いんちきでさらにマクガフィン

by 丸太花道@乳軟部

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1867 しづかにきしれ

 たとへば画像が一枚、あるとする。
 ウェブログにアップロードしたいとする。
 それをどう扱ふか、といふ話から。

 どうも何も、添付すればいいでせう。

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏のすすどさは、流石である。画像を添へてアップロードすれば、確かに完結する…作業としては。
 然しここで云ふ扱ひはちつと事情が異なる。私は比較的、テキストを書く方だと自分を見てゐるのだが(出來は別の問題ですよ為念)、寫眞も好きなので、手元には画像がある。美しい、雄大な、或は愉快な、うまさうな画像かあれば、当然、自慢したい。これは人情なのだから、讀者諸嬢諸氏には諒とせられたい。

 そこで主従関係が問題になる。どの画像を主にするかではなく、画像とテキストの関係である。これは前述した"自慢したい" が画像にかかるか、どうかといふ点で決ると云つていい。そして画像にかかると、私にとつて厄介な話になる。
 画像を自慢したいと考へるとする。丸太の画像にそんなのがあるのか知らといふ疑問は、聲に出さないで頂きたい。稀にさう感じる場合だつてあるわけで、そんな時にテキストをどうするか。ここが悩ましいんである。

 どこそこに行きました。
 花が建物が美しかつた。

 どこそこに行きました。
 ごはんが美味しかつた。

 といふ説明書きはどうしても、避けたい。さういふのを画像で自慢したいのだもの。かと云つて全然無関係の話をするわけにもゆかない。腕の見せどころと考へる方向はあるだらうが、中々に六づかしい。
 もつと面倒なのはスナップに分類されるだらう画像か。かういふのはそもそもがテキストを拒む性質を色濃く持つてゐるから、説明書きに陥る心配は無い。ただ何を書けばいいのか。何も書かないのも方法だし、画像…寫眞の側からすると、それがおそらく最良だらうとも思へる。但し度胸が欠かせないけれど。

 度胸の持合せがない私としては、今のところ一行乃至二行を添へる方向で対処してゐるのだが、どうもこれが苦手なのだな、私は。
 散文ではない。
 詩ともちがふ。
 下手をすると中學生の秘密のノートブックに書かれる文言のやうになりかねず、私が中學生だつたら詩と云ひ張るかも知れないけれど、そんな形に纏まつてゐる筈もない、兎に角一種のとしか呼べない文章。

 ウーム。
 我ながら感心しないなあ。

 親切な讀者諸嬢諸氏にはもしかして、それなら散文詩を學べばいいんぢやあないか知ら、と云つて下さる方がゐるかも知れない。
 成る程、ご尤も。
 ただ私はどうも鈍いのだと思はれるが、散文詩に限らず、詩全般で感銘を受けた記憶が殆どないのです。例外はありますよ、勿論。たとへば『地名論』、或は『天景』、"ふらんすへ行きたしと思へど"や"太郎の屋根に雪降り積み"、韃靼海峡を渡るてふてふ、カツコわるいベートーベンとカツコよすぎるカラヤン。發句や和歌狂歌短歌からは挙げない(蜀山人くらゐは許されるか知ら)が、その程度で、矢張り例外と考へるのが妥当でせう。

 たれの言葉だつたか失念したから、そこは割り引いてもらふ必要があらうけれど
『詩は力を込めずして、あめつちを動かす魔法である』
といふ一節があつて、私は完全に説得されて仕舞つた。つけ加へれば、詩といふ魔法はきつと相手を撰ぶ。精確に受け容れるひと、紛ひもので満足するひと、それから私のやうに受け容れが六づかしい(にぶい)ひと。
 魔法を感ぜず理解も困難な人間が、画像にごく短い文章を添へる時、そこに胡散臭さがつき纏ふのはやむ事を得ない。尤もやむ事を得ないと思ふのは表向きなので、詩を理解…感得出來ない自分を眺め、しづかに歯軋りをしてゐるのが實態である。画像一枚で、かう悩ましくなるのは、果して大袈裟な態度だらうか。
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by vaxpops | 2016-04-30 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(4)

1866 餃子定食の悩み

 もしかすると麦酒のお供に一ばん似合ふ肴(本來の肴は"サカ・ナ"、別の字を宛てると"酒・菜"だから、詰りお酒のお供を指すのだが、まあいいでせう)は餃子なのではないかと、半ば本気で考へる時がある。ここで云ふ餃子は中國式のそれではなく、日本風の焼餃子なので、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、諒とせられよ。

 韮と大蒜がたつぷり入つてゐるやつを。
 辣油、醤油、酢、すりおろしの大蒜で。

 頬張つてやばい熱いと腹の底で呟きながら、大慌てで麦酒を呑む。舌咽喉胃ノ腑がなだらかに冷まされて、ひと息つくと、鼻孔の奥から大蒜の香りが立ち上つてくる。こんなにダイナミックで幸せな瞬間は他の肴だと味はへないもので、鶏の唐揚げが辛うじて續くくらゐではなからうか。

 ここで問題になるのが、餃子定食といふ存在である。餃子二人前(キヤベツ添へ)にごはん、お漬物または小鉢にソップが標準的な組合せかと思はれるが、私はどちらかと云ふと、批判的な立場である。何故か。

①餃子はあくまでも麦酒のお供であり、ごはんの友ではない、
②麦酒を呑む以上、ソップの扱ひどころが見当らなくなる。
③ごはん…食事が慾しくなれば、餃子とは別に註文をしたい。

 ざつと挙げると上の三点で、一応の筋は通つてゐるでせう。かういふ事なら私は、生眞面目に考へるのです。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏だつて、きつとさうでせう。
 念の為に云ふが、これは餃子を"麦酒の(もしかすると)最良の友"とする点からの見立てで、餃子を"ごはんに最も似つかはしい友"と考へる方には別の見立てがあるだらうし、私はそれを否定しない。うーむ、我ながら公正な態度だなあ。

 ところで先ほど私は、"どちらかと云ふと"批判的な立場だと書いた。讀者諸嬢諸氏の中にはひよつとして、どうも丸太はくちごもつてゐるぞとお感じの方がゐるやも知れない。すすどい。[いんちきばさら]は率直を旨としてゐるから、隠さず申し上げませう。

 汁かけごはんが好きなのです、私は。別に松平不昧公を気取るわけでない。お茶漬け、味噌汁かけは勿論、野菜炒めの残つたお汁や鯖の味噌煮の余つた味噌、煮物のおつゆ、さういつたのをごはんにかけ、或はまぶして食べるのが好きなのだ。だからその変形または亞流の卵かけごはんやカレーライスも大好物である。さらにその応用でもなからうが、お刺身を醤油につけて、それでちよんとごはんを叩いた後、その醤油の沁みたごはんを食べるのも好物なのだ。

 かう書けば賢察の必要もないと思ふが、餃子をたれにつけ、それでごはんをちよいと叩いて、たれ(とうまくすれば挽肉の欠片)で色のついたごはんを食べるのが、どうにも私には魅力的で、さういふ好みがあるから、餃子定食を一ぺんに否定し難いんである。然し定食式はお腹に大きすぎる。これは私個人の胃袋事情ではあるが、こんな時、他に勘案すべき事情があるものか。

 そこで餃子二人前に麦酒(大瓶またはジョッキを二はい)は譲れない基本として、餃子の残りが三つくらゐになる辺りで、半ライスをもらふ妥協案はどうだらう。これならごはんが少し余りさうでも、残つたたれをうち掛ける悦びまで愉しめるのだが、餃子定食に些か批判的な立場を取ると宣言した以上、具合が惡さうにも思はれる。悩ましい。まつたく、悩ましい。
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by vaxpops | 2016-04-29 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(4)

1865 気づいて仕舞つた

 本の話を讀むのは惡くない。
 特にこちらの知らない筆者が、こちらの知らない話題を書いた本を、舌舐めずりでもしさうに話してゐる場合は。

 多くのウェブログやサイトで、本の紹介がされてゐるのは、それだけ本に興味を持つひとがゐるだらうからで、だから本の話を讀みたければ不自由はしない…理窟の上では、少なくとも。
 理窟の上ではと云ふのは、大抵の場合、その本の話は(あまり)面白くなくて、さうなると紹介された本にも興味が持てなくなる。諸行無常とはこの事か。

 本の話をする…書くのは大きく云ふと書評と呼ばれる行為に属するのだが、私が目にするのは殆どが筋書きや登場人物の紹介と、字数に余裕があれば、著者の(ちよつとした)執筆上のゴシップが加はるくらゐで、興をそそられない事甚だしい。
 仮に何百歩か譲つて、そこを我慢したとしませう。然し書かれてゐるのが、"せつなくなる"とか"手に汗にぎる"といつた紋切り型…いや紋切り型を非難するのは誤りで、何故せつないのか、どこが手に汗をにぎるのか、さつぱり解らなければ、それは書かれてゐないのと同じだらう。かういふのを本の話と呼んでいいかと訊かれたら、私は静かに首を横に振る。だつて舌舐めずりを感じないもの。

 勘違ひされてはこまるから念を押すのだが、書評は褒める事ではなく、貶す事でもなく、批評である。批評は俯瞰と凝視と比較と位置づけで成り立つ。一冊の本の話、書評詰り批評をするとしたら、その背後には何十冊かの別の本があるのが当然の事のなんである。
 仮に谷崎潤一郎の『文章讀本』が題材だとすると、谷崎以降の主な同系列…三島由紀夫、丸谷才一、井上ひさしは最小限、讀んでゐなくては話にならないし、谷崎の他の文章に十分目を通すのは前提だし、かれが『文章讀本』を書かうとした時代の一般的な文章(とその背景)についてもひと通りは知つておくべきだらう。またこの本は賞讃されつつ批判されてゐて、その辺りにも目を通しておきたい。何より評者自身にはつきりした作文術(本に纏められる程度の)が必要となつて、最後のは些か特別な事情としても、あの薄い本を本気で話題の俎に乗せるには、さういふ"(膨大な)基礎知識"が欠かせない。
 何より大事なのは、『文章讀本』が褒める貶すとは無関係に、何日かの時間を掛けるのに相応しい一冊と見抜ける眼力と、それを精密な言葉に置換出來るたけの能力で、前者だけなら讀み巧者(それだけでも大したものなのだよ)、後者を兼ねて書評家であつて、さあ、それだけの筆者が何人ゐるか知ら。

 皮肉??
 さういふ一面も否定はしない。本筋の本好きは讀書が繋がるもので、さつき例に挙げた『文章讀本』であれこれと條件をつけてみたが、考へてみたら、数奇者なら身についてゐる筈だらう。であれば紋切り型や月並みを用ゐながら、その背景に持つものを我われ(詰り讀者)に示す事は、容易とは呼べないとしても、然し無理難題でもないと思はれる。
 かういふ事を考へ、また気づいても仕舞つたので、どうも今、私はこまつてゐる。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には既にご存知のとほり、浅学菲才の身ゆゑ、自分で挙げた條件を自分で満たすのは困難を通り越し不可能の域に達してゐる。本の話題を出すのに大きな躊躇ひを感じざるを得ず、實際暫く書いてゐないのには、さういふ事情が潜んでゐるんである。
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by vaxpops | 2016-04-28 06:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

1864 大事な問題

 朝めしは大事な問題である。

 今でも一般的な考へ方かどうかは知らないが、朝食をきちんと食べるのは、その日をきちんと過せるかどうかの鍵になるといふ話があつて、どこまで有意のデータに基づいてゐるのかは不問としても、説得力は感じるね。

 然し現實の自分を見ると、本当に説得力を感じてゐるのかと説教をされても頭を下げるだけのいい加減さで、大体はトーストに珈琲くらゐで済ませる。偶に湯漬を流し込む事もあるが、いい加減なのに変りはない。

 いひわけをすると、血圧の具合なのか、起きぬけはどうにも食慾がわかない。珈琲を啜りながら煙草を吹かすのが精一杯だから、慌ててトーストを囓るくらゐになつて仕舞ふ。起床の勅語から空腹を感じ、美味しく朝食をしたためられるひとの胃袋が羨ましい。

 ふむ詰り、丸太は朝めしにあくがれを感じてゐるのか知ら。
 然り。
 但し正確に云へばあくがれるのは、"朝食的な献立"である。

 ところで私は大坂方言でいふ"エエおツさん"なので、時に自分の死を考へる。死んだ後はまあいい。たれかが何とかするだらう。こちらにとつて重要なのは、死ぬ前の食事で、出來れば好きなものを食卓に並べたい。さういふ事を考へると、どうも朝食(的)な献立になりさうなのだ。

・炊きたてのごはん。

・お味噌汁(あはせ味噌。種は薄切りの玉葱と溶き卵)

・牛肉を甘辛く炊いたのを小皿で。

・焼魚(鮭、鯵、鰆、鯖。贅沢が許されるなら鯛)

・焼魚が無理なら鯖の味噌煮や鰤大根、鰯の生姜煮もいいし、両方ならもつと嬉しいだらう。

・お漬け物は野沢菜とたくわん(梅酢漬け)、白菜と胡瓜、梅干(果肉が柔らかくて酸つぱいの)をお鉢に入れて。

・赤身のお刺身に本ものの山葵。

・お豆腐(冷奴がいいが、時期によつては温奴や湯豆腐も宜しい)

・焼き厚揚げはたつぷりの鰹節と生姜と葱で。

・厚焼き玉子とたつぷりの大根おろし。

・おびいこ。

 ね。朝めしみたいでせう。
 かういふのをやつつけながら、麦酒(精々中瓶くらゐか)とお酒(上等なのを一合)、赤葡萄酒とチーズか生ハムを経て、最後に熱い玄米茶をゆつくり啜る。ちやんと"ごちそうさま"を云つて、それですべてを終へる。
 惡くないね。
 まつたくのところ。
 然しもつと望ましいのは、この"朝めしのやうな献立"を堪能した後、さて明日は何を食べ、何を呑まうかと思ひながら、蒲団にもぐりこむ瞬間の筈で、さう考へると、あつちに足を運ぶのは、今暫し遠慮したくなつてくる。
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by vaxpops | 2016-04-27 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(4)

1863 クロニクル

 丸谷才一の書評を集めた"快楽としての"全3冊(ちくま文庫)を讀み返してゐる。優れた讀者であり批評家でもある丸谷が書いてゐるのだから、書評が書評だけにとどまらず、學問や文藝全般、更に云へば、文明の批評になつてゐるのが實に面白い。賛意を示せる箇所があれば、さうでない箇所もあり、こちらの貧弱なおつむでは解りかねる箇所だつてあるのだが、それは小さな問題。さういふ全部を受け容れて面白いのだから。

 然しこの3冊には些か疑問があつて、いづれも作家順の並びが基本になつてゐる。"花やかな読書案内"(1冊目の帯につけられた惹句)の為には
『作家順にして、分りやすくしなくては』
と編輯者は考へたのだらうか。
 確かにその"分りやすさ"は嬉しくもあるのだが、さてそれが正しいかどうかと云へば、小さな疑問符をつけたくなつてくる。特にこの3冊はそれぞれの巻末に書名/著者別の索引を用意してゐるのだから(これは非常に有り難い配慮)、わざわざ作家順にするつよい理由が見当らない。私としては寧ろ、發表順にした方がよかつたのではないかと思ふ。

 小説家としての丸谷はまつたくのところ、寡作と云ふ他になく、たとへば"小説全集"を編むとしたら、分量で案配を取る方法もあるだらう。然し批評家としての丸谷は、色々な機会を得て、たつぶりと書いてゐる。また執筆の期間も長期に渡つてゐる。それらを發表または年代順に並べてもらひたいと云ふのは意味のない要望ではない。
 執筆期間が長ければ、その間で興味の変遷があり、考へ方の変遷もあり、またそれらの書き方にも変化があつた筈で、書かれた(公にされた)順にそれを讀む事は、筆者の変遷をの追体験に繋がるだらう。また前後の文章で空白(乃至変化)を感じた時には、その間に何があつたかを空想する愉しみがあり、また讀み了へて、一貫した部分を感じる事だつてあるだらう。

 書評歴は讀書の遍歴であり、それは優れた讀者であり批評家でもある作家の、云はば雄大なクロニクルである。丸谷に限つた話ではないが、書評集を編纂する時には、是非ともクロニクル的な順序を検討してもらひたい。勿論その場合、詳細な索引と書誌の情報("詳細な"は索引と書誌情報の両方にかかつてゐる)を忘れずに。
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by vaxpops | 2016-04-26 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

1862 孤独のウヂ

 少しややこしいところから話を始めなくてはならない。

 氏(ウヂ)と苗字のちがひである。
 今の日本ではウヂと苗字は同じものと扱はれるが、近世以前では区別される概念だつた。たとへば藤原はウヂであり、佐藤は苗字である。このちがひは何か。ごく大雑把に、ウヂは同族集団を指し、苗字はそれに属する家の私称だと考へればよい…と云つても掴み辛いと思ふので、ここは寧ろ近似値的な古代羅馬の人名を引き合ひに出さう。
 ガイウス・ユリウス・カエサル。寧ろ英語讀みでジュリアス・シーザーの方が馴染んでゐるひともゐるだらうが、それではあの英雄的な禿の女誑しに似つかはしくない響きだと思ふ。大シェイクスピアとあらう者が、どうして題を英語にして仕舞つたのか、不思議だなあ。
 そのガイウス・ユリウス・カエサルは意味を3つに分割出來る。即ち

①ガイウス:個人名
②ユリウス:氏族名
③カエサル:家門名

 で、これを文章風に書き直すと、"ユリウス一門に属するカエサル家のガイウス君"となる。些か強引な気配もあるけれど、そこに目を瞑ると、ユリウスがウヂでカエサルが苗字のやうな位置づけになると見立てていい。
 まつたくいんちきの家系伝だと私は平家の筋らしいので、これを上に倣つて古代羅馬式で表記すると、"花道・平・丸太…詰り平一門に属する丸太家の花道"となる。かうすれば何となく、さういふものかと思つてもらへるのではないでせうか。
 同族とはどんな概念か、と云ふのは更にややこしいところになる。ここでは深い関係のない点であるのを幸ひ、出身地や職能で祖先を同じうする(と考へられ、或は信じられてゐる)集団だ、くらゐにとどめておかう。さうやつて集まれば、互助的な活動も出來るし、他の集団と時に対抗し、時に合従し、生き延びる事も(期待)出來たらう。上代の政治は呪術と殺し合ひとほぼ同義だつたのを忘れてはいけないし、ウヂはさういふ流れで生れたと考へるのは、大きく云つて誤りではないとも思ふ。

 そのウヂは大きく、秦氏や蘇我氏といつた地名由来、物部氏や忌部氏のやうな職能由来のグループと、天皇家から下賜されたものに分けられる。我われがウヂと聞いて思ひ浮べるのはおそらく最後のグループで、ああ源平藤橘の事ねと頷かれる方もをられるでせう。そしてこのウヂを名乗る際は、後ろに"ノ"を入れるのが通例であつた。源ノ実朝、平ノ知盛、藤原ノ道長、橘ノ逸勢なんて感じですね。大伴ノ家持や山上ノ憶良も同じと考へていい。苗字の場合、この"ノ"はつかない。丸太花道はマルタハナミチで、丸太ノ花道にはならないといふ事だ。但しウヂを名乗るなら、平ノ花道ですね。残る生涯で使ふ見込みはないけれど。

 さてそろそろ閑文字の本題が近づいてきた。
 何の話かと云ふと秀吉なのです。さう、羽柴秀吉。或は豊臣秀吉。
 非常に魅力的な男ですね。晩年に發狂したとしか思へない醜態を晒した事を除けば、とつけ加へる必要はあるけれど、最初から最後まで詰らない男だつた三河の土豪の親分よりぐつと親しみを感じる。
 先日知人と(勿論一ぱい呑りながら)日本史の話をしてゐた。その知人が云ふには、あるドラマで天下人になつた秀吉に
「豊臣ノ秀吉である」
と云はせたのださうで、いはく、秀吉に正しい名乗りをさせたのはテレビジョンのドラマだと絶無ではなかつたか。
「ちよつと待つてくれ玉へ」と私はその絶賛をさへぎり「豊臣はウヂではないと思つてゐたのだが、ちがふのかね」
「いや豊臣は新たに下賜されたウヂだから、豊臣ノ秀吉が正しかつた筈だよ」
「さうだつたか知ら。平から藤原になつたのは知つてゐるけれど」
と私は首を傾げ(酔つてゐたからではありませんよ)、そんなら一ぺん調べてみませうと、そこで話は保留になつた。

 そこで調べてみると、驚きましたね。豊臣は歴としたウヂだつたんである。
 最初は平氏を自称し、その後近衛(藤原氏)の猶子…ナホ子ノ如シ…となつて、私はその藤原氏のまま、豊臣の苗字を名乗つた(詰り藤原ノ秀吉)と思つてゐたのだが、更に
『請フ藤原姓ヲ以テ豊臣姓ニ改メンコトヲ』
と願ひ出て、それが許されてゐる。豊臣ノ秀吉といふ名乗りは誤りではなかつた。
 尤も正面から信じていいかと云へば、話はちよつと異なつてくる。前例主義の朝廷からすると、尾張の田舎者の成り上がりに新しいウヂを許すのは随分と躊躇があつたに相違なく
「ここで許可の宣下を出さなければ、どう出てくるか解らない」
恐怖感に圧されたのは想像に難くない。ただ同時に、老獪な公卿連中の事だから、その成り上がり者が擦り寄る理由も察してゐたにちがひない。

 おそらく公卿連に一ばん都合が惡いのは、秀吉が源氏を称して征夷大将軍として幕府を開く事だつたらう。鎌倉と室町に幕府を開いたのはいづれも源氏だつた。天皇家と何か…摂政関白や征夷大将軍との二重政権は当時としても日本の政体の伝統的な形態だから、それ自体への抵抗はうすかつたらうが、自称源氏にその二重政権の一翼を担はせるとなると、気分も話も實際も異なるだらう。
 但し幕府を開くには、その家の子分…家ノ子郎党が欠かせず、さうでなければ、政権を作り、保たせる事が出來ない。子飼ひの大名を僅かに持つに過ぎなかつた秀吉にそれは無理難題と云ふ他になく、従來の権威を利用せざるを得なかつた事情がある。かれが近衛の猶子となつて藤原氏を称したのは、その権威の利用であり、公卿連が半ば厭々ながらも、それを認めたのは、さうする事で"天下人"を懐に取り込み、蕩けさせる目論見があつたのではないか。それがかなふなら
「ウヂを与へるくらゐ、何とか我慢出來る」
と擦れつからしの公卿が考へたとして、不思議は感じない。トヨトミノといふウヂはさういつた打算と圧迫と恐怖の妥協で生れたのではなからうか。と考へたのだが、史料を丹念に讀んだわけではなく、勝手な想像が大半を占めてゐるので、正しい…ある程度にしても…かは自信がない。我が親愛なる有學の讀者諸嬢諸氏に、適切な訂正をお願ひしたい。

 豊臣のウヂを得たかれは、たれかれなく、それを与へてゐる。中世的な氏長者を目指したのははつきり分るし、それはウヂ…詰り豊臣氏の勢力を中世的な権威(栄華を極めた藤原氏一門のやうに)で広げようとしてゐただらうとも想像出來る。尤もそれは砂上の楼閣のやうに儚かつた。トヨトミのウヂは、遂に孤独のままで幕を下ろしたわけで、私の誤解はどうも、そこに端を發してゐたらしい。

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by vaxpops | 2016-04-25 07:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

1861 再び蛍烏賊

 久しぶりに顔を出した小さな呑み屋に、蛍烏賊(干)とあつた。当然ながら、見逃すわけにはゆかない。

 これは人情といふものなのである。
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 大体が魚介を干したものはうまい。
 鯵然り。
 鯖然り。
 蛸は試した経験がないけれど、きつと旨いにちがひない。

 詰りは然し、保存食だらうと考へるひとがゐるかも知れず、確かにそれは半分がところは正しくもあるのだが、檀一雄が、ひとが棲む土地には必ずその土地の旨いものがあると喝破してゐるのを、我われは思ひ出さなくちやあなるまい。

 保存は確かにその土地の気候や収穫から必要とされる面がある。けれどそれは"まづくてもかまはない"のとは丸で異なつてゐる。
 限られた食べものを、長保ちさせて、うまく食べたい考へるのは、ひととして、寧ろ当然の気分てはなからうか。干し魚やお漬物がうまいのは、さういふ工夫が染み込んでゐるからなのか知ら。

 といふ事を呑みながら考へたのでは勿論、ありませんよ。熱燗とあはせて、中々にうまいものだつた。
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by vaxpops | 2016-04-24 07:30 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)

1860 海内無双

 尊敬する小説家兼批評家兼随筆家の丸谷才一先生は山形鶴岡の出身で、その辺りの名物が鰰なのだ。笈を負ふてからこつち、うまいうまいと云ひ續けた…詰り食べ續けたさうだから、少なくともその時期(丸谷先生は大正末年の生れだから、昭和前期になるだらうか)、東北の日本海側ではありふれた魚だつたのか。
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 えーと。
 鰰は"ハタハタ"と讀む。

 初めて食べたのは出羽料理だつたかを賣りにした呑み屋で、この時は焼いたのだつた。卵がたつぶり入つてゐて、兎に角旨かつた。そして嬉くもあつた。以前から鰰の名前は知つてゐて、丸谷随筆から影響を受けてゐたのは疑ふ余地がない。かういふ例は私の場合とても少なくて、後は神田の蕎麦屋と日本橋の洋食屋くらゐではなからうか。

 何かの本か資料で見た記憶だと、この鰰は今、漁獲が制限されてゐる筈で、これは制限される程度に数が減つてゐる證で、山形人が食べ尽したのだらうか。仮にさうだとして、東北以南の人間にあの魚は馴染みがうすいから、聲をあげるひとは多くないのか知ら。

 然し馴染みがうすいからといつて、鰰を目にして食べないのは勿体無い。鶴岡の随筆家が云ふには、淡泊でしつこい。更に云へば、頭尾を落としたやつを湯上げにして、大量の大根おろしを添へて十匹も二十匹も食べるのが旨いさうで、何しろ書いた本人の大好物なのだから、筆の滑らかさがちがふ。唾を飲み込みながら讀んだのは云ふまでもない。

 尤もさういふ食べ方なら、獲れたての新しいのに限られる筈で、これ計りは幾ら東都が日本中の食べものに囲まれた土地でも無理がある。だから画像のやうな干物(を焙つたの)を齧るくらゐしか出來ない。丸谷先生曰く、"海内無双の下魚"を味はふ機会に恵まれないのはまつたく無念な話。旬を見計らつて、これは鶴岡を目指さなくてはならないだらうか。
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by vaxpops | 2016-04-23 09:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(2)

1859 撰

 些か差し障りのある話題かも知れない。

 ここエキサイトに限らず、幾つかのウェブログを眺める…讀むと呼べるほどの長さを書かれる方は少ないので、ここでは眺めるにとどめておきたい…のが習慣になつてゐて、困惑する事もまた、半ば習慣になつてゐる。

 『困惑なんだつてさ』
 『失敬なひとだね、丸太つてのは』

 たから差し障りがありさうだと冒頭で述べてゐて、その辺の事情を少々ここで申し上げたい。さうさう。念の為に云ふが、特定のたれかに対してではないので、その点は了承を願ふ。

 ここまで念押しをすれば大丈夫だらう。話を始めますよ。といつてもややこしい事を云ふ積りは丸でなくて
『どうして似たやうな画像を、一ぺんにアップロードしたがるのか知ら』
といふ疑問である。いやたとへば手元に十枚の画像があるとして、それを纏めてアップロードしちやあいけないと云ふのではない。云ふのではないが、それが同じ花の画像だつたり、同じ建物の画像だつたりすると、首を傾げたくなる。

 『だつて綺麗でせう。あなたにも見てもらひたいのだもの』
大輪の花のやうな笑顔を見せるひともゐるだらうと思はれるが、また綺麗な花や建物を見るのは確かに気分のよいものでもあるのだが、ゆゑに云ひ辛くもあるのだが、そんなら自慢になる一枚を是非とも撰んでもらへまいか。

 撰ぶといふのは、手元のたとへば十枚から、最良の一枚を取り出す事であり、最良ではない九枚を切り捨てる事でもある。
 勇気の必要な行動ですね、これは。
 折角撮影した画像なのだ。見せたい…見てもらひたいと思ふのは人情で、その気持ちは私だつて察せない程度に野暮ではない。積りでゐる。
 然し。とここで云はざるを得ないのだが、それは撮影者、書き手の勝手な都合なのです。我われ(この場合は讀者の立場だね)に、さういふ事情の忖度を求められてもこまる。

 私の見るところ、この傾向は女性の書き手により強くありさうだと思ふ。發露がさうで、實際の心情は解らない。
 そしてこれも女性に強く見られると思ふのだが、デジタルカメラで撮影した画像を、たとへば焦点が狙ひから外れたとか、露光が思つたとほりになつてゐないとか、もつと曖昧に何となく気に入らないとか、そんな事情で直ぐに削除するのではないだらうか。

 彼女乃至かれはそこで考へるのだらう。不要な或は失敗した画像は予めすべて消してある。ゆゑに、残つた画像には少なくとも幾許かの価値はある筈で、それらをウェブログにアップロードするのは誤つた判断ではない、と。

 さうか知ら。

 私には誤つた判断だと思はれる。
 懸想文は書いて直ぐ出してはならない。翌朝に讀み返し、推敲をしてからにするべきだといふ箴言がありますね。あれはまつたく正しい態度であつて、その考へで見ると、撮つた寫眞をその場で消すのは如何なものだらうか。私はまつたく消さないと決めてゐるが、そこまででなくても、数日から十日くらゐは残しておいても、保存の容量が厳しくなる事もないでせう。
 それで後からのんびり眺める。さうしたら、撮つた瞬間には合格点を、或は落第点をつけた一枚が逆転する可能性だつて出てくるだらうし、さうしたら自分がアップロードする積りの画像が、更に撰り抜かれるにちがひない。うまくしたら別の機会に別の話題で使へるかも知れない。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、さういふ可能性を捨てるのは、勿体無い話だとお思ひになりませんか。
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by vaxpops | 2016-04-22 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(8)

1858 記号について

 ここで云ふ記号は、"!"や"?"を指す。色々なカツコもさうだし、"①"や"◼"の類もさうだし、厳密に云へば句讀点も含まれる。まあ句讀点は今の文章を書く上で必要なものだから(文字遣ひや改行を工夫すればどうにかならないでもないけれど、それは些か特殊な技法だと思ふ)、別枠と考へて差し支へないでせう。
 加へてパーソナル・コンピュータやスマートフォンだと顔文字も樂に使へて、これも一種の記号と呼べなくもないか。詰り現代日本の文章は文字と大量の記号で成り立つてゐると見ても、間違ひではなささうに思はれる。もしかすると、ウェブログのどこかで、文字を使はずに文章を作つてゐるのがあるかも知れない。一ぺん、見物してみたい気もしなくはないが、眺めたらうんざりするだらうね、きつと。

 ところで私はその記号を、幾種類かのカツコを別として、出來るだけ使はない事にしてゐる。きらひだからではない。では何故だらうと思ふと自分でもはつきりしないのだが、文章を書く事を覚えた頃に、その習慣が身につかなかつたのではなからうか。だから時折り、使はうとしても落ち着かない。

 いやもしかして、矢張り好きではない…でなければ苦手のかも知れないな。

 たとへば"!"を混ぜるとどうもそこだけ、あくがきつくなつたやうに感じられる。意図的に強調させるなら勿論それは、狙つた効果が得られてゐるのだからよしと思へるのだが、濫用すると唐辛子を撒き散らした鍋料理みたいになつて、これでは宜しくない。香辛料はほんのり効かせるのがこつなんである。

 それで考へると、"(笑)"とか"( ̄ー ̄)"をあしらふのは、一種の技能なのだらうか。亞種で箇条書きの一ばん下に、"←今ココ"なんてつけるひともゐて、度胸があるなあと思はされる。
 『度胸なんて大袈裟』
 『その方が、キモチを伝へ易いんだもの』
と笑はれるかも知れず、然し笑はれても当方の気分の問題なのだから、引き下げて納得するのは六づかしい。
 気分の話を續けると、文章は書き手(ここで云へば私)と讀者諸嬢諸氏(詰り貴女や貴方)で共有して初めて成り立つもので、いやこれは寫眞でも絵画でも音樂でも同じ筈だが、こちらが伝へ易いと思ふ技法でも、相手に伝はらない可能性はあるわけで、記号(の濫用)はその可能性が高いんではなからうか。
 たとへば文中に"( ̄^ ̄)"があるとして、それが何を意味してゐるか、直ぐに解るものか知ら。前後の文脈を理解する間に、何秒かが必要と思はれて、但しそれが正しいかどうかは、最後まで確信が持てない。気がする。然しこれが"えへん"だつたら、威張つてゐるか自慢してゐるかだなと、前後を見なくても解る。前後で話が変つてゐたら、咳払いで誤魔化してゐるなと解る。となると、キモチを伝へ易いといふのは書き手の勝手な都合と云へれても仕方ないでせう。

 古い感覚??

 さう笑ふのはご随意だが、文章は相手に伝はる書き方が何より正しい。書き手の都合を讀者が理解しなかつたとして、そこに文句をつけるのは筋が通らない。そのひとの文章を幾つか讀んで、書き方の癖を掴めれば解るかも知れないが、讀者にその義務は無いんである。だつたら最初から、些か古い、然し(おそらくは)大多数がすつと理解出來る書き方を撰ぶのが望ましからう。簡単に云へば、それが伝統なのだから。
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by vaxpops | 2016-04-21 07:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)