いんちきでさらにマクガフィン

by 丸太花道@乳軟部

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1899 花咲く玉葱

 数年前だつたか、大坂は梅田の独逸風ビヤホールで、デュベルを呑みながら。

 ソースをつけてもつけなくても、實にうまいものだつたが、何しろたつぷり多過ぎて、多分ふたつ以上の玉葱を使つてゐたのではないかと思ふ。
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 うまいうまいと云ひながら、量まで独逸にあはせなくてもいいのにな、と密かに考へてゐた。

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、玉葱の花には用心が必要である。

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by vaxpops | 2016-05-31 07:15 | 飲食百景 | Trackback | Comments(2)

1898 役目

 初めて坐るお店で、そこが期待出來るかどうかの目安になるのは、もしかするとつき出しではないかと思つてゐる。勿論チェーン店は例外で、期待も何もあつたものではない。その例外にも更に例外があるのは事實だけれど、そんなややこしい話はまあ、この稿ではどうだつてよい。

 独りで呑みに行く時、私は肴がうまくないと厭なので、通へる場所がある程度、限られる。それで酒精は樂しめるし、新しい店を探すのも面倒ではあるから、それで不便を感じる事は少ない。その気になつて足を運んで、混んでゐたり、定休日だつたりすると、はてどうするべきかと悩まされるのだが。
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 幸ひうまくもぐり込めた店で、画像のやうな小鉢が出された。ぱつと見、酢で和へた、春雨のサラド風かと思つたら、甘辛く炒めたもので、これが中々よろしかつた。生麦酒の小さいのを呑み、これをつまみながら、さて何を喰はうか、何を呑まうか考へると愉快な気分になれる。つき出しはかうでなくちやあ。
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by vaxpops | 2016-05-30 07:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(2)

1897 ハイネケンの矛盾

 家と仕事場の往復路に惡くない呑み屋があるのは、中々にこまつたものです。

 仮にひと驛でも電車に乗らねばならぬとしたら、それが我慢の種になるのですが、日常の路ですから、さういふわけにもゆきません。
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 詰り惡くない呑み屋が惡い事になつて、世の中は矛盾に満ちてゐるなあと思ふのです。
 尤もそれはそのお店でハイネケンを呑みながら考へてゐるのですから、これは二重の矛盾で、かういふのは論理の學問で何か呼び方があるものなのでせうか。
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by vaxpops | 2016-05-29 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)

1896 これで果して

 サカナ扁に弱いと書いて鰯である。
 群れになつてゐるから"弱"の字が当てられたといふ話を聞いた事があるけれど、本当か知ら。
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 まあそんな事はどうでもよくて、鰯は生でも焼いてもフライにしてもたたきにしても旨い。どこだつたか失念したけれど、鰯料理専門の呑み屋があつて、お酒は感心しなかつたけれど、どれもこれもえらくうまかつたのは忘れ難い。かういふのも矛盾だらうか。

 画像はあまり足は運ばないくせに気に入りのお店で出してもらつた、鰯の丸干し。
 頭から尻尾まで、 食べきつたのは云ふまでもないが、さてこんなに旨い魚が、果してヨワいものか、甚だ疑はしい。
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by vaxpops | 2016-05-28 07:30 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)

1895 あの日の立ち喰ひ

 東海道本線を各驛停車で下つてゐた時の、とある驛の片隅の、立ち喰ひ蕎麦。
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 富士の山が見えたかどうか、記憶からは抜け落ちてゐる。
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by vaxpops | 2016-05-27 07:30 | ニューナンブ | Trackback | Comments(4)

1894 任せた

 この何年かのデジタルカメラは、フヰルムカメラに馴染んでゐると、理解し難い高感度での撮影が出來る。
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 ISO100/400が当り前。
 ISO800のフヰルムが一般用に發賣された時には、そんなに"特殊な高感度"を、いつたれが使ふのだらうと不思議でならなかつた。
 それが今では、ちよいとカメラ任せにすると、平気でISO12800なんて感度で動作するから、これは特殊どころの話ではないよね。

 併しその特殊どころの話ではない超々高感度の画像も、時にこちらを面白がらせる結果になる(事がある)から、中々侮れない。

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by vaxpops | 2016-05-26 07:30 | ニューナンブ | Trackback | Comments(2)

1893 本気で一ぺん

 アグファ・ゲバルトといへば、些か印象は薄いが、獨逸の癖のある冩眞会社だつた。カメラの製造会社ではなく、感材もあつたから、冩眞会社と呼ぶんである。

 尤も"だつた"と書いた通り、今は無い。短い一時期、銘だけがトイカメラで使はれたが、それも消えて仕舞つた。フォクトレンダーのやうに、引取先に恵まれるのは例外なのだな。

 そのアグファ銘のトイカメラ(500万画素のデジタル)が手元にあつて、少なくとも2009年かそれ以前に入手した。6000円とか8000円とか、そんな値段だつた気がする。
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 画像のはオリジナルの姿ではなく、ハクバのグリップと(携帯電話用の)外附けレンズを引つつける為のリングを貼りつけてゐる。本体に添へられたケースに入るから、問題はない。

 使ふメディアはSDカードで、1GBのがあつたからはふり込んでゐる。5MPの玩具だし、乾電池(単4が2本)で動くわりに保ちが惡いから、保存容量でこまる事はないだらう。

 その電池の保ちの惡さが問題で、電源を切つても直ぐ困つた状態…詰り電池切れになるから、思ひ切れない。何とか一ぺん本気で使つて、トイカメラで(これだけ)撮れるんだぜと自慢したいと密かに考へ續けてゐる。
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by vaxpops | 2016-05-25 07:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)

1892 コメント藝

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の特にウェブログを書いてをられる方には些か申し訳ない気もしなくはないが、私はそれらにコメントをつける事を殆どしない。主義主張かあつて何がなんでもつけないわけではなく、事情を挙げるとすれば

①讀む(または眺める)だけで十分な場合。

②何かしら云ひたい事はあつても、その時点で文字にするのが六づかしい場合。

③何かしら云ひたい事があつて、それを自分の記事で色々と書きたくなる場合。

が表向きに出せるところだらうか。コメントは書き手に直接知らせる一種の批評だから、六づかしく感じるのを加へてもいいかも知れない。

 表向きがあるのだから裏の事情があるのは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の賢察を待つまでもないし、妙な具合の自惚れの發露でもあるのだが、私はこれでも文章を表藝と称してゐる。してゐる以上は自分で書く自分のウェブログだけでなく、コメントでも何とかしなくてはならない。と勝手に決めてゐる。そこに批評的な色を足すとなれば貴女、これは少々たいへんですよ。

 書かれた文章、撮られた画像をきちんと讀みまた見なくてはならない。
 その文章や画像が示す(だらう)ところを、汲み取らなくてはならない。
 その上で自分の藝風を踏まえつつ、コメントを書かなくてはならない。

 理想的な原則論を挙げると上になると思はれるのだが、これを厳密に守るとしたら、すりやあ貴女(と繰り返すが)、少々たいへんではないか。

 仮にあるウェブログで、巧妙な比喩があつたとする。併しその比喩が本題とは直接関係がなければ、そこに重きを置いたコメントは出來ない…し辛い事になる。或は文脈を判り易くさせる目的で固有名詞が出たとする。ただそれは文脈の都合の話だから、矢張りそこに重きは置き辛い。

 (括弧書きの形で云へば、さういふコメントを讀むと、困惑せざるを得ない。自分の藝は自分のウェブログで披露するのが本筋だよね)

 そんなややこしい事を考へるのが間違ひで、もつと気樂な態度で臨めばいいぢやないかと云はれたら、いやまあご尤もと頭を掻くしかないのだけれど、さういふ気分を捨てて仕舞ふと、[いんちきばさら]の書き手らしからぬ事になりさうな気がされる。どうにも具合が惡さうで、これもまた捻れた自惚れか知ら。自惚れだらうなあと思ひつつ、併し私は今日も、コメント藝は六づかしいと頭を抱へるんである。

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by vaxpops | 2016-05-24 20:45 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(4)

1891 しやあ、しやあ

 内田百閒は幼い頃、躰が弱く、"藥"と称して牛肉を食べさせられたといふ。連れて行かれた親戚の家で、牛脂が鍋で"しやあ、しやあ"と弾けたさうで、いいな、この擬音。煙と匂ひが鼻つ面を撫でまはしてゐるみたいだ。百閒が生れたの明治の岡山では、未だ四ツ脚への抵抗感、或は嫌惡感が残つてゐて、また實家が造り酒屋だつた事情がそれを助長してもゐたらしい。だから"藥"を摂つた後は、蜜柑を食べ、お酒で嗽までして、肉の匂ひを消した、と『御馳走帖』には書かれてゐる。この辺の描寫は實に面白くて、引き寫したくもあるのだが、さうすると丸々になりかねないから涙をのんで諦める。興味のある方はご一讀あれ。

 それに今回の閑文字は牛肉でも牛脂でもなく揚げものの話をしたいと思つてゐて、何故だか最初に浮んだのが"しやあ、しやあ"といふ美事な擬音だつたので、そこから始めたに過ぎない。百閒先生は渋い顔をするだらうなあ。

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にはおそらく揚げものと聞くと、日本風の天麩羅と洋風のフライを共に連想するのではなからうか。私も同じである。色々な定義づけはあるだらうが、この稿では揚げもの全般を
『(衣をつけた)(生の)素材を(高温の)油で揚げた』
料理だと仮に考へたい。素材が何で、衣がどんな具合で、何のソースで食べるかで様々のヴァリエイションとなつてゆく。とんかつ然り、ウィンナ・シュニッツェルまた然り。
 思ふに揚げるといふ調理法は人間の歴史の中で比較的新しいのではないか。大量の油と強い火力が欠かせず、それに沸かした油を一定の温度に保つ技術は可也り高度なものであらうから。どうしたつて、原始人…いや上代人や中世人が天麩羅で酒宴を満喫した姿の想像は六づかしいでせう。詰り揚げものは技術の洗練の證と考へられる。ちよいと大袈裟か知ら。

 そこで我が國の事情を思ひ返すと、矢張り天麩羅であつて、大きく云ふと薩摩揚げの系列と今でいふ天麩羅に分けられる。歴史的に見れば前者が古いらしく、茶屋四郎次郎が徳川家康に献じた鯛の"天麩羅"はどうやらこちらの方らしい。これは油の温度のちがひだらうか。薩摩揚げの場合は低めでよいさうだし(百四十度くらゐ。今の天麩羅は百六十度くらゐ)、元が練りものだから、ざつと熱が通れば問題にはならなかつたらう。少し日が経つても食べられる(かも知れない)し、南國では有効な調理法だつたらうな。もしかすると家康が食べたのは、元が傷んでゐたのかも知れない。
 その薩摩揚げが天麩羅のオーソドックスにならなかつたのはどんな事情があつてだらう。ひとつに考へられるのは、魚の加工技術か。魚を何種類か擂り身にして、適切な割合で混ぜて蒸すのだから、中々に複雑な過程を経るわけで、その綿密な工程を記した書物はおそらく無かつたと思はれるし、仮にあつても秘伝扱ひ…特殊な産業はそのまま経済に直結してゐたから…だつたのは十分想像出來る。但し"何かを油で揚げると旨い"のまでは隠せる筈もなく、あれを何とか喰ひたいと思つたひとと、あれで何とかひと儲けしたいと思つたひとが、詰り今の天麩羅の原形を作つたのではなからうか。

 以前にも触れてゐるが、出始めの天麩羅は随分と野暮つたい代物だつたらしい。衣がひどくぼつてりして、低い温度の油で揚げるから、べたべたしてゐて、どうも食べたいと思へないね、これでは。それに防火上の理由で屋台でしか賣れなかつた事情も重なれば、えらく格の低い食べものだつたと容易にわかる。夜店の屋台の焼そば程度の位置だつたんぢやあないか。現代の目から見ると、隔世の感とはこの事で、かういふ出世をしたのは天麩羅以外だとにぎり鮨くらゐだらう。野暮を粋にまで磨きたてる一点で、江戸の町人は大したものだつた。京大坂では無理な話だと思ふ。
 この野暮な天麩羅があつたのは後世の我われにとつてまことに幸ひだつた。詰り当時は御一新もしくは瓦解と呼ばれた(らしい)明治維新以降、日本に入つてきた西洋料理である。我が國での入手がきはめて六づかしかつた筈の、肉(そして乳)といふ新奇な(!)食べものをかれらはこのみ、焼くだけでなく、煎るだけでなく、蒸すだけでなく、揚げても食べた。その受け容れにこれまでの調理の技術が応用されたのは云ふまでもないとして、天麩羅が無ければ、或はごく未發達の状態だつたらどうなつてゐたらう。ビーフのカットレット(ごく初期のカットレットは牛肉が主だつた)をその辺りの學生や小父さんに食べさせるには、食べさせるだけの工夫が必要で、たとへば衣の厚さだつたり、油の種類だつたり、揚げ方そのものもさうだつた筈だ。天麩羅の調理法が大きなヒントになつたのは疑ふ事が出來ないし、それが西洋料理の日本化…即ち洋食の誕生に与つた一面を否定するのは余程の困難だらうと思はれる。

 西洋料理の日本化といふのは早い話、ビーフ・カットレットがポーク・カットレットになり、ポークカツを経て、とんかつになつた現象(些か乱暴に感じる方もゐるだらうが、早い話だからやむ事を得ない)で、おそらくその過程の中、天麩羅化も進んだものと思ふ。海老、牡蠣、帆立貝などの今ではフライものと呼ばれる一群を私は指してゐる。ことに牡蠣をフライにするなんて、西洋人の發想にあるのか知ら。
 ここから余談。佛國人にシャブリとあはせて宮城や広島の牡蠣フライを供したらどんな顔つきになるかを想像するのは、意地の惡いまたは趣味の惡い興味だらうね。序でながらシャブリに生牡蠣の組合せを無闇に有難がるひととさういふひとを無闇に非難するひとがゐるが、どちらも誤つた態度である。佛國人が旨いと云ふから旨いのだと思ふのは愚かしいのは勿論だけれど、佛國で佛國産の生牡蠣と組合せるなら旨い可能性は十二分にある。そこを無視して非難するのも賢明な態度とは呼べない。佛國人がそれを愛するのはそれが旨いからで、我われは美味の感覚に簡要でなくちやあならない。余談はここまで。
 日本化天麩羅化したフライもので、上には書かなかつたが、實は鯵フライが一ばん好きなのだ。私は。赤白を問はず葡萄酒の出る幕はないが、この際さういふ些事には目を瞑る。鯵がどうしたつてうまい魚なのは改めるまでもなく、お刺身でもたたきでもなめろうでも塩焼でも干物でもよく、姿造りの骨でお吸物を用意してもらふのもまた宜しい。鯵自体をどんな風に食べるのが好もしいかと云へば、たたきかなめろうだと思ふのだが、この場合は矢張りお酒でないと締らない。ところがフライになると、いきなり麦酒の友、酎ハイの相棒といふ立場に変る。変つて仕舞ふ。何もつけなくていいのは当然だが、タルタル・ソース(刻んだうで玉子入り)やウスター・ソースだけでなく、醤油で塩で檸檬で辛子で、時にカレーのルーでうまくつて、この立場の変遷に匹敵するのはフーシェくらゐぢやあないか。尤もあの佛國人警察官僚の"いけしやあしやあ"では、我が百閒少年が鼻をひくつかせた"しやあ、しやあ"の足元にも及ばないけれど。
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by vaxpops | 2016-05-24 07:45 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

1890 ざらん

薄暗い部屋で、壁に手を映し、無理に撮る。
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ざらんとするは、壁か我が手か、光か影か。

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by vaxpops | 2016-05-23 07:15 | 画像一葉 | Trackback | Comments(0)