いんちきで、さらにマクガフィンだつた。

by 丸太花道@乳軟部

カテゴリ:本映聴観( 36 )

好もしいあひびき

『星のあひびき』
丸谷才一・集英社文庫

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 文庫本に対する好き嫌ひが私にはあつて、たとへばハトロン紙の頃の岩波文庫は好き。講談社文庫はきらひだが、同文芸文庫は好もしい。さういふ視点で云ふと、集英社文庫はきらひな部類に入る。ことに背表紙の惡派手具合は講談社文庫と双璧をなす(これ正しい用法か知ら)酷さで、本棚に並んだ姿は目を背けたくなる。
 そんなのは中身に関係ないから、気にする方がをかしいといふ批判は一応、うなづくとして、手に持ち、目に入るものなのだから、見た目だつて大事なんではないかなあと疑問は呈しておかう。一体に文庫本の体裁は、出版社の勝手都合が前に出すぎで、いやそれ自体は惡くないとしても、趣味が惡いからどうにも困る。デザイナーの手腕が試されるのは、かういふ時の筈なんだが、私の思ひ込みなのだらうか。

 併し見た目の惡さがあつて、中身が優れてゐれば、何となく得をしたといふか、おれはちやんと評価してゐるのだといふか、妙な満足を感じるのも事實で、勿論これは勘違ひ。それくらゐは許してください。この本が一讀再讀三讀に値する面白さなのは、きつと請け合ふから。
 長短織りまぜた随筆…評論風の長文があり、書評があり、眞面目な顔つきと冗談があり、際どい話題がある。どこから讀んでもかまはない。気樂に讀むなら"書評35本"からが宜しからう。巻末の初出一覧(この本には併せて索引も用意されてゐる。この点は大きに評価したい)を見ると、毎日新聞に掲載されたもの。ひとつひとつが比較的短いから、讀み易い。
 この讀み易さを併し安直と捉へると間違ひを犯すことになる。「春画のからくり」(田中優子・ちくま文庫)を評した一文では、著者の論考を受けながら、さらりと"浮世絵師は呉服屋の宣伝係でもあつた"と書きつけ、布がつくる襞のフレーム性に賛意を示しながら、その背景にある"物語における布といふ伝統"を指摘し、源氏物語や泉鏡花から證立てる。美事な藝と手を拍ちたくなつてくる。
 丸谷才一は非常にレトリカルな作家なのに、長文になるとそれが解りにくくなる傾向がある。その解りにくさは勿論、丸谷が意図的に隠してゐる所為(この辺りの機微は同書所収の"わたしと小説"にうつすらと透けてゐる)なのだが、短い文章だとその骨組みがくつきり冩るのだ。これは勉強になるなあと云ふのは、どうも好みに適はないのだが、凡百の文章指南に目を通すより、この一冊を丹念に讀み返す方が余程有益なのは疑念の余地がない。
 ただそんな風に…云はば教条的な姿勢で目を通すと損をする。のんびり、第一級の藝を愉しめばよいので、たとへば湯木貞一(丸谷いはく"吉兆のおとうさん")が、日本料理を食べる際は、ともかく最初の一杯は清酒を召し上がつていただきたいものです、と語つた時の表情と聲があまりに寂しさうなので、食前酒は清酒(またはシェリー)にしてゐると書いた後
「しかし食後酒の件になると、湯木さんは何も論じなかつた。そこで、わたしは平然として、いろいろさまざまな酒を飲む。自由を行使する」
と續ける。威張つてゐるのか、冗談なのか、好意を含んだ揶揄ひなのか。ここは分析的な態度で臨むより、おれならどうするかなあと考えを巡らすのがあらまほしい。そこには作家と讀者の好もしいあひびきがある。
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by vaxpops | 2017-07-31 07:15 | 本映聴観 | Trackback | Comments(0)

複雑な構造の驛

『新版 ローマ共和政』
フランソワ・イナール(訳・石川勝二) 白水社 文庫クセジュ

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 立花隆だつたかと思ふが、翻訳もので讀み辛いと感じたら、先づ訳し方を疑へと書いてあつた。序でに詰らないと感じたなら、投げ出して仕舞へとも書いてあつた。確かにさういふ…讀み辛くて詰らない本があるのは事實の一面なのだが、痛烈だなあ。

 但し讀み辛くても興味をそそられる本も中にはあつて、この本はその一冊に加へられる。
 共和政時代のローマは七代續いた王を追ひ出してから成り立ち、スッラを経て、カエサルとオクタウィウス(後のアウグストゥス)に潰されるまでの五百年くらゐを指す。ハンニバルの戰争もスパルタクスの叛乱も『ガリア戰記』もこの時代の話で、古代の地中海史に多少の興味があれば、實に面白い時代だと思へるだらう。そこにはギリシアだけでなく、エジプトだけでもなく、シリアやペルシア、イベリヤからフランスにも跨がる広範な地域が含まれてゐて、世界史上これほどダイナミックな時代は、現代に到るまで、ないのではないか知ら。

 さういふ五世紀を描かうと云ふのだから、詰らなくなる道理はない。ない筈なのだが、率直なところ、何度も本を投げ捨てさうになつた、と白状しておかう。何故かと云ふのは簡単で

 「けれども周知のように、すでに前の時代から、原初の徴兵‐原始的な三つのトリブス(おそらくは人種に起源を持ち、各トリブスは一〇のクリアに再分割されていた)に基づいた‐に取って代わられたのは、市民を組織的に掌握するのに都合がよいようにと思い描かれた財産調査用の階級分け(二四頁の表参照)に基づく、当時はやったやり方であった」

一讀して、すつと理解出來るでせうか。念の為にハイフンと括弧書きを除くと

「けれども周知のように、すでに前の時代から、原初の徴兵に取って代わられたのは、市民を組織的に掌握するのに都合がよいようにと思い描かれた財産調査用の階級分けに基づく、当時はやったやり方であった」

となるのだが、これだつて意味を取るのは六づかしい。訳者による後書きを見ると、原語には非常に長いひとつの文が多用されてゐて、かういふ文章を、"文脈を損なわずに日本語に直すのはなかなか骨の折れる仕事"だつたので、括弧書きやハイフンを用ゐて対応したさうだが、かういふ本に文學的な配慮は不要である。一文が日本の讀者にとつて長過ぎるなら、短い文に分割すればこの場合は好もしい対応なので、判断を誤つたのだなあと溜め息をつかざるを得ない。

 但し著者の目配りは大したものだと思ふ。扱ふ時間も地域も人種も制度も戰争も、余りに広くて変化に富んでゐるから、踏み込みは些か浅めに感じられたけれど。
 ことにマリウスに始まる軍事の変革からスッラの手による復古的な改革の流れは、その後のカエサルとアウグストゥスに到る(詰り共和政ローマの変質と崩壊に直結する)きはめて重要な期間…と私は考へてゐる…なのだが、その辺りも他の箇所と同様に淡泊な筆致だつたのは残念と云はざるを得ず-おや、訳者の惡癖が移つたか。
 尤も筆者にしたら、難癖をつけられた気分になるかも知れない。目的は五世紀に跨がる時代の俯瞰で、個々の事象を詳らかにすることではないのだよ。さう云はれたら、確かにその通りか。この時代には幾つかの、或は幾つもの分岐点と変化があつて、おほむねそれらは焙り出されてもゐる。そこで"if"を考へてみるもよし(たとへばスッラの大粛清に際してカエサルの助命が赦されなかつたら?)、ある点を突つ込んで更に調べてみるもまたよし。さういふ意味でこの本は、ローマ或は地中海史の様々な方面へ進み乗り換へられる巨大な驛と見立ててもよい。尤も肝腎の案内板がひどく讀み辛くて、随分の苦労は求められるけれども。
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by vaxpops | 2017-07-25 09:00 | 本映聴観 | Trackback | Comments(0)
『旨いものはうまい』
吉田健一・角川春樹事務所 グルメ文庫

 先に文句を云ふ。
 先づ題名のつけ方がひどい。
 グルメ文庫といふのもひどい。
 ルビの振り方も何かをかしい。
 著者の名前を羅馬字でも示すのはいいとして、それがYOSHIDA KEN-ICHIと意味のない " - " が入つてゐるのも理解し難いし、ラパーの出來も感心しない。
 角川春樹にはこの辺の感覚が中々すすどいひとだつた印象を持つのだが、何故かういふ酷い言葉遣ひを撰んだのか、それともかれの預かり知らぬところで企画されたのか。

 併しさういふ欠点を我慢すれば、中身は何しろ吉田健一である。泥炭の土地で醸られたヰスキィのやうな独特の薫りがあるから、馴れが必要かも知れないが、そんなのは小さな問題で、ひとつふたつ讀めば、後は理想的な呑み助で喰ひしん坊の賑やかなお喋りに耳を傾ければよい。
 それで本來なら気に入りの一節を引くところなのだが、これが實に六づかしい。一ヶ所を引かうとすると前後に触れざるを得ず、前後に触れ始めると結局は丸々の引用になりかねず、だつたらお讀みなさいといふところにきつと落ちるし、その方が好もしいのは、どこそこで呑んだうまいお酒の話を聞くくらゐなら、そのどこそこに足を運ぶ方が望ましいのと同じである。

 ただ吉田の文章には一讀、どこそこの何々…酒田ロンドンの粕漬けだの、ハムエッグスだのが浮ぶ不思議がある。それは精密画のやうではなく、併し抽象画でもなく、これはやむ事を得ないので引用すると

 『ハム・エッグスを注文する。ハム・エッグスが來たら、辛子をハムにも卵にも一面に塗り付けて、その上にソオスをたつぷり掛けると、不思議に正直な味がして、實にいい。それで、今気が付いたのだが、昔の食堂車の料理があんなに旨かつたのは、安い調味料をふんだんに使つたからではないだらうか。あれは西洋風の砂糖醤油の味だつたのである』

全然具体的ではない…正直な味とはどんな味なのか知ら…のに、ハムエッグスの湯気と辛子とソオスの香りが立つてきて、これを今すぐ食べたい。辛子が鼻に抜けるのを麦酒で抑へつけたい、いやその前に急行列車に乗らなければ、食堂車はあるのか知らと落ち着かなくなつてくる。檀一雄流に云へば上ずつてくる。詰り名文なのだが、自分の食卓への態度が如何に貧相なのかを實感させられる点で、こんなに迷惑な名文も見当らない。
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by vaxpops | 2016-10-07 07:00 | 本映聴観 | Trackback | Comments(2)

文學の伝統に忠實な

『小惑星帯(アステロイド)遊侠伝』
横田順彌・徳間文庫

 任侠映画といふものがある。あつた。

 高倉健や鶴田浩二を思ひ出せばいい。
 義理堅くて腕が立つて無口で不器用な漢が、我慢にがまんを重ね、最後に強慾無道なやくざを叩き斬つて仁侠の筋を通す話で、『仁義なき戦い』から實録路線が台頭するまでは、やくざを描いた映画はおほむねかういふ仕立てだつた筈だ。
 マンネリズムと呼んでもよいが、ここは寧ろ様式美と見る方がしつくりくる。任侠映画に限つた話ではなく、古い日本映画のシリーズものは大体かうで一定の型で成り立つてゐたし、テレビジョンの時代劇も基本的にはこれを踏襲した作りだから、一種の伝統藝と呼べるだらうか。

 併し不思議なのは小説だと、かういふマンネリズム…様式美は殆どの場合赦されないことで、例外は古典的な冒険活劇くらゐだらうが、これは小説への差別ではないか。と横田が考へたかどうかは疑はしい。任侠映画が好きなSF小説家の藝のありつたけを絞つた短篇連作が、この『小惑星帯遊侠伝』なのだと単純に受け取る方が正しさうに思はれる。

 全篇の主人公を張るのは"寺島組の昇り龍"の異名を取る真継龍一郎。無頼の徒ではなく、筋目の正しい仁侠者である。かれが義理に縛られながらも、その道の筋を通すのがすべてだから、粗すぢは紹介はしない。強調したいのはその"昇り龍"をはじめ、兄弟分の"降り龍"梅原、寺島組のお美津姐さん、惡党の藤原や野村や剛田、"天王星の人斬りドス"巳之介、"黒水仙"のお京といつた登場人物が明らかにストック・キャラクタなのに實に魅力的なことで、横田はきつと舌なめずりしながら書いたにちがひない。

 更に科白まはしや言葉遣ひの巧妙さも挙げておく必要があるだらう。宇宙服に"きもの"、原子破壊砲に"はつぱ"とルビを振る感覚。トリトン正宗や火星酒("うんがざかり"のルビがある)といふ酒の銘柄。女が呼び掛ける際の"お前さん"にはちやんと"おまいさん"とある。そこに

 「昇降そろいの兄弟龍、たとえ生まれは違っても、死ぬときゃいっしょと決まってます」
 「あたしゃ、兄さんのむかしのことなんぞ、これっぽっちも興味がないやね。それより、飲もうよ。飲んで、あたしの友だちになっておくれよ」
 「兄貴、渡世の義理でござんす。許してやっておくんなさい」
 「寺島組の真継龍一郎、人呼んで昇り龍、福永彦次の弔い合戦とありゃ、こいつは、ちょっとばかり手荒いぜ」

 かういふ科白が次々と出てくるのだから、昂奮しない方がどうかしてゐる。横田が丹念に資料を讀み込み、映画を深々と観た…詰り任侠映画の伝統と様式を學んだ結晶が『小惑星帯遊侠伝』で、その視点から考へるとこの小説は文學の本筋(伝統に則り、且つ拡げる)に忠實であると見立てても誤りではないだらう。
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by vaxpops | 2016-09-23 07:00 | 本映聴観 | Trackback | Comments(2)

1947 奇跡の15分間

 ラヴェルといへば『ボレロ』である。断定するのはラヴェルへの礼を失するかも知れず、ただ私にとつてのラヴェルは『ボレロ』である。

 ところでこれは私だけの失態ではないと信じたいのだが、屡々忘れられさうになるけれど『ボレロ』はバレエ音樂だから、本來は踊り手があつて成り立つ。前回の[踊る韃靼人]とこの辺りは似てゐて、音樂が十分以上にドラマチックな時に起る弊害ではないか知ら。

 かういふ書き方をしてゐるのだから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏はきつと

「ははあ、丸太はやつと、"バレエとしてのボレロ"に触れたのだな」

と推測されるだらう。ほぼ正解である。
 ほぼと勿体振るのは私を驚倒させた『ボレロ』は2015年年末のそれだからで、時間は遡ることになる。まあ、どちらにしても遅すぎるのに変りはないけれど。

 ひとつ、つけ加えへるのを忘れてゐた。私はバレエやバレエの踊り手や技術について、まつたく知らない。まつたく知らない私を驚倒させたのだから、大したものと云ふのもをかしいだらうか。

 シルヴィ・ギエムが2015年末の東急ジルベスターのカウントダウン・コンサートで踊つた『ボレロ』は凄いものだつた。

 何を今さらとあきれられるか知ら。

 私は女性を尊崇する男ではあるが、彼女ほど完璧に近い肉体を持つ女性は見たことがない。彼女に近い肉体を持つ女性がゐるとすれば、体操の撰手だらうが(さういへばシルヴィは体操の出身だつた)、それでも無駄が多いと思へて仕舞ふ。

 踊るといふ一点に集約された躰の美しさは、そのまま動作の美しさに直結してゐて、いやそれは区別出來るものではない。緩やかでなめらかでごく自然な風に。それが長い修練の賜物だと解つたのは五へんめくらゐからで、その美しさを示す大きな要素に、1秒に満たない静止があると気づいたのは十へんめくらゐからだらうか。

 これもまた随分遅い話だが、予備知識を持たない身にとつて、彼女は些か濃密すぎる美酒だつたと考へてもらひたい。

 その躰その動きはメロディでありまたリズムでもある。
 硬質であり柔軟であり、煽るやうにすすどくありまた媚びるやうに円くもある。
 時に拒み時にいざなひ、少女と聖女と賣笑婦が入れ替り立ち替る。
 無邪気と計算尽くが入り混ざる。
 我われを恍惚とさせ、戸惑はせ、酔はせ。

 跳ね上つた掌が舞台に伏せられたを目にした瞬間、シルヴィ・ギエムは完成し、『ボレロ』は完結する。そして我われは15分間の長い奇跡がそこにあつたと、その時になつて気づくのだ。

 シルヴィ・ギエムは『ボレロ』と万雷の拍手と共に引退した。
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by vaxpops | 2016-07-16 07:45 | 本映聴観 | Trackback | Comments(0)

1946 踊る韃靼人

 不勉強と蒙昧を捏ねてひと形にすると丸太になるのは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の既にご存知のところだからその点についての言ひ訳は一切しないとして、ボロディンの有名な『イーゴリ公』を私は通して観たことがない。

 併し特に有名な第2幕の"韃靼人の踊り"はそれでも知つてゐて、色々な演奏を(生ではないが)何度も聴いた。非常にドラマチックな12分余りなのだが、ごく最近に到るまで矢張り私は無知蒙昧だつたのが判つたので、その話を短く書く。

 いやよく考へれば当り前なのだけれど、『イーゴリ公』は歌劇である。歌劇なのだから歌があり踊りがある。そこのところがすつぽり抜け落ちてゐたのだから、情けないとか何とかそんな程度ではとても収まらない失態だよね、これでは。

 それで偶々歌と踊りのある"韃靼人の踊り"を観る機会があつて、それはドラマチックだけでなく雄大で豪壮。野蛮の味が香辛料のやうに効いてゐて、オーケストラに任せる計りなのは勿体無いとやうやく気がついた。

 何といふ遅さ!

 何といふ無礼!

 ハンを讃へる兵隊が近くにゐたら、確實に首をはねられるだらうなあ、こんな有り様では。ただ遅れ馳せと云はれても、合唱を聴いてえらく感動したのも事實だから、首斬りは何とか勘弁してもらへまいか。どこにどう感度したのかを語つてもよいのだが、最初に"短く"書くとしてゐるので、今回は残念ながら、ここまでとする。
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by vaxpops | 2016-07-15 07:00 | 本映聴観 | Trackback | Comments(2)

1499 ティツィアーノ!

 ティツィアーノと云ふのはミケランジェロやレオナルドと同じく名前で、伊太利の偉大な藝術家は姓で呼んではならないとか、そんな規則があるのか知ら。

 そのティツィアーノの『鏡の前の女』を、先日まで六本木の國立新美術館で開かれてゐた[ルーヴル美術館展]で観る機会に恵まれた。

 ルーヴルから、あのフェルメールの、あの『天文學者』が來る!

 と云ふのが賣り文句だつたけれど、どうして豪勢な展示。グルーズの『割れた水瓶』なんてきはめてエロチックな少女…おそらくは破瓜の経験の後だらう…の姿や、コローのそこまで露骨ではないにしても、矢張りエロチックな少女像の後に、ティツィアーノが登場したんである。

 モデルの女に、グルーズやコローが描いた“少女の聖性”は感じられない。明らかに経験豊かで、自分の美しさとその値うちを精確に、完全に理解してゐる顔をしてゐる。
 無垢な…或は無垢だつた少女では及びもしない、また彼女たちでは想像も出來ない世界を十二分に知り尽くし、自らの足と稼ぎで生き抜ける技を持つたしたたかな女の姿と云ひかへても誤りではないだらう。

 後になつて調べたら、どうも彼女は高級な娼婦らしい。この絵が描かれた頃のヴェネツィア共和國は最盛期を過ぎたものの、地中海の覇権は辛うじて掌に残つてゐる状態だつた。歴史に名高い“レパント海戰”はこの半世紀程の話だから、絶頂から爛熟を経て、衰退が始まる直前と考へてよく、彼女が實際に高級娼婦だつたとすれば、偉大なヴェネツィア共和國が磨き上げた世俗美の結晶と呼んでいい。

 我われはさう云ふ女性を撰び描いたティツィアーノの目と筆を賞讃しなくてはならない。天文學者がどれだけ才能に満ちてゐても、残念ながら娼婦の乳房にまさるとは思へないのである。
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by vaxpops | 2015-06-03 07:30 | 本映聴観 | Trackback | Comments(4)
 燕子花と書いて“カキツバタ”と讀むのださうだ。知らなかつた。和語の“カキツバタ”に無理やり漢字を当て嵌めたんだらうな。

 その燕子花を題にしたのが尾形光琳の屏風で、先日の熱海行きの際、MOA美術館に来てゐたから観に行つた。美術館は熱海驛からバスで15分くらゐの距離。但し展示が終る直前の日曜日だつたから、先づバスがひどく混雑して、うんざりさせられた。
 中に入ると長いながいエスカレータを乗り継いでやつと受付に辿り着く。この間の内装は感心しなかつたね。美術館の運営母体に宗教が絡んでゐる所為もあるのか、妙に荘厳を気取つた風なのが宜しくない。エスカレータもさうだが、苦行の暗喩なのか知ら。洗練に到るまでに百年は必要だらうなと思つた。

 さうやつて中に入ると、いきなり燕子花図屏風がある。通路を挟んだ向ひには矢張り光琳の紅白梅図屏風があつて、いやはや、豪勢な展示だねえ。勿論おそろしく混雑してゐる。硝子の前には既に多くのひとが群がつてゐて、然し不思議な光景だな、あれは。
 屏風でも油絵でも、眺めるのにはそれに似合ひの距離がある。研究家の調査ならさう云ふ目的だもの、近寄つて隅から隅まで丹念に見るのは当然として(別に止めやしない)、我われはさうではない。全体を大きく、ぼんやり見物するのが丁度よい。だから私は通路の間で足を止め、頚だけ左右に振りながら、燕子花と紅白梅を交互に観た。全体は(お客が多過ぎて)無理だつたけれど、屏風は近視眼に見つめるものではない。

 それでここから燕子花図屏風から連想する話なのだが、先に云ふと私の好みは紅白梅図屏風の方であつた。燕子花が美事だつたのは云ふまでもなく、要するに文字通りの好みの話である。何故だらう。燕子花は同行の頴娃君曰く
『非常にデザイン的』
と評してゐて、流石にすすどい。確かに絵画と云ふよりポスターに近くて、どうやら光琳は花を花として描いたのではなささうなのだ。
 カキツバタと云ふ花を示す色や形。さう云ふ要件を絞り込んで絞り込んで、要らない線や形は省略に省略を重ねて、カキツバタを燕子花と云ふ記号まで昇華させたのが、あの屏風ではあるまいか。確かに實にデザイン的でイラストレイション的で、思ひ切つて云ふなら現代風でもある。光琳の實家は呉服屋を営んでゐたさうだから、“着物のデザイン”の感覚がかれの躰に染み込んでゐたらうと想像しても許されるさうに思ふ(もしかして燕子花は元々、着物用に考へた技法の転用ではあるまいか??)比較の話になるが、従来の技法を存分に用ゐだらう紅白梅とはまつたく対照的で、この同居が光琳の天才を示してゐると思ふ。両方とも近くに寄つて観るべきだつたかも知れないと後になつて小さく後悔した。

 先ほど私は燕子花図屏風を省略と記号化と書き、現代風と云つた。そこで連想するのがキャンベルのスープ鑵やマリリン・モンローのシルクスクリーンなんである。あれは有名な記号…簡便な食事やセックス・シンボル…を繰返して、ただの記号に変質させた手法で、正直なところ私は好きではない。たれの言葉だつたか
『アメリカではカネすらも藝術になる』
と云ふ膝を打つしかない指摘がそのまま形になつたやうに感ぜられ、臭みを覚えるのだな。然しヴェルヴェット・アンダーグラウンドの人物が採用した手法は、燕子花のそれに似てゐる気がする。確証は無いが、画集であれ複製であれ、ウォーホルがどこかで光琳(或は琳派)に出会つてゐて、米國式の変換を掛けたのがあのシルクスクリーンだつたら考へてみた。どこかの美術館で、燕子花とモンローを並べる企画を立てないか知ら。
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by vaxpops | 2015-03-07 09:00 | 本映聴観 | Trackback | Comments(0)

1346 随筆の見本帖

『腹を抱へる』
丸谷才一・文春文庫

 讀んで面白い随筆はまあ、ある。

 再讀に値する随筆は、多くない。

 三讀に到る随筆は、絶無に近い。

 と云ふのは私見に過ぎないが、的外れではないとも思ふ。多くの場合、それらは所謂身辺雑記から足が出てゐないもので、ほら、その辺りのウェブログをご覧なさい。あれをうんと上手に書いたものが随筆と思はれる方は、少くないんではないか知ら。

 ちがふと断定するほどの無茶は云はないが(身の回りの出来事だけで一文を書くのだつて、六づかしいのだ)、それが随筆そのものと云はれては、ちよつと待つて下さいと云ひたくなつて、そんな時に
「ほらこれをお讀みなさい」
と差し出したくなるのがこの一冊である。

 副題に“丸谷才一 エッセイ傑作選”とある…文句をひとつ。ここは矢張り“随筆選“としてもらひたかつた。エッセイと云ふ単語のかるみは似合はないと思ふ…くらゐだから、どこから讀んでもいい。比較的短めの文章計りだから、つまみ讀みをすれば、たつぷり樂しめるのは私が請け合ふ。

 文學の愉快な考察があり、民俗學的な冗談があり、女と男のちがひのやんはりとした指摘があり、にやにや笑へるゴシップがあり、ちよつとエロチックな話題があり、食べものについての思ひ出話があり、大洋ホエールズの成績に一喜一憂するくだりがあり…詰り面白い。先ほどつまみ讀みと云ひはしたが、いつの間にかページを捲つて仕舞ふだらうから、週末の夜に一ぱい呑りながら、のんびり手に取る方がいいかも知れない。

 ところで“傑作選”とあるくらゐだから、この本に収められた随筆の殆どは再録である。私は丸谷の随筆なら見つければ買つてゐて、半分以上(多分七割くらゐは)は既に讀んでゐた。既讀の分は少なくとも三讀以上の筈で、それでも十分以上に面白かつた。忘れてゐた所為もまあ、あるだらうな。

 然し改めて樂しんでから、感心しつつ呆れたのは話の種の幅広さは勿論として、身辺の雑記だけで終るの文がただのひとつも無い事だつた。たとへばたれかと一ぱい呑みながら、大根おろしの話をしたと始まつても、いつの間にやら故郷の味(ハタハタとダダチヤ豆)の思ひ出を経由し、再び話題は大根おろしに戻つて、魯山人でおちがつく(「最も日本的なもの」) 一讀でも美事と笑はされるが、三讀(以上)目の私でも微笑を禁じ得なかつた。かう云ふ文章がたくさん詰め込まれてゐるのだから、讀まない手は無いと思ふ。

 最後にもうひとつ、文句を附けておくと、どうも収録の順がスムースに感じられなかつた。幾つかのジャンルを用意して、割り振つてゐるのだが、何となくぎくしやくしてゐる。第二巻が予定されてゐるさうだから、その辺りにもう少し、気を配つてもらひたい。
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by vaxpops | 2015-02-11 08:45 | 本映聴観 | Trackback | Comments(0)
■バルテュス最後の写真 -密室の対話
■於 三菱一号館美術館

 バルテュスつてたれだ、と思ふひとはこちらこちらをざつと眺めるのがよいでせう。もつと突つ込んだところまで知りたければ、"バルテュス全作品解説 "を見ればよい。
 画家である。
 より正確には、"問題のあ(り過ぎ)る"画家と云ふべきか。
 かれの生涯のモティーフは少女で、それをどんな風に描いたかはご自身で探してご覧なさい。画展も開催されてゐる筈だから、近くに住まつてをられれば、足を運ぶのが最良である。残念な事に私は見逃して仕舞つた。
 尤もその絵を目にして、"藝術的な感動を覚え"るかどうかは保證しない。
 バルテュスの描く少女は常にエロチックで、そのエロチックにはモデルの年齢にそぐはない匂ひが濃厚で、身も蓋も無く云つて仕舞へば、きはめて扇情的…娼婦のやうなのだな。

 そのバルテュスが晩年、スケッチの為の鉛筆をうまく扱へなくなつて手に入れた(らしい)のがポラロイド・カメラで、かれの撮影した寫眞のごく一部が三菱一号館美術館に展示されたので足を運んだ。入つてファンとアンナ・ワーリ(その晩年のモデル)と本人には失礼ながら
「どこからどう見てもただの変態の爺ぢやあないか」
と最初に思つた。そして小さなポラロイドのプリントをゆつくり眺めて、ただの変態爺と思つたのは誤りで、とんでもない変態爺だと修正した。褒め言葉である。
 アンナのポーズは微妙に動かされてゐて、それは非常に神経質な具合(ぱらぱら漫画のやうに動かせさうでもある)で、男が持つてゐる性的な感情が、(画家の云ふ)聖的な少女に転化されてゐる風にも見える。その聖性は少女が自覚してゐたものではなかつた筈で、"バルテュス最後のモデル独占インタビュー"に目を通せば、その程度の想像は許されるだらう。無自覚の聖性をバルテュスはポラロイド・カメラで露はにしたわけで、女性の聖性が常に大地母神の祝福を受けてゐる事を思ふ時、聖的な少女の中に性的なゑみが隠されてゐるのもまた、むべなるかなと呟かざるを得ない。アンナ・ワーリがモデルをつとめた八年間、密室のアトリエには、少女の香りと娼婦の匂ひが共に等しく満ちてゐたのかとも思はれる。

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by vaxpops | 2014-07-19 16:30 | 本映聴観 | Trackback | Comments(4)