いんちきで、さらにマクガフィンだつた。

by 丸太花道@乳軟部

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1836 ナカグロの間

 先日、『腹を抱へる』(丸谷才一/文春文庫)を讀み返して、面白い一文を見つけた。丸谷才一は私が尊敬する小説家兼随筆家兼批評家だから、今さら、遅いと云へば遅いのだが、気づかないよりはぐつとましな筈である。

 それで私が何を面白がつたかと云ふと、英國のある新聞が、小説家の名前を記す時(米國の雑誌では代表作を入れてゐた影響を受けてか)
「ミドル・ネームとして、作品の題ではなく、その作家の好きな酒を入れてゐたのである」
殊に私を歓ばせたのは、"内田・おからでシャンパン・百閒(肴まで添へてある)"で、カツコ書きが香辛料のやうに利いてゐる。尤も百閒先生がこよなく愛した…阿房列車では魔法瓶に入れて持ち歩いたくらゐ…のはお燗酒なのだが、それでは締まらない。

 これは遊びに使へる。

 身の回りのひとを思ひ浮べてみ玉へ。續けてそのひとの好むお酒を思ひ浮べてみ玉へ。そしてミドル・ネームに入れるのだ。仮にかれ乃至彼女が不調法だつたとしても、他の好みを入れれば成り立つ。気心の知れた何人かが集つた夜の、ちよつとした遊びになるんではないか知ら。

 とは云へ、ウェブ上のハンドル・ネームでは、姓名が判然としない場合がある。ミドル・ネームが成り立たなくなるから、六づかしいんぢやあないかと不安または疑問を呈する讀者諸嬢諸氏がをられるかも知れない。ごく眞面目な表記法なら確かにその通りだが、これは遊びである。その辺りはいい加減で宜しく、たとへば

 ミスタ・冷酒(但し生に限る)・頴娃
 マドモワゼル・主に麦酒、葡萄酒もお好みよん・乙女酒場

などとすれは問題はないでせう(名前を出した方には失礼をお詫び申し上げる)
 それで気になるのは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏がこの手法で私を呼ぶとしたら、どんな風になるのだらう。ナカグロの間に何が入つてくるかで、どう見られてゐるかが透けてきさうな気がされてならない。
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by vaxpops | 2016-03-31 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(6)

1835 突入セヨ

 命令一下、こつちに向かつてこられたら。
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 とてもぢやあないが、逃げ切れる気がしない。
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by vaxpops | 2016-03-30 08:30 | ニューナンブ | Trackback | Comments(2)

1834 花牡丹

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 ものの本によると、昔日の長安では、士大夫の牡丹を愛でること、甚だしかつたさうな。
 詩の一節に偏愛の字を見た記憶があつて、讀み下しは確か"偏(ヒト)ヘニ愛デル"だつたか。

 一鉢千金
 一花偏愛
 一市陶然

 などといふ文句があるわけではないが、春ノ夜、花ニ酔フ士大夫の姿を思ふと、こちらの気分も佳くなつてくると云ふものだ。
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by vaxpops | 2016-03-29 07:15 | 画像一葉 | Trackback | Comments(2)

1833 伊丹の親子丼

 私の胃袋はもう老人だから、たつぷり食べるといふのが無理になつてゐる。伊丹十三は若書きのエセーで、自分を老人に見立ててゐるが、さういふ厭みの積りはない。

 かれは30台前半(執筆時期からさう思はれる)で、"10台の美少女"ふたりを相手に、ちらし寿司の種を口々に云はせ、歓んでゐて、それが事實なら荷風気取りだし、妄想…失敬、空想であれば大谷崎へのあくがれだらうか。あのひとは配偶者の條件に、"自分よりふた周り年下の美少女"と書いてあるから(本気なのか、どうか)、老いた自分とそれを慕ふ少女の情景を好もしく思つてはゐたのだらう。

 尤も私の場合、残念ながら少女趣味の持合せはない上、食慾がどうにも減つてゐるもの事實だから(さういへば最近体重を計つたら、60キログラムだつた)、色気も何もあつたものではない。殺風景だなあ。

 ただ殺風景は認めるとして、稀に、ひどく空腹を感じる…かう書く事自体、重ねて殺風景なのだが…時がないわけではなく、そんな場合に恋しくなるのが丼ものである。何があるだらう。

 鰻丼?? あれはお重で食べるのが似つかはしい。

 天丼?? いや寧ろ天麩羅だけを望みたい。

 海鮮丼?? 生温かな魚介を私は好まない。

 かつ丼?? 外れは少ないがどうもなあ。

 カレー丼?? 積極的に食べたいとは思へない。

 麻婆丼?? 辛さに先立たれるのは困るのだ。

 天津丼?? いやいやお皿で食べるものだよね。

 適度に分量があつて、しつつこくなく、食べてゐるなあと實感出來る丼もの。何があるだらう。

 暫く考へると、あつた。ありましたね。
 親子丼である。似た方向で云へば牛肉を使ふ他人丼や油揚げを用ゐた木の葉丼があり、種を省いた玉子丼もあるが、ここは親子丼に軍配を上げておかう。

 卵と鶏肉なら文字通りの"親子"だから、あはない道理がない。淡泊なのに食べ応へがあつて、飽かずに丼を空に出來る。何より有難いのは、お酒の援けが要らない事で、たとへば鰻丼(乃至鰻重)をお酒無しに註文しようと思ふかね。私にはそんな度胸の持合せはない。

 本來なら、かういふのは困るのだ。お酒…いやもつと広く酒精と適はないとなると、待つ間、どうすればいいのだらう。
 然し私が親子丼に飛びつくとすれば、前述の通り、稀なひどい空腹の時の筈である。そしてそんな場合、酒精を控へるのが私の数少ない美点であつて、その美点に親子丼はよく似合ふ。

 甘辛いお出汁。
 半熟よりゆるめの溶き卵。
 艶やかな鶏肉。
 炊きたてのごはん。

 要するに親子丼はこれだけで、三ツ葉や葱はあつて困らないが、なくてもかまはない。お出汁はたつぷり目が望ましくて、これこそお粥よりはしつかりした、胃袋老人向けの丼ではなからうか。

 ところで伊丹十三の家は客人が多く、本人もそれを歓んでゐたさうだ。かれ乃至彼女は当然呑むわけで、酔漢酔女が夜中に突然
「親子丼が食べたい」
と無理難題を吹つ掛ける事があつたといふ。然し伊丹はそれを見越して、冷蔵庫には常に大量の挽き肉と卵を欠かさず、リクエストに応じる用意をしてゐたらしい。
 厳密にこれを親子丼と呼ぶべきかには議論の余地があるとして、かういふもてなしを受けると、また訪れたくなるだらうし、その折には、親子丼を迎へるに相応しいお酒の1本も下げたくならうといふものではありませんか。
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by vaxpops | 2016-03-28 08:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

1832 ラヂオ・デイズ

 アナログ放送が終了する前後の頃に壊れて以来、テレビジョンを持たない生活になつた。それで格段の不便はないから、あれは無駄…贅沢品だつたのだと思ふ。

 それから今に到るまで、日常的に利用するのはラヂオである。テレビジョンとちがつて、目を取られずに済んで、中々具合が宜しい。
 聴くのは主にAM放送。頻度の高い順にNHK第1、同FM、文化放送で、たまにニッポン放送も耳にする。民放FMは殆ど聴かない。この順番は概ね、(私にとつて)耳障りではなく感じられるのと等しく、邪魔にならない程度に賑やかと云ひ替へても誤りではない。

 本來ならちやんとした受信機を入手する方が望ましいのだが、面倒な気がされて、今はアプリ(らじるらじるとradiko)に頼つてゐる。サイマル放送の特性上、1分程度の遅れが生じるから、緊急時の速報には疑問が残るけれど、そちらは他の手段もある事だし、神経質にはなつてゐない。

 ラヂオが私にとつて"具合が宜しい"のは、前述の目と手を動かす時、邪魔にならないと云ふのもあるが、それ以上に"最新の流行"を追ひ掛ける気配が薄い点が大きい。

 人気の俳優。
 流行の歌。
 注目の映画。

 その手の話題が出ないわけではないが、まつたく出なくても当方に不満はないし、寧ろ古い歌謡曲や樂団の演奏や話藝を聴ける方が嬉しい。いやかう書くのは不正確か。ラヂオを聴くようになつて、さういつた面白さを知つたと云ふ方が實情に即してゐる。

 思ひだした事がある。中學生から高校生の頃にかけて(はてさて、何年前になるやら)、ラヂオの熱心なリスナーだつた。当時は"知らない"或は"新しい"音樂の入手先はラヂオが先端だつたから、FM大阪を中心に(J-WAVEやFM802は開局前)聴いてゐた。『FMステーション』や『FMレコパル』で番組をチェックして、録音にいそしんだものだが、若い讀者諸嬢諸氏には理解し難いだらう。

 AM放送だつて聴いてゐた。MBS毎日放送、ラジオ大阪、KBS京都の深夜放送で、ヤングタウンやハイヤング京都と云つて懐かしさに顔をほころばすひとは、私と近い年代ではなからうか。田中真弓と島津冴子のアニメトピアを思ひ出したひとは、反省しなさい。中島みゆきがオールナイトニッポンの月曜日を担当してゐた時代でもあつたなあ。流石に録音はしなかつたけれど。

 ところで当時と今のラヂオの聴き方が私の場合、ちがつてゐるのかどうか。

 確實に云へるのは、あの頃のラヂオは、私にとつては新しい情報の収集源であつた。
 ハイヤング京都の土曜日だつたと思ふが、そこで私はデイヴ・リー・ロス の『ジャスト・ア・ジゴロ』を聴き、かれの『スカイスクレイパー』で底抜けなメリケンロックを知つた。
 確實ではないが、今のラヂオは、私にとつて過去へ遡る情報の収集源になつてゐる。
 午後のまりやーじゅ金曜日に聴いた三波春夫の『元祿名槍譜 俵星玄蕃』で生れる前の歌謡曲や浪曲の面白さに気づき、所謂伝統藝能の凄みを今やつと知りつつある。

 かういふ切つ掛けはテレビジョンよりラヂオの方が向いてゐるらしい。何故だらうと考えへるに、視覚の情報が却つて邪魔になる場合があるのではなからうか。逆の場合もあるだらうが、画が時に妨げとなる事は、忘れない方がよささうにも思はれる。

 然しラヂオ・デイズを満喫しながらも、スポーツの中継だけはこまる。野球のやうに"静止する時間"が長ければ、耳も追ひつくのだが、バレーボールやサッカーだと、どれだけ注意深くしても、ついてゆけるものではない。
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by vaxpops | 2016-03-27 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(4)
 仄聞するところによると、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の一部に
「どうも丸太の文章は、長くて讀むと草臥れる」
と云ふ意見があるさうだ。

 うーむ。
 さうなのか。

 暫し唸つてから、これはまた、どんな事情なのだらうと考へた。

 ひとつには讀者諸嬢諸氏が、ウェブログで長い文章を讀むのに馴れてゐないのではないか、と云ふ事情である。
 PCであれタブレット端末であれ、或はスマートフォンであれ、たつぷりのテキストには不向きだらうと思はれて、詰り
「目が我慢出來ない」
のではないか。無理やりな理窟ではなささうだが、どうだらう。仮にさうだとすると、こちらの手には負へない事になる。

 然し、正しい推測だらうか。
 正直なところ、自信がない。

 もうひとつ、自分には些か情けない推測もある。それは
「馴れも何も、詰らないからだよ」
といふ事で、こちらの可能性の方が高さうな気がされるのも我ながら、情けない。
 とは云ふものの、長文は私の癖でもあつて、一朝一夕に短く削つて書くのは、困難に属する。だから我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には(少なくとも)当面は諦めて頂かざるを得ない。

 ところで何故、長くなつて仕舞ふのだらうか。

 最初に考へられるのは、不安ですね。
 言葉が少ないと、ちやんと伝はらないんではないかと思ふ。だから補足や注意書を入れたくなつてくる。注意書に補足を入れ、その補足に注意書を加へたくなる事もあつて、これで長くならなければ、その方が、どうかしてゐるよ。

 今ひとつ考へられる事もある。
 いや實のところ、こちらの理由の方が大きさうとも思はれて、詰り前書きがそれである。
「いやあなた、閑文字のどこに、前書きと本論があるんです」
と(眞顔で)訊かれさうにも思ふし、さう訊かれたら頭を掻きながら誤魔化さざるを得ないかとも思ふのだが、これでも書かうとする事があるから、書いてゐる。

 尤も、書かうとする事は他愛ない…いやさうではなく下らない事どもが大半で、それだけを取り出すと、酢豚の中のパインアップルだけのやうに(面妖な比喩か知ら)ひと口で終つて仕舞ふ。
 それだけでいいなら、わざわざウェブログに仕立てる必要はなく、と云ふより、その下らない事どもから、色々の連想が働いて、結局それが前書きになる。ひとつの連想は次の連想を呼ぶのが常だから、前書きは長くなる。なつて仕舞ふ。

 これぢやあいけないよ。
 自分で分析しながら、ふかい反省がこみあげてきた。

 長い文章は、長さそれ自体が惡いといふわけではない。さうでなければ、長篇小説が成り立たなくなる。小説に限つた話ではなかつた。たつぷり讀ませる随筆だつて同じであらう。
 詰り長くなつて、"草臥れる"と讀者諸嬢諸氏に云はせるのは、あくまでも私自身の未熟が原因なのだと断ぜざるを得ない。ええ、この断ぜざるを得ないと書くところに、こちらの悔しさを滲ませてゐるとご賢察頂きたい。

 然し(居直りも含めて云ふのだが)、それで長く書くのを止すかといへば、そんな事は考へてゐない。藝風はさう簡単に変へられるものではないし、酢豚にパインアップルが必要なやうに、文章にはそれに必要な長さがあるものだ。
 そこから一歩を進めると、パインアップルが活きる酢豚を用意するのが、目標とするところになるだらう。と書いて不意に気になつた。私は酢豚にパインアップルは不可欠だと堅く信じてゐるのだけれど、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、如何なのか知ら。
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by vaxpops | 2016-03-26 09:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(8)

1830 日光の余話

 日光と云へば東照宮だけでなく、二荒山神社、輪王寺に滝尾神社がある。
 東照宮に較べれば余程ふるい。
 より正確に云ふと、日光山が開かれたのが8世紀中ごろ。東照宮の創建は17世紀初頭だから、時間のスケールが丸でちがふ。神威浄域…神寂びを人造で出來上らせるのは不可能な課題だから、家康が幾ら東照大権現だ東照神君だと胸を張つたところで、とてもかなはないと云つても、文句は出ないと思ふ。

 要は日光三山が御神体だつたのだらう。神南備山…奇しき山に霊威を感じるのは上代日本人にめづらしい事ではないもの。その三山で祀られる御柱は大己貴命、田心姫命に味耜高彦根命ださうで、詳しいところはご自身でお調べなさい。
 ところで二荒山…讀みは"フタ(ア)ラサン"…神社は"縁結び"の神さまなのださうで、どうも三ツ柱と結びつけ難い。些細な点に拘泥しても仕方がないのだが、到るところでそれを(あくどいくらゐ)強調してゐて、御神籤を括る枠がハートを模つてゐるのには参らされた。頴娃君にはそれをたくまざるユモアとして受け止める余裕があつたらしく
「貴君、神さまに何とかしてもらひ玉へよ」
こちらとしては、拙く笑ふしかなく、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、以てご賢察を賜はりたい。

 尤も二荒山神社じたいは、東照宮より刻んだ時間が長い所為で、随分と気分がよい。花粉症持ちの頴娃君には気の毒だつたが、がずしりと幹を張つた古杉老杉の皮を見るのは快かつたと云はなくちやあなるまい。
 更によい心持ちになれたのは滝尾神社の方で、これは東照宮や輪王寺、二荒山神社が集中してゐる域から1㎞ほど離れてゐる為か。細い滝、注連縄を張られた御神木(これも杉であつた。上代人の樹木に対する感覚が、何となく想像出來はしまいか)、古拙なつくりの境内。お大師さまが來たと云ふ伝承が書かれた小さな看板には苦笑させられたけれど、そんな事を云ひ出したら、日本中のお大師さま伝に同じ態度を取らねばならず、實に莫迦ばかしい。さう云ふものなのかと思へばよからう。
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 ところで今回の眼福は、古杉の数に劣らぬほど(と云ふと些か失礼やも知れないが)、和装のお嬢さんを見かけた事であつた。何かの催しかと思つゐたが、後でどうもさういふサーヴィスがあるらしいと判つて、成る程、思ひ返せば調ひ具合がどのお嬢さんも姿が確かに似てゐたし、挙措が落ち着かないところも似てゐた。
 たださう云ふ点をあげつらふのは、お大師さま伝に難癖をつけるのと同じ態度だらうから、こちらとしては、思はぬ幸運を喜ぶにとどめるのが、望ましいと思はれる。二荒山神社で彼女たちが、験があるのだらう、狛犬の耳を熱心に触れる様はまことに愛らしいもので、これはもう孫を眺める老人の思ふところではないか。

 さて。

 日光まで足を運ぶ以上は当然、1泊をせねばならない。ニューナンブが"スーパーどんたく"を称する所以でもある。
 詰り、呑む。
 呑むと云ふのは勿論お酒なのだが、ここで少し、揉めた。 揉めたと云つても喧嘩になつたわけではない。
 私は比較的、安全を重視するたちだから、1本でいいのではないかと云つた。
 頴娃君は比較的、たつぷり愉しみたいくちなので、これは2本がいいと主張。
 さういふ点だつたので、あつさり解決した。酒屋の棚に魅力的な銘柄がふたつ、並んでゐたからで、双方を試さないのは
「ひととして如何なものかと思はれる」
シルク・ヱビス(350ml)の6罐パックと肴をあはせ、我われは意気揚々と宇都宮の安ホテルにチェック・インしたのであつた。

 宇都宮にはオリオン通りと云ふアーケード街の近くに屋台横丁がある。
 2年前に訪れて、えらく愉快な場所だつた記憶がある。うまい肴を出してくれるお店があつたし、栃木のお酒が侮り難いのを教へてもらつた恩もあるから、再訪したい気持ちもあつた。
 さう云ふ意味では些か(残り少ない)後ろ髪を引かれる思ひもなかつたわけではないが、我われの寝床は屋台横丁と逆の方向だし、買ひ込んだお酒の魅惑はそれ以上でもあつた。後ろ髪には我慢してもらはう。
 それで銘柄を紹介すると、呑んだ順にひとつは天鷹心(純米大吟醸)、もうひとつは東力士(純米吟醸/無濾過おりがらみ)の2本で、いづれも栃木のお酒。前者は私、後者は頴娃君の撰択だつたが、銘柄と云ひ、呑んだ順と云ひ、正解だつた。
 天鷹心…これは前述の屋台横丁で知つた…は非常にかろやか。冷蔵庫に入れなかつたのが奏功したか、芯の通つたさはやかさを満喫出來た。
 東力士は如何にも頴娃君このみ。少し冷したが、名前に似つかはしい、ずしりとした重さで、栃木を呑んでゐるなあといふ気分になれる。
 これがもし逆の順だつたらどうだらう。東力士は必要以上におもく、天鷹心は頼りなく水つぽく感ぜられたに相違ない。ごく自然にサヴァラン教授の箴言を實行出來るようになつた"スーパーどんたく"もそろそろ、ヴェテランの域に達してきたのではなからうか。お酒にはかういふ自己満足が欠かせないんである。

 翌日、我われは日光線を経由して、東武特急列車の日光8號で帰途についた。
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 國鐵時代の特別待合室に射し込んだ光は、嘗ての外國の女性旅行家も喜ばせただらうか。

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by vaxpops | 2016-03-25 09:15 | 宿酔紀行 | Trackback | Comments(2)

1829 余話の前

 日光の話には余話がある。

 余話があるから書いてゐるのだが、例によつて少々長めになりさうで、どう纏めるか考へながら表に出た。

 さうしたら、齢わかい染井吉野(と思はれる)に小さく花が咲きだしてゐるのに目に入つて、すつかり気分がよくなつた。
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 だからこれを、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏へお裾分けしたくなつた。
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by vaxpops | 2016-03-24 08:00 | 画像一葉 | Trackback | Comments(2)

1828 日光の話

 どこのたれだつたか忘れたが、明治頃に來日した外國の女性旅行家が、日光を激賞した文章を讀んだ記憶がある。何となく誇らしいね。

 尤もその行間には、文明未開の野蛮な國と思つたのに中々やるわね、といつた匂ひも感じられた記憶もある。何だか釈然としないなあ。

 その日光に行かうと云ひ出したのは頴娃君で、かれが何故そんな事を思ひついたのかは解らない。然し日光には行つた事がないし、日光を観るまでは結構といふなとの格言もある。そんなら行きませうと話が纏まつた。
 調べてみたら日光は案外遠い。いや遠いと云ひ切るのは問題があるかも知れず、新宿驛から東武線直通の特急列車だと2時間くらゐで到着する。同じ新宿から中央本線の特急列車に乗れば小淵沢まで行ける程度だから、極端に遠いわけではない。ただ如何せん、その直通特急列車の本数が非常に少なくて、その少なさが心理的な距離を作つてゐる。東武鐵道の立場になれば、浅草から乗つて下さいよと云ふところだらうが、新宿を経由して浅草まで行くのはどうも面倒な気がする。

 それで我われは新宿驛發午前7時30分の日光1號の乗客になつた。これだと東武日光驛に到着するのは午前9時28分。宿泊は宇都宮で、電車のダイヤグラムを考へると、半日余りを愉しめる事になる。上々と云つていい。
 日光1號の座席は足元が多少広めに取つてあつて、その多少がちよいと嬉しい。腰を据ゑた我われが最初にするのが、朝の一ぱいの準備なのは云ふまでもなく、私は麒麟のクラシック・ラガー(500ml)、頴娃君はヤッホーのTokyoBlack(350ml)が先陣を切る。
「さて」と云ひながら頴娃君はプルタブを動かす手つきで「どこからにしませう」
「折角の日光旅です。23区を出てからで」
合意をしたのはいいが、うつかり池袋を過ぎた時点で、開けて仕舞つた。十条赤羽には申し訳ないと思ふが、開けた以上は呑まねばならぬ。乾盃。

 窓外の空はくらい。どうも感心しないなあと思つてゐたら、窓に雨粒が流れ出して、これはまづい。ニューナンブの旅行(我われは"スーパーどんたく"と呼んでゐる)で空模様に振り廻されたのは下田の大雨と熱海の大雪の2へんで、伊豆半島方面だけだつたのだが、日光が第3の例になるのかと不安になつたが、東武日光驛は雨に濡れてをらず、やれやれとひと安心した。

 荷物の一部をコインロッカーにはふり込んで、バスのフリーパスを購入する。小判型の然し安つぽい紙製で500円。一緒に東照宮の拝観券(1,300円)も購入。それを片手にバスに乗込んで、西参道停留所で降りる。
 俗つぽい。
 日光カステラの看板やテレヴィジョン紹介されたとか云ふ湯葉ラーメンの幟、古ぼけたお土産屋。最期まで農民土豪の親分だつた徳川家康には、理解し難い光景なんぢやあないか知らと思ひながら歩くと、道がいきなり砂利になつて、その先に東照宮の門が見えてきた。
「お。これはこれは」
「大した人出だねえ」
我われの他に、暇を持余す人びとがこんなに大勢だとは思はなかつた。それも案外なほど、外國人の姿が多い。某女性旅行家の影響なのだらうか。
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 だから当然、中も混雑してゐる。
 団体とおぼしき集団を案内する巫女さん(可愛らしいひとだつた)が、三猿の彫り物の説明をしてゐる。
 こつそりその隅つこで、説明を盗み聞きするひともゐる(私の事だ)
 所在無げな子どもたちがゐれば、何が刺激的なのか妙に機嫌の好ささうな外國の旅行者もゐる。
 詰りへんに賑やかで、浄域に特有の清々しさは丸で感じられない。
 老杉があり、苔生した石燈籠があり、何百年かを過しただらう建物があるのに、どうにも俗に落ちてゐる。これぢやあ東照神君も落ち着いて西の護りが出來なささうで、薩摩人には絶好の機会と思はれる。

 かう云ふ書き方をすると、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には
「矢つ張り丸太は、家康がきらひなのだな」
「あれだよ、大坂人だもの」
「太閤が好きなんだなきつと」
と云はれさうで、まあ半ば、誤りではない。晩年の發狂した(としか思へない)秀吉にはある種の憐れみを感じる以外にないが、人間の照り映へ具合を大きく見ると、家康には"何だか分らないけれど、好もしい"と感じさせるところがうすいもの。
 それに時代が下れば兎も角、江戸の初期は幕府が開かれたと云つても、所詮は草深い田舎である。厭な云ひ方をすると、上方の爛熟を極めた文化に比較して、どこか野暮臭さがのこる。秀吉の豪奢に成上りの惡趣味が濃くないのは、その洗練が背景にあつた所為で、何の話をしたいのかと云へば、さう、彫刻だつた。

 東照宮の建物には到るところに彫刻が施されてゐる。先に述べた猿もさうだし、伝左甚五郎で高名な眠り猫とその裏の雀。唐門にはおそらく儒者の姿も見られる。いづれも美事なもので、私だつていつも捻ねてゐるわけではない。
 美事で、或は美事だけれど、過剰。
 捻ねてゐるわけではないと云ひつつ、率直な印象はさういふ事になる。ひとつひとつの繊細には感心させられても、全体としては些か纏まりに欠け、要するにごたついた印象がある。確証があつて云ふのではないが、個々の技術の匠はゐても、それを一体とする才覚の持ち主…今風に云へばプロデューサーがゐなかつたか、その必要性を感じるところが少なかつたのではなからうか。不思議と云へば何とも不思議な情景で、江戸初期のこのみだつたのか知ら。家康が上方の熟した文化に傾倒した気配は感じないが、もしかするとかう云ふのを喜んだのかも知れず、だとすればその粗放乃至稚気は微笑に価すると思はれる。

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by vaxpops | 2016-03-23 11:00 | 宿酔紀行 | Trackback | Comments(0)

1827 苔を撮る

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 かう撮つて、ふと目をあげる。
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 苔を撮る娘さんに、3秒の親愛を感じた。

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by vaxpops | 2016-03-22 07:00 | ニューナンブ | Trackback | Comments(0)