いんちきでさらにマクガフィン

by 丸太花道@乳軟部

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11089-0099 静かな会話

『パパ・ユーア クレイジー』
ウィリアム・サローヤン(訳・伊丹十三)新潮文庫

 新潮文庫は伝統的に海外の作家の名まへを表記しない。
 ディケンズとかヘミングウェイとかクリスティとか、或は名まへを頭文字だけで表記するにとどまる。なので奥付を確かめるまでわたくしは、サローヤンの名まへがウィリアムだと解らなかつた。尤もサローヤンでもウィリアム・サローヤンでも、私が知らない小説家である事が、変はるわけではない。調べれば判るのは当然として、然し辞書的な知識を手に入れたところで、何がどうなると云ふのだらう。
 本棚に並べられた―と云ふのは勿論、本屋の棚の意味だ―この本を手に取つたのは、訳者が伊丹十三だと気がついた以上の理由が見当らない。率直に云ふと伊丹が海外の小説を翻訳してゐたのは意外に思はれたけれど、考へてみればかれは優れたエセーを書き、欧羅巴の経験が長いのだから、まつたく奇怪な組合せと呼ぶわけにもゆかないと思ふ。

 父は45歳。
 僕は10歳。
 僕には母(27歳)と妹(8歳)がゐる。
 父は作家で『下の顎』と云ふ小説を書き上げ(一ばん新しくつて、一ばん最後の小説らしい)残念ながらお金が無い。だから父は料理の本を書かうと考へてゐる。然し差当りお金が入る目処はない。だから僕は父と一緒にマリブの家に行く事になつた。
 いや、かうやつて書き連ねたところで、この本の紹介になるのかと云へば、まつたくのところ自信が無い。重ねられるのは小さな逸話、その大半…いや大部分が僕と父の静かな会話で、それはたとへばこんな風だ。

 「あなたは本当に料理の本を書くつもりなの? 父さん」
 「もちろん私は書くつもりさ。お前は本当に小説を書くつもりかね?」
 「ウン。僕、書いたっていいと思っているよ」
 「思ってるだけじゃなくて、本当に書くつもりはあるのかな?」
 「僕はトマトって綴れないんだ」
 「ポテトはどうだい?」
 「僕はポテトも綴れないよ」
 「どんな言葉が綴れるのかね、お前には?」
 「僕の名前」
 「じゃあ、お前は小説書く用意はできてるわけだ」

 或はハーフ・ムーン・ベイ(半月湾)の早朝、パン屋の男はロールパンにチーズを詰めたのを僕にくれながら

 「パンとチーズ、これをいつも憶えておくんだね。世の中がすっかりいやになったような時、パンとチーズを思い出すんだ。元気が戻ってくるよ」

 と教へて呉れる。
 短い教訓劇?? ―さう、たとへば、ちよつと風変りな、多分もの解りのいいお父つあんの??
 勿論さう云ふ理解の仕方をしてもいい。
 然し僕と僕の父(訳文風に書くとかうなるのだが)の会話は、10歳と45歳の間で交はされる事を思ふと、極めて高度で論理的で、論理的でありながら抽象的ではない。伊丹即ち訳者は後書の中で大意、原文の文脈を可能な限り、日本語に移し替へる試みに挑んだ(そして予め決められた通り、失敗つた)と記してゐて、かれが認めるほどの失敗であつたか、どうか。少なくともわたくしには、過剰に謙虚な姿勢なのではないかと思はれる。
 僕と僕の父はマリブの家で、古い小さな赤いフォード(頭金無しで百ドル。月九ドルの一年払ひ。合計百八ドルの余りの八ドルは利子と手数料)で、ハーフ・ムーン・ベイで、およそ想像出来るありとあらゆる場所で、対等であり、時に僕は僕の父の質問に優れた回答を提示する。こんな風に。

 「始まりは何か?」
 「僕」
 「始まりはいつか?」
 「僕が朝目を覚ます時」
 「終りは何か?」
 「僕が二度と朝目を覚まさなくなってしまった時」

 僕の父は「非常によろしい」と僕を褒める。そして読者であるところのわたくしも(伊丹の訳しぶりに影響されて仕舞つた)また「非常に宜しい」と呟きたくなる。さう云ひたくなるのは欧文脈を意識した伊丹の功績だと云つてよい。僕がこれから書くであらう小説を読んでみたいとも思ふが、サローヤンも伊丹十三も故人となつてゐる。
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by vaxpops | 2011-05-29 21:00 | 読書一冊 | Trackback | Comments(0)

11088-0098 読み手のこはさ

 ウェブログがいつ頃から大きく伸び上がつたのか、よく判らない。ごく粗雑に、個人向けのホーム・ページにとつて替はつたのは、想像が出来のだけれど、たとへばそれを年表にするとして、どうなるのか。
 個人向けのホーム・ページがちからを失つた理由は、漠然と判らなくもない。要は面倒であつたのだ。多少なりとも冷笑的な素振りをすると、その面倒に足るだけの中身を持てるひとが、ごく限られてゐたのだと見立ててもよい。更に云へばTwitterなりFacebookなりがウェブログを押しのけつつあるのは、ウェブログと云ふ簡便な形式ですら、持余すひとが数多い事を暗示してゐる。丸谷才一は『文章読本』(中公文庫)の掉尾で、書くに価する事がなければ書いてはならぬと云ふ意味のことを記してゐて、それがまつたく疑ひの無い事実であるのは、ウェブログの凋落が逆説的に證明してゐると云へる。

 一体に文章が厄介なのは、量が質に転化する期待を持てないところで、余程自覚的に(書くに価することを)書かねば、その質を高めるのは困難と云つてよい。ウェブログに飛びついたひとが次つぎに脱落し、Twitterに逃げたのは、形式の簡便さと書く行為の簡便さを非常に無邪気に混同した結果ではないか。それを悲劇と見るか、笑劇と捉へるかには多少なりとも議論の余地が残るとして、ウェブログ―そしてそれを更に簡易にしたTwitterが日本語の文章に与へた影響は、善惡の有り様で見ると、惡影響の方が大きいのではないかと思はれる。

 ひとつの見方として、自分の考へ(それがたとへ、思慮に欠けた愚劣なものだつたとしても)を文字にし、簡便に公に出来る手段が広まつたのは、喜ぶべきである、との意見はあるだらう。その見方を一概に否定するわけには…残念ながら…ゆかない。残念ながらと云ふのは、わたくし自身がその恩恵を受けてゐるからで、恩義と云ふ言葉はかう云ふ時に使ふべきなのかとも思ふが、それはいい。
 ただその喜ぶべき事の反面を矢張り見逃すわけにはゆかない。ウェブログの大流行は(その気になれば)書けるひとへの間口を広げたが、それは間口が広くなつただけの話に過ぎず、文章の質的な向上にはまつたく寄与してゐない、と云ふ点だ。当り前の事であらう。書くべき事、その書き方は必ず書き手に帰する。間口が広がり、書き手の数が多くなつたところで、その数が文章の平均的な質を上げるのかと云へば、事実は寧ろ逆なのは、個人の事情と似てゐなくもない。

 ウェブログで文章を公にするのは実のところ、(わたくしも含めた)素人には非常に恐ろしい。云ふまでもなくそれは読み手の…さう、今をここに目を通してゐるあなたのことだ…存在であつて、恐ろしいとは云つても文章は読み手がゐなければ成り立たないのだから、読んでくれるなとは云へない。
 ところで読み手は必ずしも、書き手の意図するところを汲み取るわけではない。身も蓋もなく云へば、誤読曲解が許されてゐる。批評も批判も非難も、読み手のタナゴコロにある、と云ひ替へてもよい。面白い詰らないは読み手の過去の蓄積や好みの傾向で左右される。読み手は無作為にウェブログを読み、そして過去、自分が読んだ文章と、漠然とした比較をする。漠然と、と云つたのは読み手の記憶にある、と云ふ意味で、記憶に残つてゐる以上それは、読み手にとつて忘れ難い―即ち一種の名文と云つてよい。たとへわたくしが歴史的仮名遣ひを常用してゐるからと云つて、丸谷才一や内田百閒の随筆と並ぶ道理がなく、飲食の話題を好むからと云つて、檀一雄の隣に坐すわけもないのに、かれらと比較されて仕舞ふわけである。
 書き手のわたくしとしては、迷惑な比較であるし、それ以上に大先達にぶれいだとも云ひたいところだが、読み手にはさう云つた思惑を軽がる無視する(一種の)権利があり、さう云ふ位置付けや比較は最もひろい意味で、批評の基本を為してもゐるから、行ふべきではないと云ふ事も出来ない。勿論その一方で、そこまで批評家的な立場の読み手がどれ程ゐるのか、と居直る方法も無くは無からう。このウェブログの書き手、わたくしこと丸太花道は下手糞の素人なのだと。
 然しさう居直つて仕舞ふのはどうも、まづい気がする。書くべき事があつて、それを文字にするならば、そこには伝へると云ふ意志がなくてはならず、その意志がある以上、読み手の批評(乃至批判、非難)を無視する撰択肢は有り得ないとも思はれる。

 ここで用心する必要があるのは、どの様な読み手を想定するのか、と云ふ点であらう。我われ書き手は縷々そこに
 「極めて緻密、厳密、精緻な(云はば)神の如き読者」
を想定する。その想定上の彼女(乃至かれ)は誤字脱字と云つた瑣事には拘らない。が、論理立てや全体の構造、或は比喩、引用に恐ろしい図りの綿密な態度で臨み、見落しなどと云つた無様な真似は決してしない。その指摘は詳細で誤りが無く、広汎且つ公正な、詰りどう考へても実在しないひとである。かう云ふ云はば有得ない読者を想定するのは、どうやらそれは書き手の本能…と云ふか條件反射的なものであるらしい。條件反射なので当然、それを明瞭に意識する事は滅多に無いとしても、條件反射である以上、その想定は無意識の底を流れてゐる事になる。
 さらりと書いたが、実在し得ないひとが自分の無意識の底を流れる様を思ふのは気味のよい想像とは云ひ難いが、敬しつつ遠ざけつつ、然し"さう云つた(架空の)ひと"を持たないまま、公の場に文章を書き続けるのは不可能であらうし、となるとその"架空のひと"を持たないまま書かれる事がおそらく多いのだらうウェブログが"架空の人"を持たずとも(何とか)成り立つTwitterに喰ひ荒される現状は当然の光景と云つてよい。
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by vaxpops | 2011-05-21 22:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

11087-0097 大坂酒席 5月6日

 30年来の友人と梅田はビアブルグにて。

 ホルステン・プレミアム。

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 キルケニー。

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 ヴァルシュタイナー。

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 肴はオニオンブルーミン(上)とワルドロフ村サラド(下)

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 いや、鱈腹呑んで、美味かつた。
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by vaxpops | 2011-05-14 22:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)

11086-0096 大坂ご飯 5月5日

 お午。
 出来合ひのお鮨とお好み焼。

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 この混沌具合が、何と云ふか、大坂ではありますまいか。

 晩めしはしやんと。

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 左上。菠薐草のおひたし。
 右上。トマト(湯煎して皮を剥いてゐる)
 左下。茄子の味噌和へ。お味噌はやや、甘みがきつかつた。
 右下。長葱をさつと炊いたの。
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by vaxpops | 2011-05-13 21:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)
 5月2日、実家の昼めし。
 左上。人参と鶏肉。
 右上。さらし玉葱と鰹節(ぽん酢で喰ひました)
 左下。白いご飯(ごく柔らかい)
 右下。玉子の甘酢あん。冷凍食品。

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 5月2日、実家の晩めし。
 左上。冷素麺(2束余り)
 右上。胡瓜とかに蒲鉾の酢の物(ちよと、甘め)
 左下。厚揚げと隠元豆を炊いたン。
 右下。牛肉の甘辛煮(これが旨い)

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 5月3日、実家の晩めし。
 左。レタスとトマト。
 中央上。蝦の天麩羅。抹茶塩で。
 右。胡瓜と刻んだ昆布の酢の物。
 中央下。南瓜と林檎のサラド。
 右奥。縮緬雑魚。

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 5月4日、石橋さとにて、手こね鰹叩き寿司膳。
 冷し饂飩、天麩羅、小鉢のセット。

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 5月4日、実家の晩めし。
 左上。南瓜と林檎のサラド。
 右上。レタスとトマト。
 左下。さらし玉葱に鰹節。
 右下。大根、人参と豚肉の炊きもの。

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by vaxpops | 2011-05-12 17:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)