いんちきで、さらにマクガフィンだつた。

by 丸太花道@乳軟部

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13064-0212 櫻恋しや

 春未だ来 花ぞ恋しき

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 今年は久しぶりに千鳥が淵を歩かうかと思ふ。
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by vaxpops | 2013-02-28 21:00 | ニューナンブ | Trackback | Comments(0)

13063-0211 天玉蕎麦

 立ち喰ひ系の蕎麦で一ばん豪華なのはこれぢやないか知ら。

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 天玉の玉は温泉玉子の方が嬉しいと思ふけれど。
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by vaxpops | 2013-02-27 23:30 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)

13062-0210 電線

 空に電線。

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 見上げた空が空のままだと不安を感じて仕舞ふのは、どこかが狂つてゐる所為か。
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by vaxpops | 2013-02-26 21:30 | ニューナンブ | Trackback | Comments(0)

13061-0209 麺の格

 我われの日常で比較的馴染みの深い麺類と云へば、饂飩に蕎麦、ラーメン辺りではないかと思ふ。焼そばやスパゲッティを加へてもいいか。中にはフォーが大好きで三日に一度はあれを啜らないと気がすまないひとだつて、ゐるだらうけれど、どちらかと云へば少数派に属するでせう。
 麺類は私も大の好物で即席麺も含めると月の食事の中で可成りの頻度を占める。然しその高い頻度の殆どは最初の三種で、それだけこの三種が身の周りにある。焼そばやスパゲッティだと少し距離を感じるのはこちらの事情であるかも知れない。尤も私が愛してやまない冷し中華や素麺、或は沖縄そばは時期的地理的な距離が更に遠くなる。焼そばにもスパゲッティには自信を持つてもらつてかまはないだらう。

 さてその饂飩蕎麦ラーメンにどれだけのお金を出せるか、と云ふのは中々に興味をそそられるところで、何故興味をそそられるかは後廻しとして、私ならば

・饂飩 650円くらゐ
・蕎麦 800円前後
・ラーメン 500円程度

がひとつの基準値になる。勿論それぞれの出来次第で上の値段が安く思へる時もあらうし、高く感じる場合だつてあるだらう。目安とはさう云ふものだ。それから当然、アルコールやその他のつまみは計算に入れてゐないし、たとへば饂飩にかやく飯などのセットも考慮してゐない。なので実際に支払ふ金額には幾ばくかの加算や変動があるだらう。くどい云ひ廻しになつた。要するに私が述べたいのは

『一ぱいの麺への対価の印象』

が非常に異なつてゐる事で、上に挙げた額が妥当かは兎も角、蕎麦・饂飩・ラーメンと安くなる順位には賛同してもらへると思ふ。然しぱつと見で云へば如何にも花やかなのはラーメンで、饂飩や蕎麦はどうも分が惡い。それに近ごろはラーメン屋の親爺をテレ・ヴィジョンやらコンヴィニエンス・ストアの棚やらで無闇に見掛ける機会がある。コダハリだの逸品だの撰び抜かれた何やらとも耳にするし、そんならもつと高い値段を出せさうではないか。

 何故さう思はない…思へないのだらう。

 ごく粗つぽい云ひ方をすると、それが現在のラーメンの"格"なんである。ラーメンを偏愛する向きには気の毒だが諦めてもらふしかない。では饂飩や蕎麦にそれはあるのか、あるとしてそれはラーメンより上なのかと疑問が湧いてきたひとには、饂飩や蕎麦には"格"があるし、ラーメンより上なのだと応じたい。

 饂飩にしても蕎麦にしても、それがうまい地域にはうまい事情がある。それは農業の都合や食糧の事情で、たとへ止む事を得ない背景があつたとしても棲む以上はそこで穫れるもので何とかしなくてはならず、食べる事は必要であり愉しみでもあるから保存と美味を共有出来るやうな工夫が生れるのは当然である。ひとくちに纏めると饂飩にも蕎麦にも今では稀薄なのは認めるとして、さう云ふ背景―歴史がある。更に云へばそれは饂飩や蕎麦のオーソドックスを作り上げてゐて、大きく踏み外さなければそこそこうまい一ぱいを啜り込めるわけだ。
 翻つてラーメンには今のところ、そこまで頑丈な背景―歴史でありオーソドックスの持合せが無い。だから惡いと云ふのではなく、単に無い。雨後の筍を捜すのが六づかしくなつた代り、新規のラーメン屋(とライトノベル)がその坐に就けたのはその浅さゆゑと云つてよい。オーソドックスに欠け、比較的にしても素人がくびを突つ込み易い食べ物を尊敬出来る程、我われの胃袋が寛容になれないのは強調するまでもないでせう。詰りそれがラーメンの"格"なのであつて、それに相応しい値段は今のところ五百円程度だと私には思はれる。この手の"格"は意図的に作れるものではないから、ラーメン好きの諸氏には気の毒に思はなくもない。然しオーソドックスなラーメンが苦しみながら生れ、もがきながら育つてゆけば、その過程がラーメンにより大きな"格"を与へる結果に繋がるだらう。
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by vaxpops | 2013-02-25 19:30 | 番外携帯 | Trackback | Comments(0)

13060-0208 表札

 祗園のお茶屋はごく地味な見掛けで、ぱつと見にはただ古くて贅沢な建物にしか思へない。

 近寄つてそこに表札のやうに"~屋"とかそんなのがあるのに気が付いて、ははあと唸るわけだ。今はどうかは知らないけれど、その辺りの都人はしぶといから、あすこの情景は変つてゐないのだらう。

 勿論画像は祗園でのそれではなく、都内の某所で撮つたもの。
 けばけばしい灯や惡派手な暖簾をひらめかせてゐない点だけはあすこに似てゐる。

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 この手のお店に一ぺん入つてみたいんだが、何しろ財布にどの程度の負担がかかるのか、さつぱり見当がつかないものだから、未だにその勇気を得る機会を得てゐない。
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by vaxpops | 2013-02-24 21:00 | ニューナンブ | Trackback | Comments(2)

13059-0207 テンプレート

 テンプレートと云ふ単語があつて、どうも随分と莫迦にされた語感らしい。この単語の辞書的な意味は辞書をひけば解るからいいとして、さうではない部分…特にテンプレと気味の惡い略し方をした時には…に安易だとか考へ無しだとかそんな響きが潜んでゐさうで、私はその事を云つてゐる。確かにそんな一面はあるのだらう。ただどうもその一面だけを強調するのは些か乱暴な態度だとも思はれる。

 何が気に喰はないかと云へばテンプレートなどとカタカナ言葉を使ふから話が面倒なので、カタカナ言葉はそれでも我われに馴染みがあさいものだから、本来の意味ではなく用ゐられる場の印象に左右される。それは使ふ我われにも使はれる言葉にも迷惑な事情ではないか。

 ぢやあテンプレートの代りに何を使へばいいんだとなるのは容易に想像が出来て、そんな折は見本とか手本とかを用ゐればよい。テンプレートではなく見本なら、それを用ゐる場で用ゐ易いかたちに修整するのは当然で、当然である以上は見本をそのまま使ふ方が惡い事になる。テンプレート自体の良し惡しは勿論あるのだが、それは別に考へなくてはならない。

 ここまでが半ば前書きで、以下が本論となる。尤も例の如く大した話が進むわけではないから、時間を無駄にしたくない向きにはこの辺りで別の用件を済ますのが賢明だと思ふ。

 私がテンプレート―いや見本を妙に擁護するのささやかで単純な理由は
「お手本は必要だ」
と云ふ一点に尽きる。ややこしい話ではない。習字を想像すれば解るのではないかと思ふが、出来のよいお手本があれば先づそれを使ふのが望ましい。当り前の事でよいお手本は伝統である。伝統は時間が磨いた規範と呼びかへてもよく、であればそれを真似るのは無駄ではないどころか、寧ろ必要な行為であらう。さう云つたお手本…見本を消化してやつと成り立つ(かも知れない)のが個々人の持ち味なので、その点から云ふと今では胡散臭さと厭味しか感じられない個性が無から或は個人の時間から産れるなぞ、身勝手な思ひ込みに過ぎない。

 こんな風に云ふと押し付けだの詰め込みだの眉をひそめる生真面目なひとが現れさうだが、社会の規範を教へる最初―卑近で然し大事な例を挙げれば食事の際の頂きますとご馳走さま―は、それがさう云ふものだと押し付けて詰め込む類のもので、云はばその見本を真似させるところから始まるのを思ひ出すのがよい。話をほんの短い間広げると、教育の特に一ばん初めの時期ははさう云ふ性質を濃厚に持つてゐるもので、その材料に相応しいのは時間に磨かれた伝統以外に有り得ない。だとするならば(優れた)テンプレート―見本或はお手本を軽んじるのは、そのオーソドックスが出来上つた背景、詰り時間への敬意とそれを応用さすちからに欠けてゐるのではならかうか。
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by vaxpops | 2013-02-23 23:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

13058-0206 仮名遣ひの雑感

 このウェブログを定期的に読んでくれてゐる諸嬢諸氏(おそらく…いや間違ひなく数少ない)にはおそらく馴れて仕舞つただらうと思ふのだが、私が常用してゐるのは些かいい加減な歴史的仮名遣ひで、別に複雑な理由で使つてゐるわけではない。尊敬するふたりの小説家の本が歴史的仮名遣ひだつたので、それを真似しただけの話だ。私の文章は様々な作家の猿真似で出来てゐて、たれに由来してゐるかまでは云はないとして、さつとばれたとするとまだまだ精進が足りない事になる。

 歴史的仮名遣ひは読み辛いと云ふ聲は聞かなくもない。聞かなくもないけれど、それが実際なのかは甚だ疑はしい。たとへば今書いた"疑はしい"を"utagahasii"とは(頭の中で)撥音しないでせう。"utagawasii"と(頭の中で)撥音する筈で、さう撥音出来るなら"疑はしい"と書かれてゐればそれを"疑念を抱いてるんだな"とも理解出来る筈だ。出来ないのであれば仮名遣ひに関はらず、そもそも日本語の文章を読めないのではないか。
 然し歴史的仮名遣ひは事実上、滅んでゐるではないかと更に反論がくるかも知れない。きたとしても(少なくとも)ここにひとり、歴史的仮名遣ひを常用したウェブログがあつて、数少ないながらも讀者がゐる(であらう)以上その反論は残念ながら成り立たせるのが六づかしい。何より現代仮名遣ひを身に付けるより、歴史的仮名遣ひを身に付ける方が余程有用なので、何故かと云へばそれは近距離ならば明治大正の文章に直結するし、そこに辿り着けば江戸時代の川柳や狂歌までは半歩の距離もない。戯作文にゆくには文語の壁があるとしても、たとへば荷風辺りが間に入れば、苦痛を感じる事はないだらう。荷風の厭味が気に喰はないのなら朔太郎でもかまはない。

 ひどく勿体ぶつた云ひ方になつたけれど、歴史的仮名遣ひの讀み書きがきちんと出来れば、日本の文學史…文語と和歌(百人一首くらゐから)を押さへれば更に望ましいが…殆ど直接触れる事が出来る。源氏物語から考へて千年余りのスケールである。百年に満たない現代仮名遣ひ(この短さは意外と忘れられてゐるのではないか知ら)に較べてどちらが有用か、考へるまでもない。
 そんな古めかしいものなど何の役に立つものかと冷笑するひとがゐるだらうか。まさかとは思ふけれどさう云ふひとがゐるとすれば、そのひとは歴史―時間に敬意を払へないにちがひない。本人がそれでいいのならこちらから文句をつける筋はないとして、憐れみの視線くらゐは送つてもいいのではないかとも思ふ。
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by vaxpops | 2013-02-22 21:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

13057-0205 二台の問題

 銀塩でもデジタルでもカメラの理想の数は一台である。ひとりが一回に複数のカメラを同時に使ふのは、特殊な条件を除けば不可能で、特殊な条件なら特殊なのだから無視して差し支へない。
 然しそれでも一台で我慢するのは中々に困難であつて、諸々の理窟を捏ね出して我われは次の一台を手に入れたがる。これはもう原罪的な慾望なのでならば寧ろ、次善に理想的な組合せを考へる方が理に叶つた態度ではないか。

 二台。

 写真を撮るその場で併用出来る台数はこれが限界だらう。三台になると間違ひなくカメラの台数に振り廻されるだけで、肝腎の撮影が疎かになりかねない。では如何なる二台を組合せるのが望ましいか。
 ここで我われは巷間云はれるサブカメラと云ふ考へを捨てねばならぬ。サブカメラは主になるカメラのバックアップ機材なのだから、メインのカメラと同じ機種以外に撰択肢は有り得ない。いや同系列のカメラだつて候補にはなるけれど、さう云つたカメラの"主従関係"は実質的に一台の機能を分割させるだけの話で、我われが考へる二台とはその意味合ひが異なつてゐる。

 銀塩二台。
 銀塩とデジタル各一台。
 デジタル二台。

 併用するとして考へるのは先づこのどれにするかと云ふ点で、銀塩二台は落としてもよからう。古めかしさを気取るなら、OM-3にライカM4辺りは実に渋い。前者に近接と望遠、後者に標準から広角と分けて用ゐる事が出来るし、サイズとしても無理がなく、前者の機能がすべて生きてゐれば、露光計としても使へる。但し、クラシック或はトラッド指向のひとでなければ些か敷居が高い気がする。
 ではデジタル二台ならどうかと云へば、これはこれで詰らない。一眼だらうがミラーレスだらうがコンパクトだらうが、デジタルカメラには不便がない。たとへばミラーレスにアダプタをかまして、旧式のレンズを使ふ方法はあらうが、それにはどうもあざとい演出とスノビズムが感ぜられて仕舞ふ。有り体に云へば、一台で完結するデジタルカメラにもう一台を加へる積極的な理由を見付けるのは困難ではないかと思はれる。

 要するに銀塩一台、デジタル一台の組合せが好もしいのではないかと私は思つてゐて、その為のここまでは前書きなのである。

 わざわざ二台を用意して持ち出すのだから、銀塩とデジタルにはちがふ任務を果してもらふ。
 銀塩には所謂スナップ用途を担当させる。この目的から考へると、カメラは距離計式が望ましい事になる。一眼式との細かな差異までは一々触れないが、素早く地味に撮る点から見れば当然の結論になる。かう云へば必ず、デジタルの方が速く撮れるのではないかと反論されるのだが、それは一面でしか正しくない。
 『電気的な自動焦点合せは、ある一点に厳密な焦点合はをする場合だと、素人が使ふ分には必要十分に速い』
 これが正しい理解の仕方であつて、スナップにはその様な厳密さは要求されない。と云ふか寧ろ邪魔なので、露光量も焦点位置もごく大雑把でよい。構へた時にはリリース出来るよう事前に設定しておけばよく、かう云ふ使ひ方を前提にするならばデジタルは遅いと見なせる。

 それで距離計式カメラの何がいいかと云へば実のところ、シャッター速度がそこそこ精確で光線洩れをしなければ何でもいい。ファインダだの二重像の鮮明さだのは外付けのそれを用ゐれば解決する。乱暴に思はれるかも知れないが、そもそもスナップ自体、撮影としては乱暴な手法なのを思ひ出せばこの程度は別に問題は無いと解る。
 レンズは本来なら50ミリが王道なのだけれど、50ミリだとどうしてもきちんと焦点を合せたくなつてきて、さうなるとボディに要求する程度が高くなつてくるから、ここは35ミリか28ミリにしたい。ちよつと割高ではあるが、その辺は数寄者を探して借りるのも方法だらう。多少の工夫くらゐは惜しんでもらひたくないし、それを求めても罰は当らないだらう。

 私ならボディはコシナ・フォクトレンダーのベッサ(L R R2 またはT)かライツミノルタのCLにする。これなら使ふのに然程の困難は無いし、持ち歩くのに苦痛を感じる重さでもなからう。ライツ・ライカやニコンのS系統やオリジナルのコンタックスを考へないのはごく単純に、手に入れるには些か高額な割にその後のメインテナンスが面倒さうだからで、それ以外の距離計式を省いたのは―キヤノンPなんか、程度がいいのがあれば素敵なんだがねえ―持ち歩きにはちと重さうにと思はれたからである。
 レンズは35ミリか28ミリを推薦したからその辺になるのだが、撰びだすときりがない。お好きなのにしなさいと云ひたいところだが、さう云ふわけにもいきさうにないから使ひ勝手がよささうな点から、コシナ・フォクトレンダー銘の35ミリカラースコパーか28ミリアベノンがよいのではないかと申し上げておく。モノクロームに徹するなら35ミリズマロンや同ヱルマーを奢るのも惡い撰択ではなく、当りであればの条件付きでよければ(中々六づかしい話なのだが)35ミリジュピターは好もしい廉価ではなからうかと思ふ。尤も35ミリジュピターは後玉が著しく突出してゐるから、ベッサやCLでは使へないのだけれど。
 勿論さう云ふのが面倒な向きにはわざわざ距離計式のカメラを買ふ必要は無くて、たとへばオリンパスのペンS(または同3,5)やローライ35はレンズが固定式でその描写が優れてゐるのは周知だし、距離は目測だからその辺も神経質にならなくていい。ローライは割高な気もするが、ペンなら丹念に捜し撰べばお買得な一台を見付けられるだらう。

 銀塩にはスナップを任せるとなるとデジタルにはそれ以外を任す事になるわけで、云つて仕舞へば大抵(所謂トイデジタルを除けば)その目的には合致する。然しそれで話を終らすのは本意ではないし二台持ちが…本稿で云へばベッサかCL…前提なのだから、その辺りから考へを進めてゆかう。
 併用が前提である以上、一眼レフは除外される。あの大きさ重さは単体または一眼レフを主体にするから許される。またある種の万能性を要求するの点で極端に廉価な機種も除外されねばならない。さう云ふ条件を満たして,ない場合が多いだらうと思はれる。
 そこで私はデジタルカメラに求める万能性とは何と云ふ事を以下に挙げたいと思ふ。

・起動がまあ速い事。
・電池の保ちに優れてゐる事。
・焦点域は広角側につよい事。
・近接撮が可能な事。
・何よりかるくて持ち運びに不自由しない形状である事。

 利便性が優先だから、単焦点レンズは除外してよく、だとすればマイクロフォーサーズ等のレンズ交換型では重さは兎も角、その形に持ち運びの難を感じる。となるとヴァリフォーカル・レンズを採用したコンパクトデジタルカメラが好もしからう。
 余りに廉価な機種は避けたい。廉価にはその理由があつて、たとへば広角域に弱いとか、近接撮影が苦手とか、勿論財布の都合もあらうからその辺は適宜に調整すればいいとしても、値段に計り目を取られると結局は買ひ直す羽目になる。まことに勿体無い。さうさう、上の条件にあとふたつ、追加するなら

・ストロボの発光は自分で決められる事。
・露光補正が可能な事。

で、これはある程度の価格以上を費はないと得られない機能である。近ごろの―と云つても私の近ごろは十年くらゐの幅がある―カメラは優秀だから、その辺りを全自動にして何が問題があるわけではないのだが、光の具合を自分で調へるのが写真なのだと思ひ当る時、上のふたつを使ひ手に委ねる機種の方が好もしいのは改めるまでもない。

 では具体的にベッサ或はCLと組合すのはどの機種なのだと話を進めるのが本来なのは云ふまでもないが、残念ながら挙げる事が出来ない。出来ないと云ふよりその辺の量販店に行けば幾らでも賣つてゐるのだから、その時のお買得なカメラを買ふのが最善だらうと思はざるを得ない。
 本稿を作つてゐる時点で好感を抱けるのはオリンパスXZ-2、冨士フイルムX100の二機種。國内発賣は未定だがペンタックスMX-1を加へてもいいだらう。何百ミリなどと云ふ超望遠は使へないが、それは何百ミリ望遠を付けてゐるカメラが惡い。デジタルカメラでは両手を横に広げたくらゐに出来る空間の中にあるたとへば蕾、たとへば旨さうな肴、たとへば同行の美女の横顔を撮れるかが大事で、何故こんな事が大切かと云へば、さう云つた被写体は共有し易い。露惡的に云ふなら非常に俗つぽくて、俗の気安さにデジタルカメラ液晶画面はよく似合ふ。
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by vaxpops | 2013-02-22 15:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)

13056-0204 温燗に

 日本酒には淡泊な肴が適ふ。
 さつと煮付けたお魚とか、あはい塩のお漬物とか。
 これは日本酒が日本の食事に合はせて醸られ、変化してきたからで、つべこべ云ふのは間違ひだし、間違ひでなかつたとしても野暮な態度ではあるまいか。

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 然し数ある日本酒向けの肴でこれを撰べば外れないのは豆腐ではないかと思ふ。
 冷奴や湯豆腐は年中喰つても飽きないし、調味料を変へるだけで色々の味の愉しみを満喫出来る。

 などと云ひながら、画像は少し捻つて、豆腐の燻製。
 チーズに近い食感で、きはめて淡泊なあぢはひは温めのお燗によく似合ふ。
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by vaxpops | 2013-02-21 21:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(2)

13055-0203 気障なチーズ

 おそらく葡萄酒に最良の友はチーズとハムで、特に前者は腐敗につよいと云ふ理由から、玉葱と共に古代希臘兵の携行食料にもなつてゐたと云ふ。希臘人は当然その頃から葡萄酒を嗜んでゐたわけで、かれらはチーズをつまみ玉葱を齧りながら葡萄酒を呑み、戦場に臨んでゐた光景は、今想像すると優雅に思へなくもない。

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 さう云ふ実利的なチーズに馴れ親しんだ兵隊に、美しく盛り付けられたチーズを差し出したら、かれらはどんな顔をするだらう。アガメムノン将軍なら知らず、質実剛健の兵連中は鼻を鳴らして
「いくさばの喰ひ物だぜ、気障な真似をしやがつて」
と笑ふのではないかと思はれるが、優雅な戦争時代のかれらなら、相好を崩してかがやく青銅の兜を脱ぎ、希臘式の大宴会を始めたとしても不思議は感じないだらう。
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by vaxpops | 2013-02-20 23:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)