに及ぶ夜(流石に書かれてはゐないが、ある研究によると、原本には丸印のつけられた日があつて、前後の状況からさういふ日と推測されるのださうな)もあつたらうが、露惡が趣味かと疑ひたくなる記述も中にはある。この態度を豪いものだと思つていいのか、疑問は残るとして。

 ところで私も手帖を使つてゐる。日記とまでは呼べないにしても、ちまちまと書きつけはしてゐて、併しかういふことは中々記し辛い。蒸し暑くて参らされたとか、雨で足元が不快だつたとか、その程度の文句が精々で、實名を挙げながらの罵倒だつたり、廉恥が店の女を褒めたりするのは躊躇はれる。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏だつてさうではなからうか。

 ここで落ち着いて考へれば、躊躇する理由が見当らない…たれかに覗き見られなければ、だが、手帖なら余程阿房な眞似をしない限り、その心配はせずに済む。自分が死んだ後までは知つた話でないし。そんならあの躊躇ひは何だらうと首を傾げ、あれは何年か後、それも2~3年くらゐ先の自分に対する羞恥心ではないかと思ひあたつた。これくらゐの云はば近未來は、今の自分と地續きである。その地續きの自分が羞恥を感じるのではないかといふ想像への躊躇。

 有り得るね、これは。
 有り得るよ、きつと。

 手元に残る一ばん古い手帖は20年余り前のもので、見直して恥づかしさを感じたりはしない。現在の自分との連續性がない…が大袈裟なら、きはめて薄くなつてゐるので、莫迦げたことが書いてあつても、(都合のよいことに)他人事のやうに思へるのだ。20有余年前の自分に無責任になつてゐると見立ててよく、これは忘却と並ぶ時の効能と呼べる気がする。

 待てよ。だとすればたつた今使つてゐる手帖に下らない、或は人目を憚ることを書きつけたとして、20年を過ぎれば何の事もない別人の所行といふ場所に遷るのではありますまいか。20年後なら私は死んでゐるし、今の紙とインキならぼろぼろになつてゐる筈だから、もの数奇が解讀を試みたとしても何が何だか解らないにちがひない。仮に讀めたとして、当人が巷間からおさらばしてゐると思へば、恥を気に病むこともなからう。何より荷風老人が日乗で描いた帝都の姿(中でも空襲で焼け出されるくだりは百閒先生の"焼盡"と並んで讀み飛ばすわけにはゆかない)は、"小説を讀むが如"き興味に溢れてゐるから値うちがある。丸太の手帖と較べる態度自体、烏滸の沙汰であつたな。

 ここまで考へてやうやく、罵倒でも褒め言葉でも恋慕でも劣情でも、書き留めてかまふまいと安心した。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の閑潰しに興せないのは多少の心苦しさを感じなくもないが、そこは当面、この[いんちきばさら]で辛抱して頂きたい。かう思ふのもまた、烏滸の沙汰かも知れないけれども。
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by vaxpops | 2017-05-07 18:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

丹念で且つ執拗な

 明治頃の小説をぱらぱら讀むと、着物の描冩が細やかなのに驚かされることがある。生地がどうで色や柄がかうでと、舌なめずりでもしてゐさうな感じがされなくもない。
 現代の小説ではどうだらう。私は偏りが烈しいから、あてにはならないけれど、丸谷才一くらゐしか思ひ浮ばない。あのエロチックな話題を好む小説家は、巨細を尽してスカートの襞の具合やブラウスの色めを描いてゐた。好色の最も文學的な顕れだらうと思ふ。エロチックな描冩ならポルノ小説ではないかと反論するひとがゐるかも知れないが、あれはただ扇情的なだけでエロチックとは位置づけが異なる。

 何故だらうと思ふに、着物の描冩はある登場人物の社会的な地位や性格、心象を示す恰好の小道具だつたからではないか(遡ると流行の発信元といふ役割…冩眞で見せる方法が有り得なかつた時代…もあつたらうが、流石に近代の小説にはその気配はない)現代の小説はさういふ暗示的な小道具を必要としなくなつてゐるのだらう。その変遷がいつ頃だつたのか、疑問が浮ぶけれど、それはこの稿の話題でない。社会史の分析が重要な意外と面倒さうな研究になりさうなので、熱心な研究者の發表を待つとしませう。

 私が気になるのは衣裳に限らず濃やかな…いつそ執拗と呼びたくなる描冩の手法自体で、たとへば土地の情景もその対象のひとつ。司馬遼太郎描く『坂の上の雲』の旅順要塞攻略戰では、これが重要な扱ひでもあつた。最近讀み返した中で云ふと『リヴィエラを撃て』で描かれたアルスターやロンドンの情景の息苦しさは髙村薫の本領を見る思ひだつた。この息苦しい感覚が物語に欠かせない要素なのは云ふまでもない。濃密な描冩を必要とするのは、花やかな情景だけとは限らない好例であらうか。

 そこで気になるのを進めると、さて飲食でさういふ描冩があるだらうか…手法として採用出來るのだらうか、と疑問に繋がる。
 最初に浮ぶのは池波正太郎で、かれの描冩は實に旨さうだと考へる方もゐるだらうが、またそれを否定するのは無理があるのでもあるが、あの小説家が巧緻は、描冩の濃やかさより、食卓の風景を一筆で描きながら、こちらの食慾をむやみに刺戟する筆法で、こちらの想像への働きかけが巧いのだと考へる方がよろしからう。
 旨さうな本といへば檀一雄を忘れてはならないか。一体かれには何度迷惑を蒙つただらう。が、思ひ出しても濃厚、巧緻、緻密な描冩は浮んでこない。料る歓び食べる愉しみの胃袋への染み込み方は上等のお酒を凌ぐのに、その書き方は関西風のお吸物のやうに穏やかである。驚嘆に値する文章の藝と讚辞を捧げねばなるまい。
 飲食にまつはる優れた文章家は少ないけれど、それでも吉田健一、辰巳浜子、湯木貞一、北大路魯山人、邱永漢くらゐの名前は私程度でも出てくる。併しいづれにも"お吸物のやうな"淡泊さは共通してゐて、まあ魯山人の厭みは好もしくないとしても、矢張りサヴァラン教授の書く"スプンが立つほどに濃厚なソップのやうな"感覚からは離れてゐる。良し惡しではなく、我が邦の文學が持つ伝統なのか知ら。

 さうなると"濃厚なソップ"を思はせる飲食の描冩は成り立たないのだらうかと更に疑問が深まるのは人情の筈で、かういふ例は記憶にない。ガルカンチュワ的な献立の一覧なら『御馳走帖』で内田百閒が書いてゐるのだが(これもまた旨さうで實に迷惑する)、たとへばひと皿のカレーライスの、ごはんの調子、ルーの色あひに粘り具合、牛肉や人参や玉葱(もしかすると丸まつちい素揚げの馬鈴薯)の浮びまた沈む様、或は刺戟的な香辛料のかをり、隅を密やかに彩る福神漬に艶やかな辣韮を銀いろの匙ですくひ、舌と鼻と喉で存分に味はひ、氷をたつぷり入れた清涼なお水で流す悦びを、濃やかに丹念に執拗に描いた文章。
 ステイクでもいい。温められたお皿に乗せられたレヤーの牛肉。グレイヴィ・ソースの色と艶。大蒜の香り。隠元豆や人参の鮮やかな緑と赤。馬鈴薯の湯気。赤身と脂身の取合せ。こつてりした葡萄酒の暮色の海のやうな漣。清冽なナイフとホークが肉を断ち、馬鈴薯を崩す。頑丈な歯と顎が噛み砕き擂り潰し、飲み込んで胃の腑まで落ちる一部始終。
 いやステイクに限らず、同じ手法はとんかつでも天麩羅饂飩でもざる蕎麦でもおでんでも海苔弁当でも成り立つ筈で、にも関らず見掛ける機会に恵まれないのは、その必然性が認められてゐないからなのか知ら。何をどう食べまた呑むかはそのひとを衣裳以上に際立たせると思ふのだが。それとも全篇が食事の丹念且つ執拗な描冩に満ちた、私の知らない小説があるのだらうか。一ぺん是非に讀んでみたい。
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by vaxpops | 2017-05-05 10:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

御説御尤も

 買つたはいいが、どう扱へばいいかよく判らなかつたもののひとつに、鯖の水煮鑵がある。
 よく判らなかつた理由は味の想像が出來なかつたからで、そんならいつちよ、食べてみればいいぢやあないかと指摘されれば、御説御尤もと頭を下げる他にない。併し買つた以上、鯖なのだからまづい道理はないし、そもそ手元に鑵詰があるのだから食べなくてはならない。

 それでざつと調べてみると、簡便で旨さうな食べ方があるもので、中でも

『お皿にあけ、大根おろしを添へて、青葱を散らして醤油を垂らす』

には微苦笑を浮べざるを得なかつた。確かにうまいだらうけれど、胸を張つて書くことでもなささうな気がする。もうひとつ微苦笑の例を挙げると

『小鍋に移し、味噌仕立てで煮く』

といふのがあつて、鯖の味噌煮鑵とどこがちがふのか知ら。梅干しのひとつもはふり込んで、演出をするのだらうか。

 うーむ、役に立つのか立たないのか、判断が六づかしいなあと思ひながら鑵をじつくり眺めると
『おいしい召し上り方』
とか称して、鯖の水煮をトマトでソップ仕立てにすると書いてあつた。

 ほほう。

 ここで思ひ出したのは、鶏肉の麦酒煮で、骨付きの股肉だつたかを塩胡椒で焼いた後、トマトのピューレと麦酒で煮た(水は使はない)だけのものだが、あれは旨かつた。鯖の水煮でも応用出來るのではないかと思つた。

 併しうまく仕上るかどうか自信が持てないのにトマト・ピューレを買ふのは勿体無いと、せせこましく考へて、取敢ず冷蔵庫にある濃縮出汁で何とかしようと方向を決めた。

 近くのマーケットで玉葱2個が60円(見切品)だつたのでそれを買つて、ひとつを大ぶりに切つて小鍋に敷き、そこに鯖の水煮鑵をあけた。
 更にもうひとつの玉葱を小さめに切つて上から被せた。鑵詰の汁だけでは足りなささうだつたから水を加へ、抑へ気味の火を入れながら、塩胡椒を振り、濃縮出汁は少なめ。鯖の匂ひが立ちさうに思へたので、チューブ入りの生姜を念の為。

 煮きあがりは實に無愛想。だが味は惡くない。鑵詰なのだから調味がまづい筈はなく、加へた分も同じ程度に効果的だつたか。尤も欣喜雀躍の美味にはほど遠い。まつたくのところ適当に煮ただけなのだから、当り前である。

 先づ玉葱のソップを用意した方がよかつた。味つけは塩と胡椒。薄味のたつぷり目。
 色みを考へると矢張り、トマトや青葱は欲しかつたし、味を広げるのを含めば茸を加へるのも方法だつたか。
 鯖鑵を入れるのはその後で、味の全体は醤油でも生姜でも大蒜でも使つて、控へ目に調へる。

 これならお皿に盛るだけで、それなりに見える(期待がある)し、柑橘の皮をへいで散らすか、梅肉を叩いたのを添へれば、半人前よりは多少ましなひと皿になりさうな気がする。ただかういふ手間は、たれかに食べてもらはうとする時に掛けたくなるものだからなあ。

 かう書くと、いやいやと訂正が求められるだらうか。たれかに食べてもらはうとするなら、そもそも鯖の水煮鑵は使はないでせう、と。云はれてみればその通りで、御説御尤もと再び頭を下げなくてはならない。
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by vaxpops | 2017-05-03 13:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(3)

譬喩として

 バイブルをbibleと綴つた場合、その意味は本。確かラテン語だつたか。綴りの頭を大文字にしたBibleだと、基督教の聖書を指す。転じて宗教的な意味の有無を問はず、極めて重要な本の譬喩にもなつてゐますね。かういつた喩へ、基督教猶太教イスラム教圏内でも成り立つのか知ら。
 思ふにバイブルが"きはめて重要な本"のたとへになるのは、一冊だからではなからうか。厳密に云へば、Bibleにも正典とそれ以外があるし、突き詰めてゆくと色々ややこしくなるのだが、印象としては同意してもらへさうな気がする。生眞面目な信徒に呆れられる不安は残るとして。

 その辺はいいか。Bibleの研究と話題は眞面目な學者にお任せして(それはそれで讀んでみたい)、この稿で話題にしたいのは、教典…詰り大文字のBibleではなく、そこから派生した譬喩の方。簡単に云へば好きな、より正確に云ふと飛びきり好きな本で、これを私は
 ≪残りの人生を託すに足る5冊の本≫
と呼んでゐる。恰好いいなあ。但し私の独創ではない。『神の火』(髙村薫/新潮文庫)に、主人公が≪5冊の本≫を撰ばくてはならない時期にきたのを悟るくだりがあつて、非常に印象深かつたんである。さういへば髙村の小説にはどこかに基督教とホモ・セクシュアルの匂ひがあるなあ。

 余談は兎も角。

『文章讀本』
 (丸谷才一/中公文庫)

『阿房列車』
 (内田百閒/旺文社文庫)

『檀流クッキング』
 (檀一雄/中公文庫ビブリオ)

『私の食物誌』
 (吉田健一/中公文庫ビブリオ)

『ヨーロッパ退屈日記』
 (伊丹十三/文春文庫)

 私の残り少ない≪人生を託すに足る5冊≫はこれである。他にも好きな本があるのは勿論で、小説なら『私本 源氏物語』(田辺聖子/文春文庫)『女ざかり』(丸谷才一/文春文庫)、『ドバラダ門』(山下洋輔/新潮文庫)、『幻の女』(ウイリアム・アイリッシュ/稲葉明雄 訳/ハヤカワ文庫)、『初秋』(ロバート・B・パーカー/菊池光 訳/ハヤカワ文庫)、他にも『断腸亭日乗』(永井荷風/岩波文庫)、『御馳走帖』(内田百閒/中公文庫)…要は色々と好きな本がある中で、上の5冊が譬喩としてのBibleの格を得てゐると受けとつて頂きたい。
 何度も讀み返してゐる。当り前の話か。再讀三讀に耐へない本に残りの人生を託せる筈がない。面白く飽きず、その積りはないのに、考へさせられ、気づかされる。[いんちきばさら]にこの5冊の筆者の名前が度々登場するのは、さういふ事情であつて、 我ながら影響が判り易い。

 文章それ自体。
 呑み喰ひ。
 旅…移動。
 役に立ちさうもない蘊蓄。

 5冊に共通する興味はこの辺りか。それらが私の嗜好と一致するのは念を押すまでもなく、いやもしかしてこの5冊が私の嗜好を決めてゐるのかも知れない。何しろ(譬喩としての)Bibleだもの。それくらゐの力があつても不思議ではないさ。
 併し見直して妙だなと思ふのは小説が含まれてゐない点で、『阿房列車』には随筆と短篇小説を兼ねてゐる風味はあるが、我らが百閒先生にさういふ狙ひがあつたかどうか。あのひとの藝風は複雑だから何とも云ひ難いとして、小説らしい小説がない("小説らしい小説"とは何ぞやといふ疑問はさておく)のは何故だらう。

 小説がきらひなのではない。
 撰外の例に挙げた本の中にもあるくらゐだからそれは確實である。
 それに私の讀書の事始め(自分から讀み出したといふ程度の意味である)は小説だつた。
 ロフティングの"ドリトル先生"だつたか、ミルンの"プーさん"だつたか、スウィフトの"ガリヴァー"だつたか(作者はいづれも英國に関りがあるひとだね。英文學との縁はこれつきりだけれど)(序でに云へば私が讀んだのはすべて岩波書店版。翻訳は順に井伏鱒二と石井桃子と中野好夫が健筆をふるつてゐと思ふ)はつきりしないが、物語が最初にあつたのは明らかだし、今だつて事情は変らない。私は文學の分野に格づけをしない方なので、単純に惹かれる力のちがひなのか知ら。

 そこで小説に限つた5冊が撰べるのかといふ疑問が浮ぶ。なに、ご存知のとほり、私の讀書量なんて大したものではないから、それほどの困難でもなからう。
 先づ司馬遼太郎の『国盗り物語』を挙げませうか。それから上にも挙げたが『ドバラダ門』も避け難い。池波正太郎は『雲霧仁左衛門』を。
 探偵小説からはクィーンの『Yの悲劇』か、クリスティ女史の『アクロイド殺害事件』(出版社によつて、"アクロイド殺人事件"だつたり"アクロイド殺し"だつたりするのだが、ここは"殺害事件"でなくてはならない)、或は基本中の基本とでも呼んでいいドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』も見過ごせない。
 ライアルの『深夜プラスワン』、ヒギンズの『鷲は舞い降りた』はどちらも菊池光の訳が素晴らしくひと晩を費やして悔ひのない良作である。
 小説と呼べるかどうかは、大きに疑義を認めるとして、『イーリアス』と『オデュッセイア』といふ大叙事詩だつて、再讀三讀どころか、生涯讀み返して飽きる心配はないだらう。
 これで10冊。ホーメロス以外は予想通り、ひどい偏りを示してゐるね。異論はあらうが、それは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、ご自身の5冊を撰んでもらひたい。上の10冊から『国盗り物語』、『雲霧仁左衛門』、『アクロイド殺害事件』、『深夜プラスワン』、『イーリアス』に絞り込むとしませう。

 さて。この小説版の5冊…暫定的なものですよ、念の為…を、私の≪人生の残りを託すに足る5冊≫と入れ替へられるか、どうか。

 暫く自問してみたが、自答は否だつた。

 5冊の小説が詰らない筈はない。嘘だと思ふなら、どれでもいいから1冊を讀んでみ玉へ。丸太だつてたまには誤りのない話をするものだと納得してもらへるだらう。
 併し入れ替へには到らない。敢て云へば『イーリアス』が非常に悩ましいのだが、譬喩としてのBibleには何か、或はどこかが及ばないのだな。ひどく抽象的になるのはご容赦頂くとして、どうもその何かまたはどこかは、私の骨や血への溶け具合のやうに感じられる。讀みこんだかどうかも要因のひとつにはちがひない。ちがひないがもつと大きな事情として、血肉へのなり易さがあるのではないか。根拠や確証があつて云ふのではないけれど、そんな気がされる。詰り≪残りの人生を託せる5冊≫には、託さうと決めたひとの何事かが透けるのではないかと思はれて、さうなると私の5冊から何が透けてくるものか。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏のすすどい分析をこれは待たなくてはなるまい。
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by vaxpops | 2017-05-02 16:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(4)
 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には以前からお気づきだらうが、直接触れた記憶がないので、この稿で改めて書く。
 思はせぶりは苦手だからさつさと云ふと、カタカナ言葉を出來るだけ使はないのが、この[いんちきばさら]の基本的な考へ方…方針といふこと。カタカナ言葉を頭から拒む積りはないけれど、日本語で記せるならそつちを優先すると云ひかへてもいい。

 ひとつには好みが理由。どうも文章にカタカナ言葉を挿れると、そこだけ惡く浮いた感じ…妙なわざとらしさとでも呼べばいいだらうか…がされる。それは丸太のあしらひが下手なのだよと笑はれさうでもあるが、まあ。
 もうひとつは實利的な方向で、視認性の問題である。ちよつとこれでは解り辛いか知ら…では、あるカタカナ言葉を目にした時、その意味がすつと頭に入りにくい、と書けばどうだらう。たとへばコンセンススを得てからフィックスさせるなんて書かれて、直ぐに解るものかね。合意を得て決定させると書く方が余程にすつきりする。判らない方がをかしいと考へるのは誤り。文章は理解されるのが目的なのだもの。

 勿論カタカナ言葉で示さざるを得ないものがあるのも事實。その例外は殊に単語に多く、パーソナル・コンピュータ辺りを代表にしておきませうか。かういふのを日本語に置換するのも出來なくはなからうが、似非の臭ひが立つてくるから、それ自体を藝にしない限り、手を出さないのが賢明な態度だらうね。

 かうは書いたけれど、私だつてカタカナ言葉を用ゐることはありますよ。それはその方がいいと判断したからで、何故さう判断するかと云へば

 ①カタカナ言葉を浮すことで、その部分を強調したい場合
 ②日本語では意味するところが明瞭になりすぎるので、カタカナ言葉で曖昧にしたい場合

のふたつに分けられる。カタカナで記さざるを得ない単語は別として、さういふ意図がなければ日本語を使ふ。書く方が書き易いのは当然だし、讀む方だつて讀み易いにちがひない。

 ここで予想出來るのは
『日本語の基幹部には漢語があるぢやあないか。英語を主にするカタカナ言葉が入つたつて何の不都合もないよ』
といふ反論で、かういふことを眞顔で云ふひとがゐるんだから、世の中は不思議に満ちてゐる。

 漢語が和語と共に日本語の底流を成してゐるのは改めるまでもない筈で、その上に乗つかつてきた外國語と同列にするのが間違ひだと、これだけでもはつきりしてゐる。仮に英語が加はるとしたらさあ、あと何年くらゐ必要か知ら。五十年百年程度の短期間でないのは確實でせう。
 併し今あるカタカナ言葉を今から書く文章に用ゐて支障があるのかと、更に反論が續く可能性もあるね。あるが先づそのカタカナ言葉が讀む側にどれだけ伝はるか、詰りそのカタカナ言葉が我われの中にどの程度根づいてゐるかといふ問題がある。入れ替り立ち替るカタカナ言葉の群れで、幾つくらゐが該当するか、甚だ心許ない。

 それに文章の目的は伝へる点にある。言葉の撰び方がその大切な要素なのは想像力を働かせるまでもなく、コンセンススでフィックスと同意から決定のどつちが伝はり易い書き方か、比較するまでもなからう。
 当り前の話。
 伝はり易い言葉の背中には、伝はり易くなるまでの時間が貼りついてゐるもので、この時間は代用がきかない。そして伝はり易い言葉にはそれを十分に使ひこなしたお手本がたくさんあるのもまた当然で、今出來ではどうしたつて無理なところなんである。大きく纏めれば歴史的、伝統的、保守的である方が文章の腰が据はるといふこと。少なくとも私はさう信じてゐて、誤つた態度ではないとも信じてゐる。尤もそれで書く文章の出來がどうなのかは別の問題。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも、その辺りはひとつ、あれといふことで。
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by vaxpops | 2017-05-01 17:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)

イヤダカライヤダ

 この数年、高橋書店の手帖を常用してゐる。
 今使つてゐるのはリシェル4(月曜始まりの見開き1週間)…商品番号はNo.214…で、大きさは文庫本と同じくらゐ。使ひ勝手はそんなに惡くない。お仕着せの手帖だから、どこかここかに不満はあるもので、馴れとあはせて許容範囲に収まるといふ意味である。

 手帖なんてまた時代遅れだなあ、と呟かれる方もゐさうだが、性にあふのだから仕方がない。一応はGoogleのカレンダー機能も併用してはゐるのだと云ひ訳はしておかうか。

 そのリシェルをどう使ふかといへば、先づは予定を記すこと。遊びの予定に決つてゐる。それに伴ふメモ…予算やダイヤグラム…も記す。併し大事なのは記録の方で、日記的な用途と云へばいいだらうか。買物に幾ら払つたかとか、天候とか、讀んだ本の題名とか、たれから連絡があつたとか、まあそんなところで、書き出しながら思つたが實に殺風景だねえ。

 後は何を食べたかも記す。これは池波正太郎の眞似。あの小説家は飲食を細々と日記につけ、細君が献立に困つた時は、たちどころに昨年のこの日はかういふのを喰つたと示したといふ。台所を預かるひとにとつて、有り難いのか迷惑なのか、よく判らない。それに私は記録をしてゐるだけなので、何の役に立つのやら。何年か経つて見返した時、記憶を呼び起す切つ掛けになるのが精々といふところか。

 役に立つかどうかは兎も角、手帖に色々の予定や記録を書くのは併し習慣になつてゐて、そこはまあいい。時代遅れでもこちらのことだから、苦情を云はれる筋でもないでせう。ただここで問題になるのは手帖に書くのだから手書きが基本で、手書きだからそれは自分の字といふことだ。
 これが、こまる。
 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には何を云ひたいのか判らないと考へる方もをられるだらうから種を割ると、私は自分の字がきらひなのです。どこがどうと訊かれても説明は六づかしく、内田百閒に倣つてイヤダカライヤダと応じざるを得ず、さういふ気分の證として画像をご覧頂かうか。

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 ね。こまるでせう。
 かうやつて同意を求めると親切な讀者諸嬢諸氏はきつと、古拙な笑みで誤魔化すしかないだらうから強要はしない。しないがこの字を書いたのが自分だと思ふと、背骨の中を掻き毟りたくなつてくる。讀み易い字だと云つてもらつた記憶はあるけれど、あれは精一杯の慰めだつたにちがひない。だつてとても年齢を重ねた大人の書く字には見えないもの。
 かと云つて手帖を使ふ以上、自らの手指で字を書くのは避けてとほれないのも事實。少しはましにしたいと思ふのもまた事實で、我流では六づかしからう。名前があやふやだが、何とかいふペン習字でも始めるべきなのか知ら。さう考へるくらゐなら、デジタル方式に移行するのも方法なのだらうが、どうもあれはねえ。さう思つて仕舞ふ辺りが、私の時代遅れを如實に示してゐる。
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by vaxpops | 2017-04-29 07:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)