いんちきで、さらにマクガフィンだつた。

by 丸太花道@乳軟部

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お八つ

 普段はあまいものを食べない。
 好ききらひではなく習慣の話。
 何故食べない習慣なのかと訊かれても、習慣だからで御坐るよとしか応へられなくて、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にだつて、さういふ習慣のひとつやふたつ、あるでせう、さうにちがひないよ。
 だから断乎として食べないのだといふ堅い決意を持つてゐるわけでなく、何の切つ掛けか判らないが不意にちよつと食べたくなることがあるもので、あれは一体どんな事情なのだらうね。

 口さみしいくらゐの時ならチョコレイト。
 本格である必要は丸でなく、その辺のマーケットで投げ賣りされてゐる廉価なミルク・チョコレイト(明治や森永)でいい。少し贅沢してアーモンド入り(でん六)のやつもいい。今時の若い讀者諸嬢諸氏には想像が六づかしからうが、私が少年だつた頃のアーモンド入りチョコレイトは中々贅沢なお八つだつたのだよ。
 シュークリームも贅沢だつたなあ。
 シュー・ア・ラ・クレームなどいふ気取つたのではなくシュークリーム。少年の私にとつてシュークリームといへばヒロタだつた。カスタード・クリームのごくありふれたやつ。エクレアとシューアイス(バニラのアイスクリーム入り)はもう一段格が上、生クリーム入りなんて想像が出來なかつたものです。

 成る程。そもそも甘いものを食べる機会が少なかつたのだな、私には。
 年寄りがゐた所為なのだらうか。
 そんなら和菓子…羊羮や蜜豆やお汁粉や大福餅が登場しなかつたのが不思議である。単に祖父母が好まなかつたのか、奢侈品と思ひ込んでゐたのか、今となつては明らかでない。

 併し何事につけ例外はあるもので、私の場合は三笠がそれだつた。東京で云ふ銅鑼焼。
 チョコレイトよりシュークリームより遥かに身近だつた甘いものはこれで、カステラ(これはおそろしく贅沢なおやつ)を連想させる生地がつぶ餡の甘みをうまく抑へてゐたのが美味しく思はれた。かう書くと少年丸太はしぶい趣味だつたと誤解されさうだが、なに實際はお菓子の甘さに馴れそびれてゐただけの話さ。
 その馴れそびれの例外が三笠乃至銅鑼焼であつて、その例外が偶さか甘いものを慾する時に表に出る。尤もこれまでの積み重ねが非常に貧弱だから、どこの小豆とどんな砂糖で、どんな風に作つてゐるのかはまつたく無頓着。その辺を塩梅宜しく作つた三笠または銅鑼焼は旨いだらうなと想像は出來る。
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 だとするとお茶もしやんとした葉を用意し、丁寧に淹れるのが望ましからうと連想が働いて、何となく面倒になる。なので近所のマーケットでの特賣品(2個98円)を買つて、粉末珈琲で誤魔化すところに落ち着いて仕舞ふ。かういふ無精は感心しないなあとは思ふが、これはこれでお八つには惡くない。舌の出來がその程度なのを喜ばしく考へていいかどうか、疑問はまあ残るけれども。

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by vaxpops | 2017-05-08 12:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(3)

識ス

 ふと思ひたつて、『断腸亭日乗』(岩波文庫/磯田光一による摘録)を讀み返してゐるのです。日乗は日記の意。著したのは云ふまでもなく荷風永井壮吉。日記を著すとするのは不適当の謗りを受けるかも知れないが(アンネ・フランクは日記をつけただけで著したわけではないものね)、断腸亭に限つては著すとしても誤りになりさうにない。まさかと思ひますか。だつたら最初の何頁かを捲つてみればよい。我われがぼんやりと考へる日記とは丸でちがふと直ちに判るでせう。

 どこがどうちがふのかと云へば、後年に刊行されることを明らかに理解してゐるからで、不特定多数の讀者を意識した書き方になつてゐる。刊行を望んでゐたかどうかまでは窺ふべくもないが、さうなるだらうと予測はしてゐたのだらう。自負と呼ぶべきか、意識過剰と云ふべきか。そこはさておいて、讀み物としては十分以上に面白い。讀み物だから、人物評や諸々のやり取りの正確性は割り引かなくちやあいけないけれど、随筆の変種だと思へば大した問題でもないか。

 『興味津ゝ小説を讀むが如し(大正13年3月21日)』

 と云ふのがぴつたりくる。この前年9月朔日は関東大震災の当日。この日の荷風は地震の後、山形ホテルで昼餉と夕餉をしたため、愛宕山にのぼり"市中の火を観望す"と書いてある。4日には絶縁状態の弟の妻と初めて顔を合せ、不快がつてもゐる。火災や強盗の話は絶無で、僅かに外出の際の糞尿の臭気が堪へ難いと記す程度。詰り私たちが知識として持つてゐる凄惨な實状にはまつたく無関心…少なくとも文面の上では…であつて、偏奇館主人の姿が浮ぶやうだ。

 怪しからん爺さんだと非難することも出來なくはなからうが、仮にその非難が聞こえたとして、荷風は馬耳東風で済ませるだらうなあ。1ヶ月過ぎた10月3日に江戸見阪から町を眺め、"自業自得天罰覿面といふべきのみ"と切り捨てるくらゐだもの。この偏窟者は現代…断腸亭の時間で云へば大正の末期から昭和中期…の日本を厭ふこと甚だしかつたから、帝都のひとつやふたつ潰れたところで、どうといふこともなかつたにちがひない。

 ここで大事なのは荷風山人の倫理性(非倫理的だつたといふ意味ではない。かれは欧米の文明にあくがれ續けたひとだつたが、それは時間…伝統に裏打ちされた在り方に対してで、本來の志向と嗜好は前時代即ち江戸にあつたし、明治前期生れの壮吉少年に江戸風の躾…倫理観…が影響を与へたらうことは許される想像かと思ふ)でなく、後に不特定多数に讀まれるだらうと判りつつ、非難されるやも知れない箇所を打ち捨ててゐる方ではなからうか。

 いい度胸だなあ、まつたく。

 もうひとつ。世間を慨嘆し、兄弟親族を罵り、新聞記者と軍隊をきらひ抜いた老人が、清廉で正直な自分といふ仮装にも丸で興味を示してゐない点もいい度胸と云つておかうか。怪しげな私娼窟に出入りし、私妓を連れて晩餐をしたため、ことに及ぶ夜(流石に書かれてはゐないが、ある研究によると、原本には丸印のつけられた日があつて、前後の状況からさういふ日と推測されるのださうな)もあつたらうが、露惡が趣味かと疑ひたくなる記述も中にはある。この態度を豪いものだと思つていいのか、疑問は残るとして。

 ところで私も手帖を使つてゐる。日記とまでは呼べないにしても、ちまちまと書きつけはしてゐて、併しかういふことは中々記し辛い。蒸し暑くて参らされたとか、雨で足元が不快だつたとか、その程度の文句が精々で、實名を挙げながらの罵倒だつたり、廉恥が店の女を褒めたりするのは躊躇はれる。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏だつてさうではなからうか。

 ここで落ち着いて考へれば、躊躇する理由が見当らない…たれかに覗き見られなければ、だが、手帖なら余程阿房な眞似をしない限り、その心配はせずに済む。自分が死んだ後までは知つた話でないし。そんならあの躊躇ひは何だらうと首を傾げ、あれは何年か後、それも2~3年くらゐ先の自分に対する羞恥心ではないかと思ひあたつた。これくらゐの云はば近未來は、今の自分と地續きである。その地續きの自分が羞恥を感じるのではないかといふ想像への躊躇。

 有り得るね、これは。
 有り得るよ、きつと。

 手元に残る一ばん古い手帖は20年余り前のもので、見直して恥づかしさを感じたりはしない。現在の自分との連續性がない…が大袈裟なら、きはめて薄くなつてゐるので、莫迦げたことが書いてあつても、(都合のよいことに)他人事のやうに思へるのだ。20有余年前の自分に無責任になつてゐると見立ててよく、これは忘却と並ぶ時の効能と呼べる気がする。

 待てよ。だとすればたつた今使つてゐる手帖に下らない、或は人目を憚ることを書きつけたとして、20年を過ぎれば何の事もない別人の所行といふ場所に遷るのではありますまいか。20年後なら私は死んでゐるし、今の紙とインキならぼろぼろになつてゐる筈だから、もの数奇が解讀を試みたとしても何が何だか解らないにちがひない。仮に讀めたとして、当人が巷間からおさらばしてゐると思へば、恥を気に病むこともなからう。何より荷風老人が日乗で描いた帝都の姿(中でも空襲で焼け出されるくだりは百閒先生の"焼盡"と並んで讀み飛ばすわけにはゆかない)は、"小説を讀むが如"き興味に溢れてゐるから値うちがある。丸太の手帖と較べる態度自体、烏滸の沙汰であつたな。

 ここまで考へてやうやく、罵倒でも褒め言葉でも恋慕でも劣情でも、書き留めてかまふまいと安心した。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の閑潰しに興せないのは多少の心苦しさを感じなくもないが、そこは当面、この[いんちきばさら]で辛抱して頂きたい。かう思ふのもまた、烏滸の沙汰かも知れないけれども。
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by vaxpops | 2017-05-07 18:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

丹念で且つ執拗な

 明治頃の小説をぱらぱら讀むと、着物の描冩が細やかなのに驚かされることがある。生地がどうで色や柄がかうでと、舌なめずりでもしてゐさうな感じがされなくもない。
 現代の小説ではどうだらう。私は偏りが烈しいから、あてにはならないけれど、丸谷才一くらゐしか思ひ浮ばない。あのエロチックな話題を好む小説家は、巨細を尽してスカートの襞の具合やブラウスの色めを描いてゐた。好色の最も文學的な顕れだらうと思ふ。エロチックな描冩ならポルノ小説ではないかと反論するひとがゐるかも知れないが、あれはただ扇情的なだけでエロチックとは位置づけが異なる。

 何故だらうと思ふに、着物の描冩はある登場人物の社会的な地位や性格、心象を示す恰好の小道具だつたからではないか(遡ると流行の発信元といふ役割…冩眞で見せる方法が有り得なかつた時代…もあつたらうが、流石に近代の小説にはその気配はない)現代の小説はさういふ暗示的な小道具を必要としなくなつてゐるのだらう。その変遷がいつ頃だつたのか、疑問が浮ぶけれど、それはこの稿の話題でない。社会史の分析が重要な意外と面倒さうな研究になりさうなので、熱心な研究者の發表を待つとしませう。

 私が気になるのは衣裳に限らず濃やかな…いつそ執拗と呼びたくなる描冩の手法自体で、たとへば土地の情景もその対象のひとつ。司馬遼太郎描く『坂の上の雲』の旅順要塞攻略戰では、これが重要な扱ひでもあつた。最近讀み返した中で云ふと『リヴィエラを撃て』で描かれたアルスターやロンドンの情景の息苦しさは髙村薫の本領を見る思ひだつた。この息苦しい感覚が物語に欠かせない要素なのは云ふまでもない。濃密な描冩を必要とするのは、花やかな情景だけとは限らない好例であらうか。

 そこで気になるのを進めると、さて飲食でさういふ描冩があるだらうか…手法として採用出來るのだらうか、と疑問に繋がる。
 最初に浮ぶのは池波正太郎で、かれの描冩は實に旨さうだと考へる方もゐるだらうが、またそれを否定するのは無理があるのでもあるが、あの小説家が巧緻は、描冩の濃やかさより、食卓の風景を一筆で描きながら、こちらの食慾をむやみに刺戟する筆法で、こちらの想像への働きかけが巧いのだと考へる方がよろしからう。
 旨さうな本といへば檀一雄を忘れてはならないか。一体かれには何度迷惑を蒙つただらう。が、思ひ出しても濃厚、巧緻、緻密な描冩は浮んでこない。料る歓び食べる愉しみの胃袋への染み込み方は上等のお酒を凌ぐのに、その書き方は関西風のお吸物のやうに穏やかである。驚嘆に値する文章の藝と讚辞を捧げねばなるまい。
 飲食にまつはる優れた文章家は少ないけれど、それでも吉田健一、辰巳浜子、湯木貞一、北大路魯山人、邱永漢くらゐの名前は私程度でも出てくる。併しいづれにも"お吸物のやうな"淡泊さは共通してゐて、まあ魯山人の厭みは好もしくないとしても、矢張りサヴァラン教授の書く"スプンが立つほどに濃厚なソップのやうな"感覚からは離れてゐる。良し惡しではなく、我が邦の文學が持つ伝統なのか知ら。

 さうなると"濃厚なソップ"を思はせる飲食の描冩は成り立たないのだらうかと更に疑問が深まるのは人情の筈で、かういふ例は記憶にない。ガルカンチュワ的な献立の一覧なら『御馳走帖』で内田百閒が書いてゐるのだが(これもまた旨さうで實に迷惑する)、たとへばひと皿のカレーライスの、ごはんの調子、ルーの色あひに粘り具合、牛肉や人参や玉葱(もしかすると丸まつちい素揚げの馬鈴薯)の浮びまた沈む様、或は刺戟的な香辛料のかをり、隅を密やかに彩る福神漬に艶やかな辣韮を銀いろの匙ですくひ、舌と鼻と喉で存分に味はひ、氷をたつぷり入れた清涼なお水で流す悦びを、濃やかに丹念に執拗に描いた文章。
 ステイクでもいい。温められたお皿に乗せられたレヤーの牛肉。グレイヴィ・ソースの色と艶。大蒜の香り。隠元豆や人参の鮮やかな緑と赤。馬鈴薯の湯気。赤身と脂身の取合せ。こつてりした葡萄酒の暮色の海のやうな漣。清冽なナイフとホークが肉を断ち、馬鈴薯を崩す。頑丈な歯と顎が噛み砕き擂り潰し、飲み込んで胃の腑まで落ちる一部始終。
 いやステイクに限らず、同じ手法はとんかつでも天麩羅饂飩でもざる蕎麦でもおでんでも海苔弁当でも成り立つ筈で、にも関らず見掛ける機会に恵まれないのは、その必然性が認められてゐないからなのか知ら。何をどう食べまた呑むかはそのひとを衣裳以上に際立たせると思ふのだが。それとも全篇が食事の丹念且つ執拗な描冩に満ちた、私の知らない小説があるのだらうか。一ぺん是非に讀んでみたい。
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by vaxpops | 2017-05-05 10:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

御説御尤も

 買つたはいいが、どう扱へばいいかよく判らなかつたもののひとつに、鯖の水煮鑵がある。
 よく判らなかつた理由は味の想像が出來なかつたからで、そんならいつちよ、食べてみればいいぢやあないかと指摘されれば、御説御尤もと頭を下げる他にない。併し買つた以上、鯖なのだからまづい道理はないし、そもそ手元に鑵詰があるのだから食べなくてはならない。

 それでざつと調べてみると、簡便で旨さうな食べ方があるもので、中でも

『お皿にあけ、大根おろしを添へて、青葱を散らして醤油を垂らす』

には微苦笑を浮べざるを得なかつた。確かにうまいだらうけれど、胸を張つて書くことでもなささうな気がする。もうひとつ微苦笑の例を挙げると

『小鍋に移し、味噌仕立てで煮く』

といふのがあつて、鯖の味噌煮鑵とどこがちがふのか知ら。梅干しのひとつもはふり込んで、演出をするのだらうか。

 うーむ、役に立つのか立たないのか、判断が六づかしいなあと思ひながら鑵をじつくり眺めると
『おいしい召し上り方』
とか称して、鯖の水煮をトマトでソップ仕立てにすると書いてあつた。

 ほほう。

 ここで思ひ出したのは、鶏肉の麦酒煮で、骨付きの股肉だつたかを塩胡椒で焼いた後、トマトのピューレと麦酒で煮た(水は使はない)だけのものだが、あれは旨かつた。鯖の水煮でも応用出來るのではないかと思つた。

 併しうまく仕上るかどうか自信が持てないのにトマト・ピューレを買ふのは勿体無いと、せせこましく考へて、取敢ず冷蔵庫にある濃縮出汁で何とかしようと方向を決めた。

 近くのマーケットで玉葱2個が60円(見切品)だつたのでそれを買つて、ひとつを大ぶりに切つて小鍋に敷き、そこに鯖の水煮鑵をあけた。
 更にもうひとつの玉葱を小さめに切つて上から被せた。鑵詰の汁だけでは足りなささうだつたから水を加へ、抑へ気味の火を入れながら、塩胡椒を振り、濃縮出汁は少なめ。鯖の匂ひが立ちさうに思へたので、チューブ入りの生姜を念の為。

 煮きあがりは實に無愛想。だが味は惡くない。鑵詰なのだから調味がまづい筈はなく、加へた分も同じ程度に効果的だつたか。尤も欣喜雀躍の美味にはほど遠い。まつたくのところ適当に煮ただけなのだから、当り前である。

 先づ玉葱のソップを用意した方がよかつた。味つけは塩と胡椒。薄味のたつぷり目。
 色みを考へると矢張り、トマトや青葱は欲しかつたし、味を広げるのを含めば茸を加へるのも方法だつたか。
 鯖鑵を入れるのはその後で、味の全体は醤油でも生姜でも大蒜でも使つて、控へ目に調へる。

 これならお皿に盛るだけで、それなりに見える(期待がある)し、柑橘の皮をへいで散らすか、梅肉を叩いたのを添へれば、半人前よりは多少ましなひと皿になりさうな気がする。ただかういふ手間は、たれかに食べてもらはうとする時に掛けたくなるものだからなあ。

 かう書くと、いやいやと訂正が求められるだらうか。たれかに食べてもらはうとするなら、そもそも鯖の水煮鑵は使はないでせう、と。云はれてみればその通りで、御説御尤もと再び頭を下げなくてはならない。
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by vaxpops | 2017-05-03 13:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(3)

譬喩として

 バイブルをbibleと綴つた場合、その意味は本。確かラテン語だつたか。綴りの頭を大文字にしたBibleだと、基督教の聖書を指す。転じて宗教的な意味の有無を問はず、極めて重要な本の譬喩にもなつてゐますね。かういつた喩へ、基督教猶太教イスラム教圏内でも成り立つのか知ら。
 思ふにバイブルが"きはめて重要な本"のたとへになるのは、一冊だからではなからうか。厳密に云へば、Bibleにも正典とそれ以外があるし、突き詰めてゆくと色々ややこしくなるのだが、印象としては同意してもらへさうな気がする。生眞面目な信徒に呆れられる不安は残るとして。

 その辺はいいか。Bibleの研究と話題は眞面目な學者にお任せして(それはそれで讀んでみたい)、この稿で話題にしたいのは、教典…詰り大文字のBibleではなく、そこから派生した譬喩の方。簡単に云へば好きな、より正確に云ふと飛びきり好きな本で、これを私は
 ≪残りの人生を託すに足る5冊の本≫
と呼んでゐる。恰好いいなあ。但し私の独創ではない。『神の火』(髙村薫/新潮文庫)に、主人公が≪5冊の本≫を撰ばくてはならない時期にきたのを悟るくだりがあつて、非常に印象深かつたんである。さういへば髙村の小説にはどこかに基督教とホモ・セクシュアルの匂ひがあるなあ。

 余談は兎も角。

『文章讀本』
 (丸谷才一/中公文庫)

『阿房列車』
 (内田百閒/旺文社文庫)

『檀流クッキング』
 (檀一雄/中公文庫ビブリオ)

『私の食物誌』
 (吉田健一/中公文庫ビブリオ)

『ヨーロッパ退屈日記』
 (伊丹十三/文春文庫)

 私の残り少ない≪人生を託すに足る5冊≫はこれである。他にも好きな本があるのは勿論で、小説なら『私本 源氏物語』(田辺聖子/文春文庫)『女ざかり』(丸谷才一/文春文庫)、『ドバラダ門』(山下洋輔/新潮文庫)、『幻の女』(ウイリアム・アイリッシュ/稲葉明雄 訳/ハヤカワ文庫)、『初秋』(ロバート・B・パーカー/菊池光 訳/ハヤカワ文庫)、他にも『断腸亭日乗』(永井荷風/岩波文庫)、『御馳走帖』(内田百閒/中公文庫)…要は色々と好きな本がある中で、上の5冊が譬喩としてのBibleの格を得てゐると受けとつて頂きたい。
 何度も讀み返してゐる。当り前の話か。再讀三讀に耐へない本に残りの人生を託せる筈がない。面白く飽きず、その積りはないのに、考へさせられ、気づかされる。[いんちきばさら]にこの5冊の筆者の名前が度々登場するのは、さういふ事情であつて、 我ながら影響が判り易い。

 文章それ自体。
 呑み喰ひ。
 旅…移動。
 役に立ちさうもない蘊蓄。

 5冊に共通する興味はこの辺りか。それらが私の嗜好と一致するのは念を押すまでもなく、いやもしかしてこの5冊が私の嗜好を決めてゐるのかも知れない。何しろ(譬喩としての)Bibleだもの。それくらゐの力があつても不思議ではないさ。
 併し見直して妙だなと思ふのは小説が含まれてゐない点で、『阿房列車』には随筆と短篇小説を兼ねてゐる風味はあるが、我らが百閒先生にさういふ狙ひがあつたかどうか。あのひとの藝風は複雑だから何とも云ひ難いとして、小説らしい小説がない("小説らしい小説"とは何ぞやといふ疑問はさておく)のは何故だらう。

 小説がきらひなのではない。
 撰外の例に挙げた本の中にもあるくらゐだからそれは確實である。
 それに私の讀書の事始め(自分から讀み出したといふ程度の意味である)は小説だつた。
 ロフティングの"ドリトル先生"だつたか、ミルンの"プーさん"だつたか、スウィフトの"ガリヴァー"だつたか(作者はいづれも英國に関りがあるひとだね。英文學との縁はこれつきりだけれど)(序でに云へば私が讀んだのはすべて岩波書店版。翻訳は順に井伏鱒二と石井桃子と中野好夫が健筆をふるつてゐと思ふ)はつきりしないが、物語が最初にあつたのは明らかだし、今だつて事情は変らない。私は文學の分野に格づけをしない方なので、単純に惹かれる力のちがひなのか知ら。

 そこで小説に限つた5冊が撰べるのかといふ疑問が浮ぶ。なに、ご存知のとほり、私の讀書量なんて大したものではないから、それほどの困難でもなからう。
 先づ司馬遼太郎の『国盗り物語』を挙げませうか。それから上にも挙げたが『ドバラダ門』も避け難い。池波正太郎は『雲霧仁左衛門』を。
 探偵小説からはクィーンの『Yの悲劇』か、クリスティ女史の『アクロイド殺害事件』(出版社によつて、"アクロイド殺人事件"だつたり"アクロイド殺し"だつたりするのだが、ここは"殺害事件"でなくてはならない)、或は基本中の基本とでも呼んでいいドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』も見過ごせない。
 ライアルの『深夜プラスワン』、ヒギンズの『鷲は舞い降りた』はどちらも菊池光の訳が素晴らしくひと晩を費やして悔ひのない良作である。
 小説と呼べるかどうかは、大きに疑義を認めるとして、『イーリアス』と『オデュッセイア』といふ大叙事詩だつて、再讀三讀どころか、生涯讀み返して飽きる心配はないだらう。
 これで10冊。ホーメロス以外は予想通り、ひどい偏りを示してゐるね。異論はあらうが、それは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、ご自身の5冊を撰んでもらひたい。上の10冊から『国盗り物語』、『雲霧仁左衛門』、『アクロイド殺害事件』、『深夜プラスワン』、『イーリアス』に絞り込むとしませう。

 さて。この小説版の5冊…暫定的なものですよ、念の為…を、私の≪人生の残りを託すに足る5冊≫と入れ替へられるか、どうか。

 暫く自問してみたが、自答は否だつた。

 5冊の小説が詰らない筈はない。嘘だと思ふなら、どれでもいいから1冊を讀んでみ玉へ。丸太だつてたまには誤りのない話をするものだと納得してもらへるだらう。
 併し入れ替へには到らない。敢て云へば『イーリアス』が非常に悩ましいのだが、譬喩としてのBibleには何か、或はどこかが及ばないのだな。ひどく抽象的になるのはご容赦頂くとして、どうもその何かまたはどこかは、私の骨や血への溶け具合のやうに感じられる。讀みこんだかどうかも要因のひとつにはちがひない。ちがひないがもつと大きな事情として、血肉へのなり易さがあるのではないか。根拠や確証があつて云ふのではないけれど、そんな気がされる。詰り≪残りの人生を託せる5冊≫には、託さうと決めたひとの何事かが透けるのではないかと思はれて、さうなると私の5冊から何が透けてくるものか。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏のすすどい分析をこれは待たなくてはなるまい。
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by vaxpops | 2017-05-02 16:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(4)
 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には以前からお気づきだらうが、直接触れた記憶がないので、この稿で改めて書く。
 思はせぶりは苦手だからさつさと云ふと、カタカナ言葉を出來るだけ使はないのが、この[いんちきばさら]の基本的な考へ方…方針といふこと。カタカナ言葉を頭から拒む積りはないけれど、日本語で記せるならそつちを優先すると云ひかへてもいい。

 ひとつには好みが理由。どうも文章にカタカナ言葉を挿れると、そこだけ惡く浮いた感じ…妙なわざとらしさとでも呼べばいいだらうか…がされる。それは丸太のあしらひが下手なのだよと笑はれさうでもあるが、まあ。
 もうひとつは實利的な方向で、視認性の問題である。ちよつとこれでは解り辛いか知ら…では、あるカタカナ言葉を目にした時、その意味がすつと頭に入りにくい、と書けばどうだらう。たとへばコンセンススを得てからフィックスさせるなんて書かれて、直ぐに解るものかね。合意を得て決定させると書く方が余程にすつきりする。判らない方がをかしいと考へるのは誤り。文章は理解されるのが目的なのだもの。

 勿論カタカナ言葉で示さざるを得ないものがあるのも事實。その例外は殊に単語に多く、パーソナル・コンピュータ辺りを代表にしておきませうか。かういふのを日本語に置換するのも出來なくはなからうが、似非の臭ひが立つてくるから、それ自体を藝にしない限り、手を出さないのが賢明な態度だらうね。

 かうは書いたけれど、私だつてカタカナ言葉を用ゐることはありますよ。それはその方がいいと判断したからで、何故さう判断するかと云へば

 ①カタカナ言葉を浮すことで、その部分を強調したい場合
 ②日本語では意味するところが明瞭になりすぎるので、カタカナ言葉で曖昧にしたい場合

のふたつに分けられる。カタカナで記さざるを得ない単語は別として、さういふ意図がなければ日本語を使ふ。書く方が書き易いのは当然だし、讀む方だつて讀み易いにちがひない。

 ここで予想出來るのは
『日本語の基幹部には漢語があるぢやあないか。英語を主にするカタカナ言葉が入つたつて何の不都合もないよ』
といふ反論で、かういふことを眞顔で云ふひとがゐるんだから、世の中は不思議に満ちてゐる。

 漢語が和語と共に日本語の底流を成してゐるのは改めるまでもない筈で、その上に乗つかつてきた外國語と同列にするのが間違ひだと、これだけでもはつきりしてゐる。仮に英語が加はるとしたらさあ、あと何年くらゐ必要か知ら。五十年百年程度の短期間でないのは確實でせう。
 併し今あるカタカナ言葉を今から書く文章に用ゐて支障があるのかと、更に反論が續く可能性もあるね。あるが先づそのカタカナ言葉が讀む側にどれだけ伝はるか、詰りそのカタカナ言葉が我われの中にどの程度根づいてゐるかといふ問題がある。入れ替り立ち替るカタカナ言葉の群れで、幾つくらゐが該当するか、甚だ心許ない。

 それに文章の目的は伝へる点にある。言葉の撰び方がその大切な要素なのは想像力を働かせるまでもなく、コンセンススでフィックスと同意から決定のどつちが伝はり易い書き方か、比較するまでもなからう。
 当り前の話。
 伝はり易い言葉の背中には、伝はり易くなるまでの時間が貼りついてゐるもので、この時間は代用がきかない。そして伝はり易い言葉にはそれを十分に使ひこなしたお手本がたくさんあるのもまた当然で、今出來ではどうしたつて無理なところなんである。大きく纏めれば歴史的、伝統的、保守的である方が文章の腰が据はるといふこと。少なくとも私はさう信じてゐて、誤つた態度ではないとも信じてゐる。尤もそれで書く文章の出來がどうなのかは別の問題。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも、その辺りはひとつ、あれといふことで。
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by vaxpops | 2017-05-01 17:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)