いんちきで、さらにマクガフィンだつた。

by 丸太花道@乳軟部

<   2011年 10月 ( 26 )   > この月の画像一覧

 麦切りと云ふ食べ物があるのを初めて知った。詳しい製法はよく判らないけれど、麦粉を麺状に練り上げたのを湯がいて、緩くといた味噌のたれ(やや甘くち)をかけて分葱を散らしたひと品である。正直なところ洗練に欠けた、多少くち惡く云へば、ごく原始的な蕎麦もどきなのだけれど、奥多摩の入り口でそそり込むそれは、鄙び具合がかへつて好もしく感ぜられた。麦切りを茹でてゐた親爺によると
 「あの鬼の平藏も喰つた」
さうで、もしかして私は、親爺の舌先三寸に騙されたのかも知れないが、なーに、勘ちがひでも旨いと思へたなら、得ぢやありませんか。
 えーと、さう。澤乃井…小澤酒造の藏から歩いて数分のところに赤とんぼと名付けられた場所があつて、我われはそこにゐるのです。河岸をかへて、気分を新たにすべし、と云ふ腹算用ですね。うまくしたもので、暢気に歩いて数分は辛抱出来なくもなかつた雨が、赤とんぼのテントに潜り込んだ途端、ばらばらざあざあ派手になつたのだから、我われには何か幸運が付き纏つてゐる。
 赤とんぼにゐるからと云つて、辺りが夕焼け小焼けではない。まだまだ午前十時半とか、そのくらゐでありながら、小ぶりとは云へ聞き猪口で十五はいを空けた我われはご機嫌も麗しく、藏の二周目を控へる代り、テントを打つ雨の音を肴にまあ詰りなんだ、かろく呑んでゐるのです。さうさう、ここまで云ひ忘れてゐたけれど、私も頴娃君もカメラを持つてゐて、ふらふらとシャッタを切つてゐる。こちらはこの時を見越して、自動焦点のコンパクトカメラにしたが、頴娃君は頑強な手動焦点主義者だから、ライカを持つてきてゐて、(諸々の意味合ひで)大丈夫か知らと思ふ。ライカは頴娃君の手動焦点主義同様に頑丈であつても、雨は苦手にちがひない。

 からい味噌で喰はせる焼豚を摘んでゐると、B.G.M.が流れてきた。地元のハモニカ同好会の演奏だつた。初舞台ださうだから、色々と不器用なのは愛嬌として、雨音が派手やか過ぎたのは気の毒な話であつた。ハモニカに似合ふのは、雨ではなく川渡りの風なんである。

 十一時四十分頃だつたと思ふから、およそ一時間を赤とんぼで過ごした我われは、小澤酒造が西東京バスと提携して運行する、無料の巡回バスに乗り込んだ。けふの花、鏡を開くのは正午からで、これを見逃すのは、ひととして如何なものかと思はれる。
 澤乃井の敷地に戻ると、藏に正対する場所にひとだかりがあつた。そこが正に鏡開きの場所で、我われは巧みにほぼ正面の位置を確保し、確保しつつ首を廻すと、試飲(総計十五はい分の)を待つ列は長蛇を成してゐて驚いた。
 「こいつはまた、無理に二周目を慾張らなくて、よかつたかも知れないねえ」
 「先手必勝だよ貴君」
 目配せしながら頴娃君は、先見の明を誇つてみせた。異論の入り込む余地があるならば、をしへてもらひたい。
 空の舞台に一斗樽が置かれ、老練の社員(にちがひない)が、ぎしぎしと縁をこぢりだす。木槌を打ち当てた時、賑々しくなる為の工夫だらう。かう云ふところを目にするのは初めてだつたので、どんどん写真をとる。その樽の傍に愛嬌のある女性が立つてゐて、ハンドバッグを持つてゐたから、澤乃井のひとでないのは判つたけれども、たれなんだらう。不思議がつてゐると、澤乃井の法被を纏つた愛らしい女の子がマイクを持つて説明するには、鏡を開く木槌を振るふのがその女性なのださうで、我われは彼女の幸運を羨むと共に、自分たちのやうな親仁が木槌を持つてゐたら、この場はきつと、露骨な溜め息に包まれたにちがひないと考へ、別の意味でも幸運を噛みしめた。
 木槌を振るのはくだんの女性に加へ、社長の知人(どうも取引先とかさう云ふのではなく、純然たる知合ひらしく思はれた)と社長本人で、この社長が実に嬉しさうな顔をしてゐる。米と水を相手にお酒を醸つてゐるのだから、今年も新酒を用意出来た事が喜ばしいのは、すりやあ私が幾ら鈍感でも、気付かない筈はありません。が、ちよいと社長、上機嫌過ぎやしませんかと思つたのも本当で、もしかするとかれは、お客より先にきこしめてゐたのかも知れない。いや、お目出度い。
 「鏡を開く際には」マイクを持つた女の子(喋り方の拙いところがまた、好もしかつたね)が「皆さんでよいしよの掛け聲をお願ひします」

 よいしよう。

 私は大聲を上げた。
 頴娃君も聲を張上げた。
 周りのお客も一斉によいしよの聲を掛けた。

 いい気分である。

 実はこの"いい気分である"と云ふたつたひと言を書きたかつたのです。
 然しどうも、それだけでは収まらないでせう。仕方がないので、色々と書いたのだけれど、そこに到るまでの部分は残らず前置きで、ここは蛇足と云つていい。
 我ながら予想外に長くなつて仕舞つた「藏の開く日」はこれでお終ひ。

 ああ、さうだ。

 蛇足のついでに申上げると、我われが撰んだ"漢の二本(例外的に)" は"一番汲み"と"ひやおろし"であつた。
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by vaxpops | 2011-10-31 16:54 | 宿酔紀行 | Trackback | Comments(2)
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 お祭り…藏の新年会は賑々しくと思ふのは、決して間違ひではない。その点に関して私は、譲歩する積りはないんですが、賑々しさが相応しい時間帯と云ふのがあるだらう、と云ふ指摘の正しさは、認めるのも吝かではありません。我らが澤乃井、小澤酒造の藏開きは午前九時開始にも関はらず、少なからぬ酒呑み(に決つてゐる)が雨を厭はず、沢井駅を下車した事は前回、触れた。たれもかれもが、腹の底で一抹の疚しさを感じながら

 (いいぢやないか、年に一ぺんなんだもの)

と云ひ訳を呟いてゐる(にちがひない)様は、独特と云ふ他にないでせう。風情があると云へば、強弁に過ぎるけれど。
 ところで我われは、藏開きが新酒を寿ぐ賑やかなお祭りと云ふ事は理解してゐたんだけれど、それがどのくらゐ花々しいかまでは理解してゐなかつた。酒藏見学はヴェテランだつたが、初参加の新年会では、その勘も多少は鈍つて仕舞ふのは、止む事を得ぬと云ふべきか。

 「さあさ、どうぞ、中へ」

 小澤酒造の人びとに手招きされた気の早いお客連中(我われを含めて)はぞろぞろと藏の中へ足を運び入れた。この藏は勿論現役で、改築と増築を続けながら、元禄の頃からゆつたりと動いてゐる。藏は天井が高くて、仄暗く、またひいやりとしてゐる。以前、勝沼のメルシャン葡萄酒藏に行つた時も同じ感じだつたのを思ひ出した。要は前近代的な感覚が色濃く残つてゐるんですな。ヰスキィでも泡盛でも焼酎でも、ふるい藏は背が高く、うつすらと暗くて、ひいやりしてゐるにちがひなく、かう云ふ建物は土地の祝福が無ければ、造る事は出来ないだらう。古刹名刹と呼ばれる神社仏閣に立ち入ると、何となく気分がせいせいするでせう。あれの時間が磨いた一面を否定はしないけれど、それ以上にその土地が持つ呪術的なちからを我われの奥そこにある土俗的な部分が感じるからで、お酒が神さまへの捧げもの(お神酒)だつた事を思ひ出すと、酒藏と古刹に近しさを見出だすのも、無理な話ではない。

 などと云ふ高尚なは勿論、後になつて考へついたので、その場の私…及び頴娃君、更に気の早いお客連中…はただ上ずるのみであつた。いや実際、あの場ほど"浮き足立つ"と云ふ言葉の似合ふ光景は、中々見当らないと思ふぜ。みんな藏開き記念の聞き猪口を片手に、早く呑みたいんだけど、走り出すのはお行儀が惡いのは解つてゐて、でも我慢は六づかしいものだから、微かに小走りになつてゐるんだな。勿論、我われがその例外であらう道理もなく、双方暗黙の了解のもと、自在に動く事となつた。こんな時、相手の動きなんぞかまつてゐられるものか。

 いや失礼。うつかり昂奮して仕舞ひました。落ち着いて参りませう。

 "しぼりたて"、と云ふ銘柄が詰り小澤酒造の新酒。簡潔で解り易い名付けですな。文學的とは呼びかねるけれども、ここでさう云ふ論評をするのは野暮の骨頂だらう。くちに含むと実に軽やか。吟醸酒の丹念に研がれたかろさからすると、寧ろ弱いと云へなくもない。但しそれは脆弱を意味するのではなく、丁寧に育てられた若ものがいよよ、熟成道へと足を踏入れた未完成の形容として用ゐたい。要するに、うまい。いや旨いまづいは好みもあるでせうが、その意味では私のくちに適つたと云ふ方が正しくもあるのでせうが、讃辞を捧げる点から矢張りここは、うまいを使ひたい。
 "しぼりたて"の隣には"ひやおろし"が並んでゐる。秋の味覚のひとつではある…と控へめな、そのくせ自信ありげな惹句の旨さは承知してゐた積りだつたが、ひと夏を過ごしたお酒の、若さに経験の薄衣を被せたくち当りは矢張り快い。藏で呑む分、斬れ味が増してゐるやうにも思はれたのは、かん違ひにちがひないとして、旨いと思へる勘ちがひなのだから、寧ろ歓迎すべきでせう。

 奥に進むと新しい卓子にまた四合壜が並んでゐるのが目に入つたから、ほう豪勢な、と私は歓んだ。お代りを呑まして呉れるらしいぞ。藏の中をぶらぶらしながら呑めるなんて、嬉しい話ぢやないか。さう思つたのが間違ひで、聞き猪口に注がれたのは"純米銀印"だつたから、私は心中ひそかに喝采を上げ、小澤酒造の太い腹を尊敬した。

 然し何か、をかしいぞ、と思ひ始めたのは、更に奥に更に新しい卓子があつて、更に別の銘柄を試飲した辺りからで
「いやはや、豪勢ですね」
と注いで呉れた小澤酒造に訊くと、かれは如何にも愉快さうなな顔つきで
「まだまだありますから、呑んでいつて下さい」
と云つたから仰天した。後で入場券を買つた時、一緒に手渡された紙きれを見直すと、我われに興された銘柄は

 "しぼりたて"
 "ひやおろし"
 "純米 銀印"
 "純米 本地酒"
 "地酒大辛口"
 "彩は"
 "一番汲み(しぼりたて無濾過生原酒)"
 "純米吟醸 蒼天"
 "大吟醸 澤乃井"
 "純米大吟醸 澤乃井"
 "大吟醸 梵"
 "蔵守 1999年純米大吟醸"
 "元禄"
 "ぷらり"(梅酒)
 "武州伝説"(焼酎)

 実に十五種にも及んでゐた。一々すべてに触れるのは煩をきらつて避けるとするが、私が特に感心したのをふたつ挙げませう。先っは"彩は"ですね。ふるい方法で醸られたお酒で、木桶に寝かして熟成させる。くせのある酸味と木の香りの組合せは、万人向けではないし、たつぷり呑みたいあじでもないが、たとへば干物に冷奴、或はたたみ鰯なんぞを肴に、大石内藏助を気取るにはもつてこいだと思ふ。尤も"彩は"(いろはと読ませる)と云ふ名付けには感心しない。彩の字の花やかさがここでは邪魔なんです。名付けは六づかしいものだ。
 もうひとつには"一番汲み"を挙げないと矢張り、すぢがとほらないでせう。"しぼりたて"を濾過するまへの状態にこの銘柄が冠せられる。詰り最も厳密な意味で、澤乃井の一ばん新しいお酒…即ち搾りたてなんですな。"しぼりたて"に較べると微かに濁つてゐて、やや濃い…足並みが揃つてゐないと云ふか、些か大袈裟に云へば、未だお行儀が身に付いてゐないやうな感じ。それが将来有望な新人撰手を連想さして、詰るところはうまい。この辺りで頴娃君と私は合流を果たし、ふたりともご機嫌なのは当然として、いやこれは参りましたな、非常に厳しいですなと囁きあつた。これにはちやんとした理由があるんです。

 我われに欠かせないのは夜の首席を飾るお酒で、四合壜を必ず一本用意する。原則は地のお酒。練りに練つて撰ぶそれを我われは
 『漢の一本』
 と称してゐる。いい呼び方でせう。頴娃君の名付けは天才的であると思ふ。
 ところで参つた厳しいと云ひあつたのは、振舞はれた十三種…梅酒と焼酎は除く…の澤乃井がそれぞれ素敵に美味しかつた所為で、その中から"漢の一本"を撰ぶのは困難きはまりない話であつた。
 「むう」いつたん外に出た我われは、藏に隣接する澤乃井園でもつ煮を肴にさわびー(澤乃井印の麦酒)を呑みながら「こりやあもう一周して、候補を絞り込むしかないかも知れないねえ」
 「実に悩ましい限りだよ。ところでこのもつ煮込み、中々いけるぢやないか」
 「さわびーに適ふね」
 「むーう」
 暫しの沈黙を破つて「どうかね貴君」と云つたのは頴娃君であつた。
 「折角藏開きに来たのに、"一番汲み"を買はないのは、ひととして如何なものかと思はれる」
 「すりやあ、さうだ」
 「然し我らが"漢の一本"を託すには残念ながらちから不足なのは否めない」
 「まこと、ご尤も」
 「そこでだ貴君」頴娃君は重々しく「今回に限つては、止む事を得ず、"漢の二本"と云ふ事にするのは如何か」
 天才的な発想、とはかう云ふ時に用ゐるのだらう。我われはさわびーで乾盃し、立ち上がつた。時刻は午前十時。駄目にも程がある。
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by vaxpops | 2011-10-30 16:28 | 宿酔紀行 | Trackback | Comments(0)
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 立川から青梅を経て、奥多摩まで走る旧國鐵の路線を青梅線奥多摩線と呼びます。鄙び具合が中々宜しく、軍畑(イクサバタ)や白丸(シロマル)なんて味のある駅名が点在する。鄙びてゐる割に利用者の数は莫迦に出来たものではなく、これは少なからぬひとが、奥多摩へハイキングに出掛ける所為でせう。かう云ふ人びとは立川から中央線を使つて行く高尾山目当てのひとより、本格の気配が濃厚ですね。尤も我われは奥多摩駅を目指したわけではない。その中途にある沢井駅、ここが狙ひ目。駅から三分くらゐ歩くと藏があつて、正確を期せば、その藏が狙ひ目なんである。

 小澤酒造と云つて、ぴんとこないひとも澤乃井と聞けば、ああと膝を打たれる方が多いんではないでせうか。私の知る限り、東京都に残る唯一の酒造会社の川のたもとの藏。創業が元禄十五年と云ふから、可成りふるい。播州赤穂の浪人が吉良上野を討つた年と云へば、ふるさの印象が判り易いか知ら。因みに云ふ。小澤酒造が澤蟹を印にしたのは、それが清流にしか棲息出来ないからださうで、いいですね、かう云ふのは。日本酒醸りに水がきはめて大切な事を、象徴的にあらはしてゐる。

 『そこに行かうぢやないか、貴君』

 と云ひ出したのは私で、勿論、考へなしではない。小澤酒造もちやんとWebを活用してゐて、そこに花々しく踊る"藏開き"の文字を見付けて仕舞つたんです。"藏開き"と云ふのはさうだね、酒藏の新年会と云へばいいでせうか。気付いたのはぎりぎりのタイミングではあつたけれど、間に合はないわけではなく、さうである以上、藏の新年会に馳せ参じないのは
 「ひととして如何なものかと思はれるですよ」

 「げにも、げにも」
 と我が酔ひどれ紀行には欠かせぬ相方の頴娃君が相槌を打つた。打合せの席なのだから当然、我われは呑んでゐる。打合せとは云へ、我われは澤乃井見学に関すればヴェテランである。私は三年連続通算四回目だし、頴娃君だつて通算五回目にはなる。細々しい事に不安はなかつたが、ひとつだけ、意見の調整が必要な点があつたのは、珍しいと云はねばならない。それは合流する時間帯で、私は立川八時五十五分発、沢井九時五十分着がいいだらうと思つてゐたのですが、温厚な頴娃君がここで
 「貴君、すりやあ、あまい」と色をなし「小生もサイトを確めたが、個数限定の聞き猪口が配られるさうぢやないか。断然我われは、開場即ち午前九時まへには、沢井駅に降り立たねばならん」
 ゆゑに、合流時間を一時間、繰り上げるべし。
 「然しさうなると、貴君は朝五時には起きなくちやなるまい」
 気になつた私に、頴娃君は莞爾と笑ひ
 「なーに、早寝すれば 何の憂ひやあらうか」
 冷酒(澤乃井に非ず)で乾盃。

 十月二十二日土曜日の七時五十一分立川発青梅行八号車で、我われは無事に合流を果たした。

 雨が降つてゐる。
 残念ながらさう云ふ空具合だつたわけですが、青梅発奥多摩行各駅停車は案外と混雑してゐた。見たところ混雑の大半は、奥多摩ハイキング組に思はれた。足元が惡からうと気になつたが、何やらさう云ふ時の為に用ゐるらしいカヴァを皆着けてゐたから、心配の必要はないのかも知れない。

 (こりやあ、あはてて朝から動かなくとも、よかつたか知ら)

 密かにさう考へた事を私は、ここで白状しておかねばなりますまい。更に藏開きを悠然と愉しめるなら、惡天候にこの際、感謝した方がいいんぢやないかとも思ひつつ、我われを乗せた電車は予定通りに沢井駅に到着した。降車した情景を目にして私は、つい数分まへの自分が如何にあまかつたかを、思ひ知らされた。
 混んでゐる。
 小さな駅の狭いプラットホームがびつしりとひとで埋つてゐる。暫しぽかんとした私は、もしかすると沢井には未だ知らぬ痛快な場所があるのだらうかと考へ、然し切々に飛び込む会話の端々から、かれらもまた、藏開きが目当てなのだと理解し、今度は暫し茫然となつた。時刻はまだ午前九時まへだと云ふのに。向ふ先は酒藏であるのに。揃ひも揃つて、何と駄目な連中なんだらう。横を見ると頴娃君はにやりと笑つてゐる。
 (小生の讀みは正しかつたらう、貴君)
 駅を出ると急な坂みちがあつて、そこを下つたところにバスの停車場がある。その一部にテントが建てられてゐて、詰り入場券を購入するわけです。金一千圓也。券を賣り、案内図を配るのは勿論、小澤酒造の社員(何だかしつくりこないね)毎年の行事の筈なのに、身に付いてゐない感じが好もしい。傘をテントを叩く雨音を聞きながら、私はすつかり愉快な気分になつてゐた。

 お祭りは矢つ張り、賑々しくなくつちやあ。
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by vaxpops | 2011-10-25 17:02 | 宿酔紀行 | Trackback | Comments(0)

G11から-019

 何事につけ、愉しみのかなめはその直前にある…のではないかと私は思つてゐます。

 遠足。
 遊園地。
 海水浴。
 帰省。

 ね。前日の夜が愉しくつて、仕方なかつたでせう。

 何をして遊ばうか。

 頭の中で計画を立てるのが嬉しく、幾つも考へては訂正し、大体うはずつてゐるんだから、綺麗にそれが纏まらう道理もなく、さうかうしながら、何時の間に眠り込んで仕舞ふ。

 実に子供つぽい。
 そしてこれ計りは、断乎としてその子供つぽさが正しい。

 おにぎりに焼そば、かき氷にソフトクリームが、旨いお酒や珍しい干物やちよいと粋なお漬物になるだけの話ぢやないか。

 何事につけ、その愉しみは、直前の中に潜んでゐるのです。
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by vaxpops | 2011-10-21 22:07 | 番外携帯 | Trackback | Comments(0)

G11から-018

 東都に棲んで十年余り。外食で饂飩を食べたのは、片手の指くらゐの回数だと思ひます。カレー饂飩は食べますが、あれはカレー饂飩と云ふ独立した食べ物だから、数には入れない。
 饂飩じたいは大好物なんですよ、ええ。然し饂飩は関西風がくちに適ふ―そんな気分が自分の中につよくあつて、どうにも外で食べる気になれない。気の所為なのは解つてゐるんですが、その気分が食卓には大事ぢやないでせうか。

 特に好きなのはきつね饂飩ですね、私は。分厚くつてほのあまいお揚げさんと分葱の組合せは、西を代表するうまさだとつよく主張しても、非難される事はないでせう。
 東都のお揚げさんは薄くて堅くてからい。西のそれを食べた感触が、汲み立ての豆腐に近いとすると、東のそれは水抜きをした豆腐に近い。これぢやあ東京の狐は喜ばないだらうなんて、心配して仕舞ふ。余計なお世話と笑はれさうですが、そんな風にくちが馴染んでゐるんだから、仕方がない。

 ところがその薄くて堅くてからい東都のお揚げさんが、素敵に旨い瞬間があつて、世の中は巧く出来てゐるね。
 私が云ふのはきつねそばの事で、これは安つぽい立ち喰ひ蕎麦屋で啜るのがいい。季節は冬。七味唐辛子を多めに振つて、少し計り噎せながら喰ふ。出来れば食慾を感じない宿酔ひの昼だと理想的ですね。きつねうどんの豪奢と丸きり対極の位置にあつて、然も旨い。宿酔ひがつらいのは云ふまでもないんだが、この時だけは呑み過ぎも惡くないと思ふから、私もいい加減なものです。
 東都で喰つた饂飩は片手で足りるけれど、東都で喰つたきつねそばは両足を追加してもまだ足りない。これからの季節、さらにその数は多くなるだらう。宿酔ひを歓迎したいわけではないにしても。
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by vaxpops | 2011-10-20 18:48 | 番外携帯 | Trackback | Comments(0)

G11から-017

 たれだつたかまでは記憶にないのですが、多分、藝人が賣れてゐない頃を思ひ出しての話で

 『醤油があふ食べ物の多くは、ぽん酢でもいける』

と云つてゐたのは、何故だかわすれてゐないのです。この場合のぽん酢は味付ぽん酢でせうね。中々便利な調味料であります。さう云へば、初めて味付ぽん酢を使つたのは…ミツカンの味ぽん…小学生の頃でしたが、えらく旨いと感心したものです。それまでは普通(??)のぽん酢に醤油で味を調へてゐたから、原理的には味付ぽん酢と同じだつた筈なのに、味覚は不思議ですね。家でつくるカルピスとカルピスウォーターみたいなものか。

 然し名まへを失念した藝人が懐かしく思ひ出す程、味付ぽん酢は応用力に富んでゐるのか知ら。
 餃子や冷奴には適ふ。
 まあ当然でせうね。醸造元でも推薦してゐたと思ひます。
 案外といけたのが鰺フライ。鰺フライは(タルタル)ソースぢやないかと云ふひともをられるかも知れませんが、私の基本はちよつぴりの醤油なのです。こいつも旨いよ。ことにご飯とあはすなら、ソースよりも断然こつちのがいい。然し味付ぽん酢も惡くない。一ぺんに振りかけると、折角の衣がびしよびしよになつて、悲しい思ひをするので、スプンでぱつぱと散らしながらかぢると、これもありだなと思へます。
 意外だつたのは、烏賊のお刺身ですね。烏賊素麺用の細切りになつたやつがいい。
 深めのお皿に烏賊。味付ぽん酢を(こつちは)振りかけて、すりおろした生姜と分葱。お行儀は宜しくないが、ざつとかき混ぜて喰ふと、醤油より旨い。品の惡い食べ方をしたい時に、醤油では烏賊相手に濃すぎるからでせうか。尤もこの式だと、おかずにするのは六づかしいね。お酒の後半、冷酒をちびちび呑る時くらゐしか、適当な場面を思ひつけないのは、私の想像力が貧困な所為か。

 餃子に冷奴に鰺フライに烏賊のお刺身に使へると云ふ事は、全部は無理としても、ある程度の範囲で、味付ぽん酢を醤油に代へて用ゐるのは、決して賣れない藝人の独りよがりでは無かつた、と云ふ事を示してゐますね。ことに脂つこい食べ物で醤油だとそれが強調される場合や、逆に淡泊で醤油では味がきつ過ぎる場合には、かへつて醤油より嬉しく感じられたりもするでせう。
 但し卵に限つては、味付ぽん酢を私は認め(たく)ない。卵と醤油は不可分の組合せだと固く信じてゐるからですが、もしかすると、予想を外して旨いと思へるかも知れません。実際のところはどうなのか、は試さない事には如何ともし難いのは重々承知してゐても、かう云ふ"小さな勇気"を私は持合せてゐないんです。
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by vaxpops | 2011-10-19 15:58 | 番外携帯 | Trackback | Comments(0)

G11から-016

 我われに馴染みのふかいミートソースのスパゲッティを、伊太利ではボローニャ風―詰りボロニェーゼと呼ぶんださうです。この事を私は、塩野七生の随筆で知つた。一体に大長篇を手掛ける作家は、随筆系統の文章がまづくつて、塩野もその傾向から外れてゐませんね。この種の例外は司馬遼太郎と池波正太郎はで、このふたりには小説と随筆の境界が曖昧と云ふ共通点がある。この辺を丁寧に分析したら、面白い結果になりさうですが、さう云ふ真面目な批評は立派な研究者に任せませう。

 差当りの問題はスパゲッティの方。伊丹十三がエセーの中で厳しい訓戒を垂れてゐるところを信ずれば、スパゲッティを食する際は、ごくかすかに啜る音すら許されないのださうで、饂飩や蕎麦、ラーメンを賑々しく啜り込む習慣が骨の髄まで染み付いた我われには、おそるべき困難だと云つてもいいでせう。尤もあのひとは確か『タンポポ』の冒頭で自分の厳密さを逆手に取つた演出をしてゐるから、さうあるべきだ、と云ふところと、それへの反撥の双方を持つてゐたんではないか。まあかれは可成り複雑なひとだつたみたいだから、発言と映像と文章を比較すると、面白い事になりさうだとも思はれます。

 ああいけない。また話が逸れて仕舞ひました。
 本来ならさう云ふ"厳密な態度"で臨むべきスパゲッティ。我われ和流の麺喰ひには、派手に啜り込む誘惑を我慢するのがひと苦労のスパゲッティに例外があると、そんな話をしたかつたんです。

 ひとつは最初に挙げたボロニェーゼことミートソース。もうひとつはナポリタン―伊太利語で云ふとナポレターノがそれです。ボロニェーゼがボローニャ風であれば、ナポレターノはナポリ風と訳せばよく、然しどう考へても、茹で過ぎたスパゲッティをバタで炒め、玉葱、ピーマン、人参にウィンナ、塩胡椒と大量のケチャップで仕上げたあのひと皿を、ナポリ人が食べる姿が想像出来ない。前述の伊丹はかう云ふ…必要以上に茹で、更にバタで炒める…のを炒め饂飩ぢやないかと罵つてゐて、痛快且つ明快な罵倒の見本ですな、こいつは(塩野七生曰く"スパゲッティを炒めるのは、茹でて時間が経ちすぎた場合"ださうな)然し感心しつつも伊丹には失礼ながら、あれは最初から"さう云ふ"もの…云はばスパゲッティの日本語訳なのだと思へばいい。翻訳が下手糞か巧妙かは、別の議題とすれば、伊丹式の厳密主義とも、多少の妥協点は見出だせさうな気がする。

 と一所懸命に書いた背景には、スパゲッティは好きだけれど、きつと伊太利人みたいにスマートな食べ方は出来ない自分、と云ふのが解つてゐるからです。伊丹式厳密主義者であれば冷やかに、練習をし玉へよ君、と云ふにちがひなく、またそこにはいちぶの隙も見当らないとも思ひもするのだが、そんな練習をするくらゐなら、樂々とした気分でひと皿のスパゲッティを平らげたいぢやありませんか。さう云ふ時に撰べるのは、ボロニェーゼの日本語訳であるところのミートソースと、ナポレターノの日本語訳であるところのナポリタン―伊丹式厳密主義で云へば、伊太利風炒め饂飩しかないんである。くちの周りをソースやケチャップで汚しながら、盛大に啜り込める逃げ場があれば、幾ら礼儀知らずの私ても、ちやんとした伊太利料理の場では、何とか踏ん張つてみせる。
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by vaxpops | 2011-10-18 22:14 | 番外携帯 | Trackback | Comments(0)

11096-0106 リコーの不思議

 XR-8(2回)
 XR-8 Super
 XR-10M
 R1s
 GRデジタル2
 XR-7M2
 CX5

 ・・・どうも私は、リコーのカメラが大好きらしいのです。
 まあ全てのカメラを新品で買つたわけではないから、リコーのカメラ部門に絶大な貢献をしてゐるとは云へないけれど、私が現役のリコー・ユーザである事実は動かない。

 妙なメーカなんです、リコーと云ふのは。
 いや私が云ふのは、"カメラ・メーカとしての"リコーの話で、全体的に妙な会社が、あれだけの大企業であらう筈がない。
 事実がどうなのかは知りませんが、リコーのカメラには、大企業のゆとりと云つた何事かが感ぜられる。
 リコーの現行機は、GRデジタル4、GXR、PX、G700にCX5で、型番から漠然と想像出来る通り、それぞれが独立してゐる。他のメーカだと、"ラインナップの拡充"と称して、たとへばGRデジタル・ズームなんて出すにちがひないのに。

 ひとつの世代の、ひとつの特徴に、ひとつのカメラ…と云ふのが、リコーのカメラに対する態度であるらしい。

 我われはこれと同じ態度をとつてゐたカメラ・メーカをひとつだけ、知つてゐる。
 ライカですね。
 今のライカは、カメラ・メーカと云ふより、限定品製造業だから(半ば皮肉、半ば本気)事実上、リコーのカメラが世界でただひとつ、世代の交代を明確にしてゐると云つてもいい―のではないか知ら、と私は矢張り、半ば本気で思ふ。
 メーカとしてどうなのかは別として、使ふ側としたら、これは有難いですよ。同じメーカの中で、カメラのヒエラルキが無いわけですから、詰り、買ふ時に迷はなくていいでせう。色々の特徴から、自分の用途に適ふのを撰べばよいのだから、そこに"予算の都合で撰ばざるを得なかつた下位機種"の入り込む余地が無い。

 さらりと書いたけれど、これは凄い事なんだよ。
 世代世代のカメラに自信がある…とこちらは思はされて仕舞ふ。

 リコーの場合、カメラはおほむね、主流の商品ではないから、止む事を得ない事情があるとしても…おそらく見当違ひではないでせう…それが好もしい方向へ美事に転じてゐる。
 事情と方向性のどちらが先なのかは、よくわからない。その辺がリコーの不思議で、然もなほ、それらを納得のゆく値段で(私の場合、割安を感じる、と云ふ意味)出してくる辺りが、私をリコー・ユーザであり続けさせる理由なのではないかと思ふのですが、漠然とさう感じてゐるだけなので、事実に近しいのかどうかまでは保證の限りではありません。
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by vaxpops | 2011-10-17 22:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

G11から-015

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 けふの結論。

 どうやら私は、リコーのカメラが大好きであるらしいのです。
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by vaxpops | 2011-10-16 21:38 | 番外携帯 | Trackback | Comments(0)

G11から-014

 究極的なポテトサラド…と云ふ事を時々、考へます。

 馬鈴薯、玉葱、人参、胡瓜にハム、塩胡椒とマヨネィーズ。
 もの凄くありふれてゐて、何だか"究極的"なんて似つかはしくないと思ふでせう。私もさう思ひます。

 然し。
 ポテトサラドがあると幸せを感じませんか。

 朝食、パンのお供によし。
 昼食、定食の小鉢に嬉し。
 晩酌、麦酒の肴に有難し。

 実際ポテトサラドくらゐ、時間帯を撰ばないお惣菜は、ちよつと見当らないんではないか。いや半ば本気で云ふんですよ、私は。

 この応用力の高さが災ひしてゐるんだな、きつと。

 作り方が複雑なわけでなく、材料の入手が困難なわけでもなく、そのありふれ具合がポテトサラドの扱ひをかるくさしてゐるにちがひない。

 かう云ふ"食卓にあつて当り前"を"究極的"にするのは、存外に六づかしい気がしますね。上等の材料を使へば究極的になるのかと云へば、多分さうではないでせう。問題は材料それぞれや調味料ではなく、その組合せにあるのではないか知ら。

 もうひとつの難問は、矢張りありふれたお惣菜ゆゑのそれで、あなたにも私にも"基準となるポテトサラドの味"がある筈なんです。子供のころから食べ馴れた、家のポテトサラドの味。これに対抗するのは可成り、厳しいんではないでせうか。

 それでも私は思ふ。一ぺんは

『料理長自慢の特製ポテトサラド』

を肴に、新鮮な麦酒を呑んでみたいものだ。
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by vaxpops | 2011-10-15 20:51 | 番外携帯 | Trackback | Comments(0)