いんちきで、さらにマクガフィンだつた。

by 丸太花道@乳軟部

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1801 横濱で考へた事

 先日、横濱に足を運んだ。
 CP+2016が最初の目的。昔の呼び名は確か[寫眞・用品ショー]だつた筈で、手元に残る一ばん古い型碌は2001年版…旭光学があり、京セラがカメラを造つてゐて、コニカとミノルタは合併前だし、ブロニカもマミヤも健在で、シイベルヘグナーがライカとアルパとジナーを扱つてゐた…だから、少なくとも15年振りと云ふ事になる。
 ざつと眺めるだけに留めたのは、単に混雑がひどかつたからで、それでも構はなかつたのは、どうせ注目の新製品も發賣から半年も過ぎれば、無惨な価格になるのを知つてゐる所為でもある。気になる機種がなかつたわけではないが、後日に量販店で好きなだけ触ればいい。速報性を私は重視しないのである。

 もうひとつの目的は、併設…と呼ぶには遠いな、併催された[Photo!Fun!Zine!]で、もの凄く乱暴に云ふと、大規模なアマチュアの寫眞展である。ニューナンブの頴娃君が出展すると云ふので、これを見逃すわけにはゆかない。實は以前、別の展にも出展してゐたのだが、そちらはやむ事を得ない事情で見そびれた理由もある。
 CP+の会場はパシフィコ横濱で、[Photo!Fun!Zine!]の会場は大さん橋ホール(何故大桟橋と書けないのだらう)たから、歩くと少し距離がある。それ以上に横濱の地理はまつたく不案内なので、シャトルバスを利用した。空腹を感じてゐたが、まあ何とかなるだらうと思つてゐたのだが、これが誤りだつた。大さん橋ホールに食事がなかつたわけではないが、食慾を丸でそそられず(掌の半分に満たない、まづさうな“ホットサンドウイッチ”に600円も払へると思ふかね??)、仕方がないと腹を括つて寫眞を見る事にした。

 驚いたね。
 實に巧い。

 私の好みに適ふかどうかは別に、兎に角巧い。そこには機材の優秀さもある筈だが、寫眞は機材で決らないのは自明の話でせう。詰りテクノロジーではなくテクニックの面で、優れた技術の持ち主が集つたのだらうと思はれる。

 然し凄いと思ふ寫眞は皆無だつた。
 これもまた驚いたね。

 会場が可成り広く取られてゐたから、1枚1枚をじつくり見る余裕はない。絵画の展示でもさうだが、こんな時はすつと歩き、目の隅に引つ掛かれば立ち止まるのが私のやり方で、ほぼ歩きつぱなしだつたから、巧いなあと思ひつつ、それ以上を殆ど感じる事がなかつたと云つていい。高校の寫眞部の展示を微笑ましく見たくらゐだらうか。

 不思議だなあ。

 さう感じつつ考へたのは、これがもしかして、別の形だつたら、こちらの受け取り方もまつたく異なつてゐたのではないか、と云ふ事。もう少し續けると、自分の展示スペースは何とか把握してゐても、会場の広さや何百人或は何千人の不特定多数までは意識出來てゐない。小さなフレイムに入つた(もしかすると優れた)名も知らぬひとの寫眞が並べられたところで、それを積極的に見たいと思ひますか。空いたスペースにメッセージらしき文言が書き込まれて、それと寫眞の結びつきを考へたくなりますか。さう云ふ見る側の感情に対する意識、或は注意深さを感じる事はまつたく無かつた。だからおそらく1,000を超える寫眞の中の1枚以上になれないのではないか。

 ここで云ひ方を替へると、それらの寫眞をたとへばもつと小さな規模の展示で、たとへばお手製の寫眞集(フォトブック??)で、たとへば酒席で見せてもらつてゐたら。私の見方が丸で違つてゐたのは疑ひの余地がない。おそらく私は、ご家族を除けば、頴娃君の寫眞を一ばん観る機会に恵まれてゐるだらうが、またかれの寫眞は私では絶対に撮れない事も含めて、好きでもある(古都奈良を歩きながら、頴娃流のスナップが冴えてゐた)のだが、それでも会場の広さや不特定多数のお客に対するには力不足だつた事を惜しむ。尤も頴娃君を始め、すべての出展者の為に弁護すると、實際にそんな眞似が出來る寫眞が撮れれば、それは既にアマチュアとは呼べないのだけれど。

 ただ無闇に広い会場と少なからぬお客に対して、寫眞が非常に狭い印象はそれとして残つたのもまた事實で、これは何かに似てゐる。

 喉の底に引つ掛かつた小骨のやうな疑問は、帰宅してかるい晩酌をしてゐる時、不意に解けた。
 SNSである。
 もつと広く、ウェブログだの何だのを含めても間違ひにはならないと思ふ。
 あすこは結構…訂正、可成り残酷な空間で、たとへば私の駄文が、プロフェッショナルの文章と直接に比較される事が有り得る。冷静にならなくても滅茶苦茶な話だが、それが許されるのだから、こちらとしては頭を抱へて唸るほかにない。
 ただ素人が救はれるのはSNSの場合、その中でのやり取りや附き合ひがある事で、かう書くと身内の褒め合ひの可能性を指摘する聲もあらうけれど、我われ素人は、冷徹な批評だけで耐へられるものではない。但しと念を押すが、そちら向け(のやうに感じられる)に馴れると、どうしても寫眞もそちら向けになつて仕舞ふ。ウェブログで文字通り自分の日記を書いて、それなりに成り立つてゐても、それが文章として不特定讀者の興味を惹くわけではないでせう。寫眞と文章はちがふ?? 確かにその通り。ただ自分の寫眞や文章がたれに見られるのかと云ふ気分の有り様が、1枚の寫眞や1篇の文章に影響する点の骨組みは同じだし、大さん橋ホールに飾られた寫眞のほぼすべてに、その気分は感じられなかつたとは申し添へてもよいか。

 あの巨きなホールに並んだ寫眞の多くで漠然と感じた小骨は、どうやらこれであるらしい。

 こんな風に書くと、ぢやあ丸太ならどんな寫眞を用意してどんな展示をするのだ、やつてからものを云へと反論されさうで、批評を丸ごと否定する態度に再反論はしない。それはそれとして、自分が出すならと頭を働かしたのは認めるし、批評の巧拙は勿論受け容れるけれども。

 然しとここで私は考への方向を変へる。1枚1枚の出來はそれとして、1,000では足りないだらう数の寫眞がひとつの場所に纏まつてゐたのは確かに壮観ではなかつたか。
 出展者が何を考へ、望んでゐたかは解らないし、解つたとしても、こちらの手には負へかねるのだが、さう云ふ個々の思惑とは別に、数がそのまま力に転化してゐたのはおそらく事實であらう。
 1枚の寫眞が世界に衝撃を与へる“フォト・ジャーナリズム”は死に、また撮影が特殊な技術でもなくなつた今に到り、寫眞はやつと藝術だの社会的役割だのの重い服を脱ぎ捨て、数寄者の愉しみと云ふ本來の場所に還つてきた。100人以上の無名の人びとが無名のまま(それぞれの出來はどうであれ)寫眞を持ち寄つた横濱を、最もプリミティヴな“見せ合ひつこ”と見立てれば、それ(詰り数寄者の愉しみ)に近づいてゐると思へなくもないが、寫眞をそこで完結させるのは勿体無い。
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by vaxpops | 2016-02-29 07:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(8)

1800 方針

 連番1700を更新したのは2015年11月22日、勝沼はシャトー・メルシャンからで、2013年のキュヴェ・アキオ(長野ピノ・ノワール)と2014年のキュヴェ・ウエノ(甲州きいろ香)の画像だつた。旨かつたな。

 それからほぼ3ヶ月で今回の連番1800まで辿り着いたのだから、ペースは大体一定を保つてゐると考へていいと思ふ。この(大体でも)一定を保つのは中々大切で、ウェブログの更新が長續きしない方の主な理由はこの辺りにあるだらう。
 云つておくが私は別に、ウェブログは毎日更新するべきだとは考へてゐませんよ。そんなに話の種がたくさん転がつてゐるとは思へないし、種があつても育てられなければないのと實情は変らない。それなら隔日とか週に1回とかでも問題があらう筈もなく、要するに定期的である事が大事なのです。

 そこで思ふのだが、この[いんちきばさら]だつて、毎日更新する必要はないのではないか知ら。

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の特にすすどいひとは気づいてゐる筈だが、更新した内容の中には、ひどく投げやり…適当…気合ひの入つてゐないものがある。いや投げやりでも適当でも気合ひ抜けでもないのだけれど、後から讀み返してどうにも出來の惡いものが幾つか…訂正、幾つもある。気に喰はないね、これは。気に喰はないやり方を續けてどうなるかと云ふと、単にどうにもならない。以前から申し上げてゐるとほり、文章の質は量に比例しないわけで、要は下手糞な文章がWEB上に垂れ流されるだけの事だ。

 なので來3月から、更新の定期性を変へる。1日ではなく1ヶ月単位。月初の“丸太花道賞”でそれを保ちつつ、後は書きたい事が出て來た時に書かうと思ふ。こんな事を思ひつけるのは、おそらく…訂正、まちがひなくこの[いんちきばさら]の固定的な讀者諸嬢諸氏が少ないからで、蔑ろにしてゐるのではなく、駄文を少々でもましにするには、ひとつに掛ける時間を多く取らざるを得ない事情による。尤もこれで更新の頻度がどうなるかは、正直なところ判らない。必要なら1日に何回か更新する事は考へられるし、何日かはふり出して仕舞ふ事も同じくらゐ考へられる。

 もしかすると私がその“長い定期性”に我慢ならなくなつて、元に戻る事だつて。
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by vaxpops | 2016-02-28 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

1799 M型ライカが慾しい!?

 既に[1790 ライカが慾しい!]で、私の慾しいライカはIIIc型だと結論が出てゐる。だからこれは遊びと云ふかおまけと云ふか、そんな気分で書く。

 そこで前回と同じく、然し今度はM型ライカに絞つて世代から考へてゆかう。

 然し實は取つ掛かりが若干面倒で、M型ライカの始まりがM3なのは改めるまでもない。が、この機種はそれで終了してゐる点には注意が必要だと思ふ。後継機を造らなかつたのか、造れなかつたのかと云へば、おそらく後者だらう。事實、以降のライカはM3の廉価版と見なされたM2のファインダーを採用してゐるし、距離計を省略したM1は、(機能として)M2には改造出來るが、M3へは無理であつた。M型ライカの第1世代はこの3機種になるが、後継機がフラグシップから生まれなかつたのは、意地惡く見ると、M型ライカの歴史は頂点からの凋落の歴史と云へなくもない。ひよつとすると叱られるかな。

 M型ライカがナンバリング式になつたのはM4からで、M型ライカの第2世代の始まりでもある。主な機種はM4とM5で、後はファインダーレスの機種。ライツ社が“進歩の気性”を持つてゐたのは、この世代までだと私には思はれる。獨特の巻き戻しクランクはここで採用され、露光計の内蔵も同じく第2世代に端を發する。ただこの1960年代後半から1970年代半ばにかけては、日本の一眼レフが大發展したのと時期が一致する。M5の派生機種としてライツミノルタ或はライカCL(更にはミノルタCLE)が登場し、採算の取れないライカフレックスから、これもミノルタを基にしたライカRに移行したのもこの頃で、獨逸寫眞機が名實共に終焉を迎へた時代とも云つてよい。

 それまでは“超高級寫眞機”だつたライカが、國産に較べれば割高だけれど、頑張れば買へなくもない路線に転じたのが第3世代。M4-2とM4-P、そしてM6(とTTL及びそのヴァリエイション)とM7が相当するのだが、この世代の初期にM4の名前が使はれてゐる事には少し、注目してもいい。ライツ…いやこの時はウイルド・ライカだつたか…は詰りM4(遡つてM2とその兄であるM3)をもつて、“ライカらしいライカ”と認めた證ではなかつたかと思はれてならない。今に到るライカのレトロスペクティヴ好みはここで始まつてゐて、まあその方向はライカ・ファンと云ふかライカ・マニヤと云ふか、そつちの人びとの嗜好が強く働いたのだらうが、それに屈せざるを得なかつたのが、ライカの苦しみを示してもゐる。

 と辛くちなのか惡くちなのか、そんな口調になつたけれど…いやもう少し續けて、何故私はM型ライカの評価が低いのだらうと云へば、ねぢ式ライカに較べて、不恰好に思はれるからなのだな。

 かう書くと必ず、M型ライカの機能美を理解出來ないのか丸太は、と憐れみの視線を向けるひとが出て來さうだが、ちよいと待つてもらひたい。M型ライカを正面に並んでゐる3つの窓を見て頂きませう。位置も大きさも丸で異なつてゐて、實に不細工ではありませんか。また軍艦部ののつぺり具合を見玉へ。辛うじてライカのロゴタイプで誤魔化してはゐた(尤もM6で駄目になつた)が、どうにも無理やりの感じが残る。いやそれはM型ライカの機能を活かす為に必要だつたのだと弁護するなら私は、そこを綺麗に纏めるのがスタイリングでせうと反論する。更にさう云ふ必要を優先だとして、常時手に持ち目にするものの姿を軽視するのは、工業製品の誤つたあり方だ思ひますと追ひ討ちも掛ける。

 となるとM型ライカを撰ぶのは中々に困難な事となるわけで、そんなら無理に撰ばなくてもよささうなものだが、さう居直ると話が進まない。M型ライカの利点から考へ直すとしませう。

 Mバヨネット式マウントはさうなると最大…もしかすると唯一の利点ではないか。ねぢ式マウントのライカ(頭に浮べてゐるのはIIIc型)と比較して、圧倒的に使へるレンズが増える。増えると云つたつて實際に買へるかどうかとは別問題なのだが、その可能性を持てるのは気分として決して惡くない。明瞭なブライトフレイムと組合せれば、それで寫眞が巧くなつたと勘違ひ出來る点も矢張り、惡くない気分であらう。詰り数多いライツと互換性のあるレンズ群を樂しむ為のボディと捉へるわけだな。デジタルカメラでもこの樂しみは不可能ではないけれど、かう云ふのは不便な方が味はひが出るものでせう。そしてその目的なら、ボディに高額な出費をするのは差し控へたい。

 自動的にM4以前の機種は落ちる。出來がよすぎるのが理由である。本当はごく初期のM4とM2の最後のロットは私の生れ年の製造だから、目を瞑りたくはないのだけれど、これはお大尽になつてから考へる事にしたい。
 露光計に興味はないから、M6M7も要らない。問題はM5で、このスタイリングはライツ最後の大改良だつたと思ふし、優れてゐると思はれるのだが、惜しむらくはその構造上、使へるレンズが限られる点で、仕方がない、候補から外しませう。
 かうなれば残るのはM4-2かM4-Pとなつて、私なら前者を撰ぶ。後者は事實上、M6のプロトタイプのやうな位置附けの機種だから、そんならM6の方がいい。それにM4-2はM型ライカのIIIcのやうな立場…背景は異なるが、ライツまたはライカ社が混乱してゐた時期に製造された事情があつて、そこが何だか愉快ぢやあありませんか。変な意味のレアモデルがあるところもIIIcに似てゐる。

 仮にM4-2を手に入れるとすると、レンズはどうしたつて50㎜F2ズミクロンを外すわけにはゆかず、實のところ他はどうでもよい。ここで云ふズミクロンは固定鏡胴の方。この組合せがM型ライカに最もよく似合ふのはもう、M3以来の伝統と云はざるを得ず、M5と50㎜ノクティルックス、CLと40㎜ズミクロンを例外に基本中の基本なんである。
 例外をもうひとつ、忘れてゐた。M1に似合ふのは35㎜ズミクロンであつた。この機種はM型ライカだけでなく、すべてのライカの中で異色で、M2にほぼ等しいブライトフレイムを持ちながら、距離計は省かれ(距離計窓に盲蓋は施されてゐるが、パララクスは補正される)、だから目測の訓練だけ済ませば…経験的に云へば、殆どの場合はどうにかなる。本気で距離を測るとなれば話は別だけれど…余分な出費をせず、地味だけれど、解るひとの目には恰好よく映る(かも知れない)ライカ・ユーザになれる期待が持てる。尤も35㎜ズミクロンだと可成りの投資が必要になるのが難点か。そんなら同じ35㎜でズマロンのF3.5を撰ぶ手もあつて、これだとM4-2と50㎜ズミクロンより訳知り顔を気取れるだらうか。
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by vaxpops | 2016-02-27 07:45 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

1798 グリーン・グリーン

或日パパとふたりで語り合ひながら食べた…わけでない。大体私の親父はカレーにそれ程の執着を持たないし、そちらの辛さにも興味はなささうでもある。お刺身を食べる時には、山葵で醤油を溶くくらゐの眞似をやらかすのだけれど。
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 かく申す私だつて、辛いのを極端に好むわけではなく、激辛何々と云ふのは舌が阿房な連中の玩具のやうなものだと信じてゐる。然し辛くてうまければ話は別になるのは当然の話でもあつて、意外にさう云つたメニュは少なささうにも思ふ。
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by vaxpops | 2016-02-26 08:45 | 飲食百景 | Trackback | Comments(4)

1797 コールスロー

 画像のは一部のひとはご存知だらう、あるお店のだらりと呑む時には最良の肴で、これが品書きに“コールスロー”と記されてゐる。

 ここでは目立たないけれど、枝豆がまことにいいアクセントになつてゐて、小聲でつけくはへれば、もちつとマスタードなんぞを効かしてくれたら嬉しいんだが、贅沢は申すまい。
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 ところで念の為に確かめると、コールスローは

『細かく刻んだ(或は千切りにした)キヤベツを用ゐたサラドの一種』

なのださうで、詰りとんかつ屋の千切りキヤベツは、コールスローに含まれない事になる。
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by vaxpops | 2016-02-25 07:15 | 飲食百景 | Trackback | Comments(4)

1796 盆栽ふたたび

 2月12日に[1784 盆栽] と題して書いた後、ちよいと面白いなあと思はれた事があつたから、今回はその話を取り上げる。出來れば先に前回を、コメントも含めてご一讀をお願ひしたい。

 宜しいですか。

 宜しいですね。

 では始めませう。
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 先づ何が面白いなあと思つたかと云へば、コメントを呉れた頴娃君は、日本的な“縮小志向”を
『(小)宇宙の具現化好み』
と捉へ、それがある(もしくはあつた)から、盆栽と云ふミニチュアリズムが生まれたと考へてゐるらしい点なのだな。だからかれは私の云ふ、盆栽が鐵道模型のジオラマに似てゐるんではないか説に、殆ど反応を示さなかつた。成る程さうだつたのか。

 然し私はさう思つてゐない。ミニチュア好みの志向及び嗜好は、その形があつたから生まれたので、寧ろ盆栽と云ふ形で提示され、その小さな世界に面白みが感じられたから、突き詰めるやうに進んだのではないか。さう思つてゐる。思想が文字で成り立つ…即ち思想の前に文字があつた…のと同じく、ある地域の(思ひ切つて云へば)藝術的な方向は、形があつてこそ成り立つものではないか知ら。

 かう書くと頴娃君は元より、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏からも
『そもそも日本の原形的なところに、ミニチュア化或は小宇宙の具現化好みがあつたのではないか。さうでなくちやあ、筋がをかしいよ』
と反論されるかも知れない。

 さうなのかなあ。

 日本の文化のある大きな部分が、中國大陸の影響を受けてゐるのは今さら云ふまでもないが、そこには巨きさへのあくがれが感じられる。平城の京や同時代の巨刹や佛像は、貧弱で未開な日本のささやかな財布で赦される、目一杯の贅沢だつたらう。
 尤も宗教的な建築が華美に傾きがちなのは洋の東西を問ふものではなく、塩野七生は大意
『豪奢な寺院は、無知な庶民に信仰の悦びを感じさせる最良の手法』
と時代背景を考慮しつつも、肯定的に評してゐる。この小説家が云つたのはキリスト教建築だが、佛教でも背景は変らない。平城の寺院は極楽ではなく、権威を象徴させる目的だつたらう。またさう云ふ建築事業を実行出來る財力や動員力、或はそれらを運営する技術は、潜在的な敵対勢力への示威となつたにもちがひない。その辺りの分析は本題から離れるし、手に余りもするから踏み込まないとして、ここでは

『ある具体的な形を指し示す事』

自体が、抽象的な思索への(少なくとも)入り口(のひとつ)となつてゐる、または成り得る点が重要なのですと申し上げておかうか。
 この場合、その“具体的な形”は、財力が許す限り巨きな方が望ましい。原始的な驚きからすると、サイズとその驚愕の度合ひはほぼ比例すると思はれて、ほら我われが東京タワーだの何だのを初めて目にした時には、ごく単純におおと思つたでせう。もしかすると聲をあげて仕舞ふかも知れず、詰り解り易い。この解り易さへの反応が、日本人に限らず、原形質的な嗜好の方向性と考へる方が自然ではないかと思ふ。

 ただその具体的で(實は象徴的でもある)巨きな形が効果的なのは、社会全体が未成熟な土民の群の状態の頃で、経済と學問が(ある程度)行き渡ると、神通力は減じ、巨きさは抽象の象徴または入り口ではなく、単純な財力の見せびらかしになつて仕舞ふ。
 おそらく盆栽…ミニチュア志向の原形はこの辺りにあるのではないか知ら。
 工匠を使ひ立てて広壮な建物や豪奢な庭園を造らせるのに飽き果てた数寄者のお大尽を頭に浮べてもらひたい。そのお大尽が出入りの職人の手すさびを目にする機会を持つただらう事は十分に想像出來る。職人が貧乏なのはいまもむかしも変らないところで、かれの手すさびはその辺の木切れを用ゐた、ごく小さなものだつたに相違なく、要するに暇潰し以上のものではなかつただらう。偶さかそれを目にしたお大尽に
『そは、何ぞ』
と訊かれて職人はどう応へただらう。どうにも口を濁すしかなかつたと思ふのだが、雇ひ主は庭園の花を手折り添へ、面白がつたのではなからうか。

 私がそのお大尽だつたら、きつと酒席に持つていつて、仲間連中に自慢するね。まちがひない。白酒を呑み、干魚を毟りながら
『中々に趣のあるものではないかね』
なんて云ふ。
 私がそのお大尽の仲間連のひとりだつたら、羨ましがるだらうな。白酒を呑み、酢漬けを摘まみながら
『これは何とも、味はひのある』
なんて云ふ。
 始まりはきつとこの程度で、巨きさや豪奢との対局を面白がるひとが増えたのだ。大勢が面白がると、突き詰めるひとだつて登場する。そのミニチュア化の面白がりが煮込まれ煮詰られ、盛りつけられた結果が小宇宙化ではないだらうか。

 [1784 盆栽]を書いた後、頴娃君との酒席で見立ての立脚点が丸で異なつてゐるのに気がついた。それが實に面白く感じられたので、色々と考へてみた。最後につけくはへると、盆栽史は敢てまつたく確かめずに書いたから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、その辺りはひとつ、割り引いておいてもらひたい。
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by vaxpops | 2016-02-24 10:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)

1795 鐵板

 間違ひない組合せ、と云ふのがある。

 鮪の赤身に山葵。
 天麩羅に大根おろし。
 焼ソーセージにザワークラウト。
 おからにシャムパン。

 月には叢雲、貴女に丸太。
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 定番とか鐵板と呼ばれる組合せは、時間と云ふ審美の王さまの判定で成り立つてゐるから、誤りがない。困つたら、定番を、と考へるのが何より確實な結論なのは、そんな事情…世界の眞實がある。

 さう思つて眺めると、牛肉と馬鈴薯も世界の眞實に相応しい組合せで、ステイクのつけあはせ、ビーフシチュー、カレー、肉じやがと献立が浮んでくる。獨逸にはザワーブラーデンだつたか、酸つぱい牛肉料理があつて、それにも馬鈴薯は添へられるさうだ。
 獨逸に冷笑的な態度を崩さない知人なら
『かれらの食卓から馬鈴薯を取り上げたら、後はキヤベツと麦酒、ソーセージしか残らない』
くらゐ云ひさうな気がする。辛くちだなあ。然しかう云ふのも旨いと想像は出來て、モーゼルとあはせれば嬉しいだらう。

 詰るところうまい。これが(またはこれこそが)世界の眞實であつて、定番であつて、鐵板なんである。尤も折角いい具合に火を通した牛肉を、熱い鐵板で提供する習慣だけは、どうにも感心しないのだけれど。
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by vaxpops | 2016-02-23 07:15 | 飲食百景 | Trackback | Comments(4)
 普段なら(積極的に)食べはしなくても、他のつまみものがうまければ、ちよつと試してみるかと思ふ時もあるわけで、これはそのひとつ。

 モッツァレラとゴルゴンゾーラのキッシュ。
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 ふはりとした仕上がり…卵の使ひ方が巧いのだらうな…に、あつさりと濃厚がいい塩梅で混じり、大きく食べても小さくつまんでも宜しい。詰り食事と肴を兼ねてゐて、實に満足した。

 私の食べ方が余程うまさうに映つたのか、偶々隣にゐた見知らぬお客が、そのキッシュを持ち帰りたいと云ひ出して、女将さんは
「玉子を使つてゐるから、帰つたら直ぐ冷蔵庫に入れて下さいね」
と念を押しながら、手際よく用意を整へた。さう云ふサーヴィスはしてゐない筈なのに、あしらひが出來てゐるなあと感心した。その感心がまたキッシュを旨く感じさせたのは、改めるまでもないでせう。
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by vaxpops | 2016-02-22 07:15 | 飲食百景 | Trackback | Comments(4)

1793 焼筍

 春の声が聞こえてくると、ちよいと気の利いた呑み屋では筍が顔を出してくる。私は筍に目がなくて、品書きにこの文字を見ると、註文せざるを得ない。

 たいていの場合はさつと炊いて若竹煮で供されるわけだが、もう少し手の込んだお店なら削いで刺身風に出してくる。山葵醤油でやつつけるのがうまい。
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 然し画像のやうに焼いて出すのはめづらしいのではないか知ら。どうもそんな気がする。最初はどう食べるのがいいか、分りかねたけれど、両端を持つて玉蜀黍のやうにかじるのがよかつた。

 画像の右下にあるのは南蛮味噌と云ふやつで、これを乗せて食べる。尤も焼きたての熱いうちは、筍の風味だけで十分である。勿論南蛮味噌は南蛮味噌で、お酒のお供に活躍してもらつた。
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by vaxpops | 2016-02-21 07:30 | 飲食百景 | Trackback | Comments(6)

1792 塩煮込み

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 先に云ふと、これは附出しである。

 何かをかしい気もしなくはないが、世の中にはかう云ふ不思議な呑み屋も、たまにはあるものだ。

 塩もつ煮を食べるのは初めてだつたが、中々うまいね、これは。蒟蒻や牛蒡、大根にもお出汁がほどよく染みて、肴になる味つけになつてゐる。

 最初のうちはそのままで。
 葱が少なくなつたくらゐで七味唐辛子をちよいと。

 食べ進むと、器の底に針生姜が忍んで、平らげる頃に、口の中がさつぱりする仕掛けがあるのに気づいて感心した。かう云つた小さな工夫を惜しまないお店が近くにあるのは、嬉しい話ではありませんか。
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by vaxpops | 2016-02-20 11:15 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)