いんちきでさらにマクガフィン

by 丸太花道@乳軟部

カテゴリ:読書一冊( 18 )

『旨いものはうまい』
吉田健一・角川春樹事務所 グルメ文庫

 先に文句を云ふ。
 先づ題名のつけ方がひどい。
 グルメ文庫といふのもひどい。
 ルビの振り方も何かをかしい。
 著者の名前を羅馬字でも示すのはいいとして、それがYOSHIDA KEN-ICHIと意味のない " - " が入つてゐるのも理解し難いし、ラパーの出來も感心しない。
 角川春樹にはこの辺の感覚が中々すすどいひとだつた印象を持つのだが、何故かういふ酷い言葉遣ひを撰んだのか、それともかれの預かり知らぬところで企画されたのか。

 併しさういふ欠点を我慢すれば、中身は何しろ吉田健一である。泥炭の土地で醸られたヰスキィのやうな独特の薫りがあるから、馴れが必要かも知れないが、そんなのは小さな問題で、ひとつふたつ讀めば、後は理想的な呑み助で喰ひしん坊の賑やかなお喋りに耳を傾ければよい。
 それで本來なら気に入りの一節を引くところなのだが、これが實に六づかしい。一ヶ所を引かうとすると前後に触れざるを得ず、前後に触れ始めると結局は丸々の引用になりかねず、だつたらお讀みなさいといふところにきつと落ちるし、その方が好もしいのは、どこそこで呑んだうまいお酒の話を聞くくらゐなら、そのどこそこに足を運ぶ方が望ましいのと同じである。

 ただ吉田の文章には一讀、どこそこの何々…酒田ロンドンの粕漬けだの、ハムエッグスだのが浮ぶ不思議がある。それは精密画のやうではなく、併し抽象画でもなく、これはやむ事を得ないので引用すると

 『ハム・エッグスを注文する。ハム・エッグスが來たら、辛子をハムにも卵にも一面に塗り付けて、その上にソオスをたつぷり掛けると、不思議に正直な味がして、實にいい。それで、今気が付いたのだが、昔の食堂車の料理があんなに旨かつたのは、安い調味料をふんだんに使つたからではないだらうか。あれは西洋風の砂糖醤油の味だつたのである』

全然具体的ではない…正直な味とはどんな味なのか知ら…のに、ハムエッグスの湯気と辛子とソオスの香りが立つてきて、これを今すぐ食べたい。辛子が鼻に抜けるのを麦酒で抑へつけたい、いやその前に急行列車に乗らなければ、食堂車はあるのか知らと落ち着かなくなつてくる。檀一雄流に云へば上ずつてくる。詰り名文なのだが、自分の食卓への態度が如何に貧相なのかを實感させられる点で、こんなに迷惑な名文も見当らない。
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by vaxpops | 2016-10-07 07:00 | 読書一冊 | Trackback | Comments(2)

文學の伝統に忠實な

『小惑星帯(アステロイド)遊侠伝』
横田順彌・徳間文庫

 任侠映画といふものがある。あつた。

 高倉健や鶴田浩二を思ひ出せばいい。
 義理堅くて腕が立つて無口で不器用な漢が、我慢にがまんを重ね、最後に強慾無道なやくざを叩き斬つて仁侠の筋を通す話で、『仁義なき戦い』から實録路線が台頭するまでは、やくざを描いた映画はおほむねかういふ仕立てだつた筈だ。
 マンネリズムと呼んでもよいが、ここは寧ろ様式美と見る方がしつくりくる。任侠映画に限つた話ではなく、古い日本映画のシリーズものは大体かうで一定の型で成り立つてゐたし、テレビジョンの時代劇も基本的にはこれを踏襲した作りだから、一種の伝統藝と呼べるだらうか。

 併し不思議なのは小説だと、かういふマンネリズム…様式美は殆どの場合赦されないことで、例外は古典的な冒険活劇くらゐだらうが、これは小説への差別ではないか。と横田が考へたかどうかは疑はしい。任侠映画が好きなSF小説家の藝のありつたけを絞つた短篇連作が、この『小惑星帯遊侠伝』なのだと単純に受け取る方が正しさうに思はれる。

 全篇の主人公を張るのは"寺島組の昇り龍"の異名を取る真継龍一郎。無頼の徒ではなく、筋目の正しい仁侠者である。かれが義理に縛られながらも、その道の筋を通すのがすべてだから、粗すぢは紹介はしない。強調したいのはその"昇り龍"をはじめ、兄弟分の"降り龍"梅原、寺島組のお美津姐さん、惡党の藤原や野村や剛田、"天王星の人斬りドス"巳之介、"黒水仙"のお京といつた登場人物が明らかにストック・キャラクタなのに實に魅力的なことで、横田はきつと舌なめずりしながら書いたにちがひない。

 更に科白まはしや言葉遣ひの巧妙さも挙げておく必要があるだらう。宇宙服に"きもの"、原子破壊砲に"はつぱ"とルビを振る感覚。トリトン正宗や火星酒("うんがざかり"のルビがある)といふ酒の銘柄。女が呼び掛ける際の"お前さん"にはちやんと"おまいさん"とある。そこに

 「昇降そろいの兄弟龍、たとえ生まれは違っても、死ぬときゃいっしょと決まってます」
 「あたしゃ、兄さんのむかしのことなんぞ、これっぽっちも興味がないやね。それより、飲もうよ。飲んで、あたしの友だちになっておくれよ」
 「兄貴、渡世の義理でござんす。許してやっておくんなさい」
 「寺島組の真継龍一郎、人呼んで昇り龍、福永彦次の弔い合戦とありゃ、こいつは、ちょっとばかり手荒いぜ」

 かういふ科白が次々と出てくるのだから、昂奮しない方がどうかしてゐる。横田が丹念に資料を讀み込み、映画を深々と観た…詰り任侠映画の伝統と様式を學んだ結晶が『小惑星帯遊侠伝』で、その視点から考へるとこの小説は文學の本筋(伝統に則り、且つ拡げる)に忠實であると見立てても誤りではないだらう。
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by vaxpops | 2016-09-23 07:00 | 読書一冊 | Trackback | Comments(2)

1346 随筆の見本帖

『腹を抱へる』
丸谷才一・文春文庫

 讀んで面白い随筆はまあ、ある。

 再讀に値する随筆は、多くない。

 三讀に到る随筆は、絶無に近い。

 と云ふのは私見に過ぎないが、的外れではないとも思ふ。多くの場合、それらは所謂身辺雑記から足が出てゐないもので、ほら、その辺りのウェブログをご覧なさい。あれをうんと上手に書いたものが随筆と思はれる方は、少くないんではないか知ら。

 ちがふと断定するほどの無茶は云はないが(身の回りの出来事だけで一文を書くのだつて、六づかしいのだ)、それが随筆そのものと云はれては、ちよつと待つて下さいと云ひたくなつて、そんな時に
「ほらこれをお讀みなさい」
と差し出したくなるのがこの一冊である。

 副題に“丸谷才一 エッセイ傑作選”とある…文句をひとつ。ここは矢張り“随筆選“としてもらひたかつた。エッセイと云ふ単語のかるみは似合はないと思ふ…くらゐだから、どこから讀んでもいい。比較的短めの文章計りだから、つまみ讀みをすれば、たつぷり樂しめるのは私が請け合ふ。

 文學の愉快な考察があり、民俗學的な冗談があり、女と男のちがひのやんはりとした指摘があり、にやにや笑へるゴシップがあり、ちよつとエロチックな話題があり、食べものについての思ひ出話があり、大洋ホエールズの成績に一喜一憂するくだりがあり…詰り面白い。先ほどつまみ讀みと云ひはしたが、いつの間にかページを捲つて仕舞ふだらうから、週末の夜に一ぱい呑りながら、のんびり手に取る方がいいかも知れない。

 ところで“傑作選”とあるくらゐだから、この本に収められた随筆の殆どは再録である。私は丸谷の随筆なら見つければ買つてゐて、半分以上(多分七割くらゐは)は既に讀んでゐた。既讀の分は少なくとも三讀以上の筈で、それでも十分以上に面白かつた。忘れてゐた所為もまあ、あるだらうな。

 然し改めて樂しんでから、感心しつつ呆れたのは話の種の幅広さは勿論として、身辺の雑記だけで終るの文がただのひとつも無い事だつた。たとへばたれかと一ぱい呑みながら、大根おろしの話をしたと始まつても、いつの間にやら故郷の味(ハタハタとダダチヤ豆)の思ひ出を経由し、再び話題は大根おろしに戻つて、魯山人でおちがつく(「最も日本的なもの」) 一讀でも美事と笑はされるが、三讀(以上)目の私でも微笑を禁じ得なかつた。かう云ふ文章がたくさん詰め込まれてゐるのだから、讀まない手は無いと思ふ。

 最後にもうひとつ、文句を附けておくと、どうも収録の順がスムースに感じられなかつた。幾つかのジャンルを用意して、割り振つてゐるのだが、何となくぎくしやくしてゐる。第二巻が予定されてゐるさうだから、その辺りにもう少し、気を配つてもらひたい。
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by vaxpops | 2015-02-11 08:45 | 読書一冊 | Trackback | Comments(0)
『快楽としての読書 [海外篇]』
丸谷才一・ちくま文庫

 海外の作家を讀む際、どうしても壁になつて仕舞ふのが言語であらう。佐久間象山は蘭学書を前に
「素読百遍自ズカラ意通ズ」
と嘯いたと云ふが、漢詩ぢやあるまいし。愉快な逸話だがこれは象山先生一流のはつたりではなかつたかと思ふ。さうなると矢張り外つ國の文學は原文で讀むのがいいのかと考へざるを得なくなるのだけれど、英吉利語、佛蘭西語、伊太利語は云ふに及ばず、希臘語や羅典語まで到るのはどう考へても無理があるし、仮にそこまで達する事が出来たとしてそれでも頁を捲りながら一語一句を頭の中で日本語に訳するのは変はりがなく、詰り否応なく我われには翻訳の壁が立ち塞がる。さうと解れば話は簡単で、信頼に足る翻訳者の手になる本を撰べば宜しく、さう云ふ時にこの『快楽としての読書 [海外篇]』は絶好の指針になる。

 小説がある。
 神話がある。
 伝記がある。
 評論がS.F.が講義碌が詩歌集がある。

 かう連ねるだけでこの本が如何に豪華なのかを想像させるのに十分だと思はれるが、優れた小説家と批評家を兼ねる筆者はまた優れた翻訳家でもあつて、その点についての言及を忘れてゐないのが有難い。

・しかも嬉しいことに、翻訳がすこぶる優れてゐる。(中略)文章のはしはしに至るまで探偵小説らしい生きのよさがあり(「男には書けない本」で小泉喜美子の訳を褒めて)
・印刷・造本ともにすばらしいが、杉本秀太郎の翻訳はさらに見事である(「ドビュッシーのために」で杉本秀太郎の翻訳に触れて)
・現代の古典と称すべき名作の、彫心鏤骨の名訳(「架空の古人の伝記」で工藤好美の訳のこれはもう絶讃と云ふべきひと言)

 こんな風に添へられてゐたら(辛くちの評価も無くはないが、さう云ふ筆は極力控へ目になつてゐる)、本屋の棚から手に取つて悩む心配を零にちかいくらゐまで減らす事が出来るわけで實に有難い話ぢやありませんか。

 とここまで書いて誤解されてはいけないから急いで云ふ。『快楽としての読書 [海外篇]』は必ずしも読書指南の本ではない。いや書評集だからその一面は否定出来ないし寧ろ濃密でもあるのだけれど、そちらに目を取られると損をして仕舞ふ。我われは第一流の讀書好きが
「最近何々と云ふ本を讀んでね、實に面白かつたな。と云ふのはね」
と愉しさうに嬉しさうに、熱を込めて語るのを、この本から聞いてゐるのだ。それは温かい諧謔と香辛料のやうな皮肉と、計算されてゐる筈なのにどこがさうなのかさつぱり解らない語り口…詰り美事な藝であつて、だから我われは先づ、惡真面目をはふり投げてその藝を存分にあぢはふのが正しい。さうすればこの本は、様々の本を俎板に上げた愉快な随筆となるし、広い意味での文學(史)を教へても呉れるにちがひなく、更に夜長に付き合ふ為の一冊を撰ぶ参考書にもなるのだから、これほど嬉しい本も中々見付らない。素読百遍だとかう云ふ楽しみは期待出来ないから、象山先生には気の毒な話ではないだらうか。
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by vaxpops | 2013-06-16 13:30 | 読書一冊 | Trackback | Comments(0)
『カレーライスの誕生』
小菅佳子・講談社学術文庫

 13036-0184の[衣のはぜる音]で『明治洋食事始め』(岡田哲・講談社学術文庫)が、日本人が洋食を受容れた明治期の本である話をした。そこで主役を張つてゐたのはとんかつで、我われが獣肉を大つぴらに食べるようになつたのがご維新の後からと云ふ事を思ふと、この目の付けどころはまつたく正しい。然しその中で殆ど触れられてゐない、そのくせ我われの食事の中でごく当り前の洋食があつて、そこを注視したのが本書である。

 カレーライスは大好物である。簡便でどこで喰つても満腹になれて、何よりうまい。
 さうやつて私を熱狂させる日本のカレーライスが英國式なのは有名な話で、それは英國人に限らず歐州人が香辛料に熱狂したからで、本書はその香辛料についての話題から筆を始めてゐる。導入部としては先づ、上々と云へるだらう。
 然し読み進むうちに、何だか妙な気分になつてくる。
 興味深い記述は色々とあるんですよ。特に膨大な参考資料から抜き出したつくり方なぞは見てゐて実に面白い。たとへば
 「葱一茎生姜半箇蒜少計りを細末にし牛酪大一匙を以て煎り水一合五勺を加へ鶏海老鯛蠣赤蛙等のものを入て能く煮後にカレーの粉小一匙を入煮る―西洋一字間巳に熱したるとき塩に加へ又小麦粉大匙二つを水に解きて入るべし」
 と云ふのが明治五年の本に記されてゐるさうで、これが明治四十四年刊の本になると
 「牛肉(並肉)を二分位の賽の目にきりましてバタをフライ鍋に入れ火にかけ溶かしましたら此牛肉を入れてよくいため狐色になりましたらカレー粉を入れ(中略)三十分間も亦煮ましたら牛乳を少々いれて鍋をおろすので御座います(後略)」
 となつてゐる。因みに云ふと後者は"牛肉"から"御座います"までがひとつのセンテンスで、このしだらなさは私に伊勢物語の都鳥のくだりを思ひ出させた。尤も東下りご一行も渡し守もカレーライスを目にする機会はなかつたわけだけれど。
 他にもヱスビー創業者の山崎峯次郎の著書からの引用やカレー南蛮を工夫した男の逸話、阪急の小林一三と大食堂のカレーライスの話、或はかつての客船で出してゐたカレーライスは一等の客に福神漬を添へ、二等三等の客には沢庵漬を添へて出してゐたとか、昼休みにカレーライスを食べながら使へる話題があれこれ入つてゐる。中でも図版として収められた"和洋惣菜料理見立"は江戸風の番付仕立てになつてゐて私を大いに喜ばした事は大書してもいいのだが、それでも妙な気分は拭へない。

 その妙な気分は、ふらふらしてゐるなあ、ひとつひとつは面白いのに、全体の纏まりに欠けてゐるのではないかなあ、と云ふ疑問…いや不満である。筆者が云ふ"カレーライスの三種の神器"こと玉葱と人参と馬鈴薯を入れたのはいいが、まだ煮込みに到つてゐないやうな感じ。じつくり煮込むには『明治洋食事始め』で云ふあんぱんのやうな脇役が必要だつたのではないだらうかと思ふとまことに残念。
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by vaxpops | 2013-05-27 23:30 | 読書一冊 | Trackback | Comments(0)

13186-0334 本を召しませ

『快楽としての読書 [日本篇]』
丸谷才一・ちくま文庫

 [13165-0313 快楽としての書評]で同じ著者の『快楽としてのミステリー』を取り上げてゐるが、さう云ふ事は気にしない。面白い読書―書評そのものを愉しむ事が出来たのだから大聲で推奨したくなるのは当然の話でせう。

 冒頭に収められた一篇で丸谷は現在の本を

1.本文が白い洋紙で、
2.その両面に、
3.主として活字で組んだ組版を黒いインクで印刷し、
4.各ページにノンブルを打ち、
5.それを重ねて閉ぢ、
6.表紙をつけてある

便利なものと記し(この箇条書きは丸谷の随筆でよく見られる手法)、私はすつかり感心して仕舞つた。一体我われが"本"と云ふ時、そこで頭に浮ぶのは小説だとか随筆だとか學術的なのだとか、その中身―目的乃至機能と云ひ替へてもいいと思ふがそちらの方であつて、1.~6.のやうな形態的を考へたりはしない。この本で丸谷が取上げるのはさう云ふ形態の物体全般で、百花繚乱と云ふ些か古めかしい四字熟語をもつてその広汎を讃へたくなつてくる。

 詩歌このみのかれが句集や詩集を評するのは当然として(たとへば谷川俊太郎が二冊)、また文學者であるかれが言葉に執着するのもまた当然として(『逆引き広辞苑』『岩波古語辞典』『広辞苑第四版』『平安時代史事典』『日本国語大辞典第二版』『歌舞伎事典』『大事林』『日本語大辞典』の八冊)、感心するのはどんな切欠で手に取る事になつたのか見当も付かない本も取上げられてゐる点。
 たとへば『さつまあげの研究』(高田静・童心社)と云ふ本。これは夏休みの自由研究コンクールの入撰作を本に纏めたもので著者は小學三年生。子供が書いたからと云つて丸谷はそれ自体を褒めたりしない。"一体にこの小学生の研究には、こんなふうに、現場に行つて実地に調べた者の強みが充満してゐる"だとか"かういふ実地探求の態度が、静さんの本の第一の特色だとすれば、第二は、事柄を的確に伝へる文章力である(中略)第サンの特色は、文章も、自分で描いた挿絵も、ユーモアがあること"と実に温かく、また具体的に日本の小學生が
「健全で実用的な散文の書き方を身につけよう」
としてゐる事を喜んでゐる。その喜び方は如何にも練達の文學者的で微笑ましく、一ぺん静さんの本を読んでみたくもなつてくる。
 勿論微笑ましい評だけではなく、『実景実感』と題された菅茶山を題材にした本を二冊、取上げた一文では途中、漢詩人の七言絶句を引く(丸谷の引用はそれだけでひとつの藝を成してゐる)そして江戸詩人の撰集で重要な人物が欠けてゐる点を
「もしわたしに心得があれば、点睛を欠いた画竜を惜しむ七言絶句を作るところだ」
と締める。かう云ふをかしみを含ませたほろ苦さはこの英文學者の得意とするところで、我われ読者は熟練の読書人と抜群の文章藝の幸福な出会ひを喜ばしく感じる事だらう。

 とは云へ気に喰はない部分がないわけでもない。
 第一に百二十余の書評が筆者の五十音順になつてゐる事。書かれた年代順であれば丸谷の本に対する趣味または興味がどう移り変つたかを俯瞰出来たのに、まことに残念。尤もその場合、同じ筆者の複数の本が並んでゐる利点が打ち消されるわけだから、編輯者も頭を悩ましたかも知れない。
 もうひとつは一篇一篇の配置が非常に無神経な点。この本は書評集ではあつても、それ以上に短篇または掌篇集的な性格を持つてゐるのだから、それぞれを綺麗に独立させて読ます工夫が慾しかつた。折角、和田誠の挿絵があるのだから、五十音の区切りのところだけでなく、もつと上手にあしらつてもらひたかつたし、それで点数が増えて、この本の値段が上がつても、損をした気分にはならないにちがひないのだから。
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by vaxpops | 2013-05-25 23:30 | 読書一冊 | Trackback | Comments(0)
『快楽としてのミステリー』
丸谷才一・ちくま文庫

 見ての通り外題は捻りも何も無くそのまま付けた。捻るまでもないと云ふより捻り方が見当らないのが偽りのないところで、美事な題名としか云ひやうがない。

 表紙は例によつて和田誠。黒猫を抱いてパイプを銜へた背広の紳士で、何故かう云ふモティーフなのかは読み進めばちやんと解る。粋な仕掛けだね。尤も筆者の名前だけが普通の明朝活字を用ゐてゐるのはちよいと気に喰はない。そこだけ妙に文字が浮いた感じで勿体ないなあと思ふのだが、その微妙な違和感を和田は狙つたのかも知れず、だとすればまんまと引つ掛かつた事になるわけで如何にも題名に相応しい。

 ここには色々な雑誌に寄稿された、そして色々な本に収録された丸谷のミステリー…本人曰く"探偵小説"に関する文章が纏められてゐる。と云つて仕舞ふと身も蓋もないのだが、事実なのだから仕方がないでせう。
 但しああさうですかと頷くだけでは困るので、ここで我われが丸谷が小説家であり随筆家であるのと同時に批評家でもある事を思ひ出す必要があるでせう。その批評家的な態度は小説にも随筆にもたつぷり発揮されてゐて、時に微苦笑を、時に腕組みを誘はれる。尤もそれは小説や随筆の中では巧妙に隠蔽されてゐて、だから読み了へてから何日かが過ぎた時、丸で第一等のテロリストが仕掛けた時限爆弾のやうに不意に効いてくるのだ。
 確かにさう云ふ趣向は面白いし私はそれを好もしくも思ふ。が、何しろ巧妙に隠蔽された時限爆弾だから、いつ爆発するか見当もつかない。些かこまる。寝不足になつたら色々差障りも出てきかねないしね。そんな事を考へると本書に収載されてゐるのは書評であつて書評は書物の批評であるから、丸谷の批評家振りを存分に味はへる上、差障りも少なく済みさうに思はれる。実際のところ、その"思はれる"はただの勘違ひなのであるが。

 書評は六づかしい。
 批評が六づかしいのは当り前の話として―批評とは何ぞやと云ふ設問について書き出すときりがなくなるので、漠然と"歴史と広汎を兼ね備へなくてはならない行為"と云つておかうか―その対象が書物になると、文章の巧拙がきはめて重視される要素に加へられる。有体に云つて仕舞へば、文章が下手な書評はその一点で値うちが二段も三段も下がるのだから(たとへば本稿のやうに)、書評の書き手はたいへんな苦労をしてゐるにちがひない。ただそれで一読、"ああ巧いなあ"と思はせては書き手にすれば失敗であつて、この辺りはお酒と同じであらう。水ニ似タルヲモツテ最上ト為ス。
 するすると呑める…いや間違ひ、読めるのですよ、確かに。元々丸谷の文章は論理が明晰で読み易いところに、構成が非常に上手なのも相俟つて、愉しい読書の時間を過せるのは私が請合はう。問題はその後で、かれの探偵小説批評の背景には膨大な文學史がある。ゆゑに探偵と犯罪を描く小説の批評にソルジェニーツィンが、羅馬人ピラトが、小林秀雄が(さう、平然と!)登場し、かれらはそれぞれの席でウォトカと水で割つた葡萄酒と温燗を振舞はれてゐる。『黄金を抱いて翔べ』の江口ではないけれど、シェ・ブリランテと呟きたくなつてくる豪奢で、だがその豪奢は読み手に一定の読書経験を要求してもゐる。
 ほら。するする呑めるお酒は、干した後、咽喉の奥から香りが立ちのぼるでせう、ああ云ふ感じ。
 その香りは複雑玄妙で初めは兎に角よい香りとしか思へないのだけど、色々のお酒を丁寧に呑んだ経験があればそれがどんなものか把握出来るやうになつてくる。本書で手を替へ品を替へて丸谷が見せる藝はその香りに似てゐる。丸のままでも素敵なのは勿論として、嗅ぎわけが出来ると更に嬉しい。或は本書に敬意を示して散りばめられた数々の手掛りと譬へ直さうか。文學の欠片を丹念に読み解くと、一篇の探偵小説がその社会や風俗や歴史に繋がつてゆく様が見えてくる。詰り丸谷は探偵小説の批評を探偵小説風に書いたとも見立てられるわけだが、ただひとつ残念なのは、そこには犯人がゐない事である。
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by vaxpops | 2013-05-08 23:30 | 読書一冊 | Trackback | Comments(0)
『東京煮込み横丁評判記』
坂崎重盛・光文社智恵の森文庫

 コローキアルに過ぎる文章は余り好みではない。
 但しコローキアルな文章が駄目だと云ふのではなく、肌に適はないとする方がより正確か。

 然しそれでも読んで仕舞ふ本は矢張りあるもので、本書はその中に入れていいと思ふ。

 中身??

 題名が示す通り―と云ひたいところだが、残念ながらそこまで単純ではない。言葉遣ひが非常にかるい(と云つては著者に失礼か)ので、うつかり読み流しがちになる筈が、意外なほど読了に時間が掛かつたのは筆者の背景が文章のかるさから連想される印象よりはるかに分厚いからにちがひない。

 尤もさう云ふ背景についてあれこれ考へを巡らすのは野暮な態度と笑はれて仕舞ふだらう。浅草や北千住、新橋、小岩、王子に立石と舌鼓を打ち続ける筆者を羨み、本書を片手に紹介された横丁をうろつくのが一ばん似つかはしい姿ではあるまいか。

 なに、足を伸ばす時間がなくたつて構はない。
 近所の気に入りの呑み屋で、煮込みを肴に酎ハイをやつつければ、そこが我われの横丁に変貌する。
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by vaxpops | 2013-02-06 23:30 | 読書一冊 | Trackback | Comments(0)

13036-0184 衣のはぜる音

『明治洋食事始め』
岡田哲・講談社学術文庫

 ウィンナ・シュニッツェル。ご存知の通り、維納風仔牛のカツレツ。うすく叩いた仔牛の肉に衣をつけ、両面を炒め揚げるやうな料理。中々うまいもので、午後遅い昼食に贅沢をしたい時なぞに似合ふ。葡萄酒の一ぱいくらゐ添へても文句は云はれないにちがひない。
 然しカツレツと云ふ単語から思ひ浮ぶ姿ではウィンナ・シュニッツェルはない。衣も揚げた感じも薄いし、実質は別としても見た目はうすつぺらな肉料理で、維納人に聞かせたら腹を立てるのではないかとも思ふが、このささやかなウェブログを維納人が読んでゐる筈はないから、気にしなくてもいいでせう。

 我われがカツレツと聞いて殆ど一直線に連想するのはとんかつで、分厚い肉にたつぷりざつくりとした衣を纏はせ、油を贅沢に使つた見た目にも実質もがつしりと云ふ形容が最も似つかはしい。ご飯に適ひ麦酒にも適ふ。このご飯に適ふ点が重要で、とんかつは日本式の料理なんですね。
 とんかつの切つ掛けを作つたのは云ふまでもなく明治維新で、その側面には欧米人への恐怖心と劣等感と憧憬と云ふややこしい感情の混交があつた。その感情を払拭せしめねばならぬ。ゆゑに肉を喰はねばならぬ。単純なのだか本丸をぢかに攻めたのか解らない結論が、筆者の云ふ"料理維新"に繋がつたので、本書はその辺りから明治日本がどうやつて「肉食と西洋料理」を受け容れ、「日本式の洋食」を生み出すに到つたかを大きな筆で描く。

 「肉食を受け容れ、コートレットと云ふ西洋料理を輸入した日本が、天麩羅と云ふ和食の技術を応用さして完成に到つたのが洋食の代表…王者たるとんかつである」
と筆者は云ふ。
 明治五年に帝が肉食をしてから、昭和四年に"とんかつ"が販売されるまでの六十年間がその時間で、厳密な考證は思ひ切つて省略されてゐて、食物史的な観点から考へるともの足りないのだらうが、愉快な逸話を散りばめた俯瞰図を眺めてゐる感覚は快い。尤もただの俯瞰なら味気ない地図になつて仕舞ふが、そこにとんかつ(更に重要な脇役としてあんぱん)を配置したのが筆者の妙であつた。
 洋食(日本化した西洋料理)が数多くあるとして…いや実際、数多くあるのだが、洋食の印象の最大公約数はとんかつだらうし、とんかつを軸に据ゑれば肉食全般に視点をずらす事が出来るし、肉食全般に視点をずらせば、千年以上の肉食禁忌―厳密に云へば獣肉との関はりがきはめて稀薄だつた期間だが―が成り立つた島國の事情にまで踏み込める。
 巧いものですね、目の付けどころが。率直に云へば文章は大した事はない。まあ下手糞ではない程度なんだが、それで愉快な読書の時間を得られたのだから、この手の本にたいせつなのは主役なのだと云ふ事なのだらう。如何にも日本人的な執念で、コートレットがとんかつになつてゆく様を読むと、油の中で衣がはぜる音が妙に恋しくなつてくる。
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by vaxpops | 2013-02-03 16:30 | 読書一冊 | Trackback | Comments(0)
『私本・源氏物語』
田辺聖子・文春文庫

『春のめざめは紫の巻 新・私本源氏』
田辺聖子・集英社文庫

 "読書一冊"と名付けたカテゴリに二冊の本を入れるのは無理を感じなくもないとして、然しさうしなければいけない本と云ふのも確かにあるから仕方が無いと腹を括るとする。スペンサーならきつと
 「男は、こうと決めたことは守らなきゃならねえんだ」
 と突つ張るにちがひないが、私はスペンサーではないし、私がスペンサーでないのは私の責任でもない。
 そのスペンサーは一人称小説で菊池光の優れた訳もあつて、夜長の読書によく似合ふシリーズなのだが、本題の二冊とは丸で趣が異なる。共通するのは一人称形式の一点に限られて、その一人称の使ひ方が実に巧妙を極めてゐる。

 『私本・源氏物語』の語り手は"ヒゲの伴男"と云ひ、"ウチの大将"こと光源氏の君に仕へる下人。青ツ白い青年貴族の姿を強かな中年男が描く趣向。豪奢ではあつても物堅くつて融通の利かない上流と、諸々振りまはされて難儀ではあつてもエエとこはきツちり抑へる下層、わかさの滑稽と中年の図々しさ、女と男の思惑、さう云ふ様々な対比が実に愉快に読める。この愉快は共感や同意だけでなく、同情や反発や懐古も全部引つくるめた感情で、小説の愉快、面白みはこんなところにあるンやなアと思はされて仕舞ふ。
 その『私本・源氏物語』の最後は原典で云ふ「明石」で、続篇の『春のめざめは紫の巻』は明石の配流からみやこに戻つてからの話になる。ここで私は不安を感じた。明石の配流は三年に及んでゐて、光源氏の君は"釣りをし、泳ぎをおぼえ、嵐にもへこたれなくなっ"た―生ツ白い青年ではなくなつたので、これでは伴男との対照の妙味は期待出来さうにない。ハテ、お聖サン、どないしはるンやろ。
 さう思つて読み始めると、一人称の形式はそのままに、語り手が乳母や侍女、はたまた姫君になつてゐて、その手エがあるかと感心させられた。前作の対比の妙が姿を隠した代はりに、複数の女性…奔放な若姫、姥櫻の侍女、縁あつた姫君…から見た光源氏の君が映し出され、それは変はらぬあくがれの対象だつたり、むかしは美男だつたかも知れないけれどと批評されたり、時に窮屈なみやこの象徴にされたり、万華鏡を思はせる千変万化と云つていい。

 ここで我われは、田辺聖子と云ふひとが恋愛小説(と云ふきつい言葉が似つかはしいかはさて置き)と関西方言を文字であらはす名手である事を思ひ出す。さう思ひ出すと『源氏物語』の原典はみやこ―関西だ―を舞台にした大恋愛絵巻であつて、この作家にとつて、これ以上はない小説の題材ではなかつたかと考へつく。尤も源氏を題材にするだけならばその辺の作家でも書いて書けない事はないだらう。そこに様々な対比、喜悲劇を織り込むのも二流まで進めば不可能ではないだらう。然し更に図々しくつて訳知りで妙に愛嬌のあるちよいと助平な中年男を登場させるとなると、さて、田辺聖子以外にたれが描けるか。そしてこんな描写をさて、田辺聖子以外にたれが描けるか。

 「長い急用どした、遅うなってごめんやす―」
 源氏の君が下りてこられた。
 「山椒の佃煮、ごちそうさん。ピリッと辛うて、つんと鼻にくるたびに、あんたのことを思い出しておりました」
 源氏の君はそういって姫君の手をとられたが、三年間のあいだに、日に灼けてすこし太り。恰幅よく、もう青白い公達ではなかった。
 姫君はあんまり突然だったので、ぼうっとしてかたくなっていられる。
 「三年の間に、私もすこしお酒の手があがりましたぞ。もう負けへんと思うのどす」
 しかし源氏の君の物やわらかな説得力ある身ごなしからみると、たぶん、お酒も太鼓もなくても、姫君を「ノリにノらせる」ことがおできになるにちがいない。そういう貫禄である。
 「三年見んあいだに、ますますきれいになられて、見飽かぬ顔どす」
 と源氏の君は微笑んでいわれた。姫君はもう、「スジの通らぬ」「納得できぬ」うそだとは叫ばれなかったのである。嬉しそうに羞んでいられる。
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by vaxpops | 2012-11-10 15:00 | 読書一冊 | Trackback | Comments(0)