いんちきでさらにマクガフィン

by 丸太花道@乳軟部

番外 地震の日(3)

 輪番停電と云ひ、計画停電とも云ふ。

 要するに「特定の地域を幾つかに分割し、順番に、意図的に」停電をさせませう、と云ふ事で、福島県の原子力発電所に事故が起つた為の非常措置。

 原子力発電所と云ふ施設について、わたくし個人は消極的に反対の立場なのだが、その点については今、触れない。

 さう云ふ事実があつて、対応が必要であると。
 その結果として、計画的に停電を実施すると。
 さう理解しておけばよいと思ふ。

 それは、いい。
 たかが数時間程度の停電である、非日常を味はへると思へば、何と云ふ事も無からう。
 かまはない。

 と思つてゐたら、わたくしが棲み、また主にうろちよろする新宿区と中野区はそもそも、その"計画的且つ意図的な停電"の範囲に含まれてゐないから驚いた。
 然も國鐵私鉄地下鐵はおそろしく混乱してゐて…運休やダイヤグラムの激変…それが奇妙に思はれてならなかつた。

 不便を忍ぶのに否やはない。
 東京電力の対応も極めつけに混乱してゐたが、前例の無い対応を強ひられてゐるのだから、この点もやむ事を得ないとする。

 が、どうにも釈然としない。

 ヒステリックになつてゐるのぢやないか。

 東京電力の"計画的且つ意図的な停電"は、途中まで実施が見送られた。
 これはそれ以前…詰り計画停電を実施する予定であるとの発表まへから、無名の市民が既に対応を始めてゐたからでもある筈で、さう云つた云はば沈黙の善意(ささやかとは云はせない)がある以上、供給側の東京電力は、最惡の事態を想定すべきだから、計画停電を実施出来る状態は整へなくてはならないとしても、國鐵西武東武小田急京王京急東京モノレイル多摩モノレイル都営地下鐵東京メトロが
 「すりやあ大変だ、運休さして間引き運転にして」
 と騒ぎ立てるのには、どこか"ちがふ"と感じざるを得ないし、たとへば23区内のマーケットやコンヴィニエンス・ストアで無意味と思はれる買ひ物をする人にも同じ事を感じて仕舞ふ。

 小さな不便…現地のそれに較べたら、鐵道が少々混乱したり、一時的に電気の供給が止まるのは、実に些細な事である筈だ…をわたくしは厭はないし、それはきつと、全ての人びとに同じだらう。
 ヒステリックであつてはいけないんだよ、我われは。
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# by vaxpops | 2011-03-14 18:00 | Trackback | Comments(0)

番外 地震の日(2)

 外は晴れてゐる。

 津波の恐れは低くなつたらしいが、余震は続いてゐる。

 何と云ふか、呆然としてゐる。

 阪神淡路の震災があつた時、わたくしは大坂にゐて、神戸の惨状に呆然としてゐたが、あの1995年と同じやうに、呆然としてゐる。

 関東近郊に棲む友人知人は無事だつた。
 多くの方々が被災されてゐるのは頭の中で理解出来てゐるものの、(妙な云ひ方だが)手触りのある人びとに被害が無かつたと云ふ事実が…エゴイズムの発露かも知れないけれど…わたくしを安心さして呉れてゐる。

 きつと心配や不安にも限度があるのだらう。
 我われは偉大な宗教者ではないのだから。

 だけれど、わたくしがわたくしの友人を思ふやうに、あなた方はあなた方の友人を思ふでせう。
 わたくしがわたくしの友人に手を差し出せるやうに、あなた方はあなた方の友人へ手を差し伸べるでせう。

 さう云ふ手がたくさん集まれば、たくさんの手がたくさんの人びとに届くにちがひない。
 ひとの善意を我われよ、信じませう。
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# by vaxpops | 2011-03-13 09:30 | Trackback | Comments(0)

番外 地震の日

 東京も揺れた。

 ぐらりときて、ゆるゆると続いた。

 交通が麻痺し、余震が続いた、続いてゐる。

 数時間掛けて帰宅し、それから親と友人に連絡を取つた。

 阪神の震災以来、怖いと思つた。

 靴下を履き、厚着をして、晴れた空を見てゐる。

 皆、無事であつてもらひたい。
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# by vaxpops | 2011-03-12 12:30 | Trackback | Comments(0)

11016-0026 本を買ふ

 慾しい本が、あつたのです。
 ある友人に、これあ面白いぜ、と薦めてもらつた一冊。
 散らちら眺めたところ、確かに面白さうな匂ひがした。
 「これは、買はなくちや」
 と思つたのはいいが、薦めてもらつたのが酒席なのがまづかつた。
 呑みながらこれは後日と思つた事どもは、可能な限りその場でメモを取る事を意識してはゐるのだが、この時はそれも忘れてゐた。
 いや忘れてゐたと云ふのは今だから使へる云ひ訳で、その場では覚へる自信があつたのだ、うん、確かにあつた。

 が、忘れた。

 記憶に残つてゐるのは、岩波文庫だつた事と、おそらく茶人が書いただらうと云ふ事。それから藤吉と書かれてゐた事。
 藤吉とは云ふまでも無く藤吉郎、詰り秀吉ですね。
 仮にも天下人の名をふるい名乗りで書き付けてゐるのだから、おそらく日本史的に云ふ織豊期の頃に書かれたにちがひなく、さう云ふ乱暴(たとへ日記的な書き方だつたとしても)が許されるのは、利休かそのごく近しいお茶にかかはるひとの筆になるものにちがひありません。
 が、さう云ふ推測は出来るものの、肝心の題名が、我ながらすつぱりと記憶から抜け落ちて仕舞つてゐては、如何ともし難い。
 なーに、書店の本棚を眺めたら、ぢきに思ひ出すさ。
 と高を括つて本屋を覗いてみても、まつたく記憶が刺激されない。
 (おそらく)茶人の本だから、岩波文庫の黄色か青だらうと見当は付くのですが、だいたい岩波の本は買切りだから、扱つてゐるお店が少ない事情もあつた。
 メモが無理なら、携帯電話のデジタルカメラ機能を使ふべきだつた…と頭を抱へても遅い。

 古人曰く、後悔先ニ立タズ、とはこんな時に使ふのですな。

 万策尽き果てたわたくしは、やむ事を得ず、その本を教へて呉れた友人に
 「貴君あれア、何と云ふ本だつたか知ら」
 と伺ひを立て、やうやく(然し実情はあつさり)正解を得た。
 実に悔しい。
 教はつた事実に、と云ふより、自分の記憶力に敗北を喫した気がされてならないが、読みたい本であるところは動かない。
 買つた。
 "自分で見つけた"感が少ないので、その点は大いに残念ではあるけれど、そこに拘泥するのは本に対して好もしい態度とは呼べないだらう。
 たれの、何と云ふ本であつたかは、読み終へてから、改めて記す事と致しませう。
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# by vaxpops | 2011-03-02 21:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)
 35㎜カメラの標準レンズは50㎜と云ふ事になつてゐる。何故50㎜なのかについては、色々の説があるらしいけれど、大抵は詰らないところに落ちるのではないかと思ふ。真面目な考證にたづさはるひとは兎も角、我われのやうな素人は、諸説を伝説に祭り上げて愉しんでおけば宜しい。

 わたくしの酔つ払ひ仲間であり、撮影仲間でもある頴娃君は35㎜レンズを主に使つてゐる。常用と云ふか愛用と云ふか。かれの撮影はスナップが主体だから
 「35㎜でぐわと掴むのがいいのだよ貴君」
と云ひたいところだらう。尤もかれが実際さう考へてゐるのかは解らない。わたくしは35㎜の余りなナチュラルさを持余すところがあるので、その画角を使ひこなす頴娃君を尊敬してゐる。本人を目のまへにしては口に出来ないけれど。
 35㎜レンズの余りなナチュラルさ、とわたくしは書いた。もう少し言葉をつけ加へるとそれは、漠然と眺めてゐる視線と云つてよい。50㎜になるとそこに見てゐる意識が伴ふ。序でながら75㎜を過ぎて、100㎜辺りまでは注視してゐる感覚。中望遠は行き過ぎとしても、わたくしの好みはこちらに近い。良し悪しの話ではなく、好みの違ひだと云ふ事は、強調はしておかうか。

 50㎜と35㎜のどちらを"自分の標準レンズ"とする(べき)かは、難問だと思ふ。使ひ古された云ひ方になるが、それは
 「世界と自分との距離」
の基準点になるからだ。書いてゐるわたくしも気障な云ひ草だと云ふのは承知してゐる。してはゐるんだが、どうも事実であるらしいからやむ事を得ない。気障を重ねると
 「世界から半歩退く35㎜」
 「世界へ半歩踏み出す50㎜」
のいづれを撰ぶかのそれは相違で、この抽象的な比喩を莫迦にしてはいけない。前述の頴娃君は35㎜の感覚で世界を捉へるのに馴れ切つてゐるから
 「50㎜の画角だと狭すぎるのだよ貴君」
と直接口にするのを聞いた事は無いが、きつとさう考へてゐるに決つてゐる。かれはナニナニと云ふ被写体ではなく、ナニナニと云ふ被写体がある情景を撮るから、50㎜では狭すぎる考へるのが、寧ろ当然なんである。わたくしの場合、ナニナニな被写体があれば、近寄つて撮るのを好む。ゆゑに画角は狭い側にシフトしてゐた方が使ひ易い。世界へ更に一歩、踏み込むやうに。
 にも関はらず…さう云ふ好みなら一眼レフとマクロ・レンズの組合せが最良の筈なのに、わたくしが今、一ばん気に入つてゐるのは、キヤノンPに35/2.8ジュピターなんである。因みにジュピターの最短撮影距離は1m…これでは丸で世界から二歩三歩、距離を置かうとしてゐるやうぢやないか。

 それではいけない。
 いやキヤノンPと35/2.8ジュピターの組合せは見た目も使ひ勝手も頗る宜しいのではあるが、ここまで50㎜贔屓の流れで、使ひ勝手が頗る宜しいから、かまはないのだと纏めたら
 「すりやあ幾ら何でも感心出来ない態度だよ貴君」
と頴娃君に窘められて仕舞ふだらう。それは困る。矢張り50㎜レンズを入手しなくてはなるまい、と云ふのが実は本題なんです。
 キヤノンPはライカ式ねぢマウントを採用してゐる。"ライカ式"なのだから先づ最初に考へるべきはライツのレンズで、ライツの50㎜なら掃いて捨てるくらゐのヴァリエイションがありさうに思はれるのだが、実際に調べてみると、驚くほどにその種類は少ない。アルファベータ社の『ライカポケットブック 日本語版』(デニス・レーニ/訳・田中長徳)…手元にあるのは1999年発行の初版…に寄り掛ると、ライツのねぢ式50㎜レンズは

 50/3.5 ヱルマー
 50/2.5 ヘクトール
 50/2  ズマール
 50/2  ズミター
 50/1.5 ズマリット
 50/2  ズミクロン

のわづか6種類しかない。50/1.4ズミルクス及び50/2.8ヱルマーの、M-バヨネット時代に出されたレトロスペクティヴ趣味の2本と、テイラー・ホブソン・パテントの50/1.5キセノン、ウォーレンサックの50/3.5ヴェロスティグマートと云ふイレギュラーを加へても10種類。1931年のライカIcから1963年の同Igまで…詰りねぢ式ライカが"現行品"だつた期間…の33年間で、この数は如何にも少ないと云はなくてはなるまい。当時の光学製品が"最新のテクノロジ"の結晶だつた事を思ふと、たとへ設計や製造に現在より多くの時間が必要だつたとしても、またライツが"新製品"に対して慎重乃至臆病な態度を取るのが伝統的だつたとしても、奇異の念を禁じ得ない。
 勿論それぞれのレンズに細々した相違…ニッケルやクロム、ブラック・ペイントと云つた"見た目"の違ひだつたり、コーティングだつたり、ズマールやズミクロンのやうに沈胴・固定鏡胴だつたり…はある。また思ひ出したがライツは、実質的に別のレンズを同じ銘柄で市場に出す事に抵抗を感じなかつた会社でもあるから(M-バヨネット・マウントの50/2ズミクロンが好例)たとへば50/3.5ヱルマーの中に事実上、別のレンズと看做せるものがあるのかも知れないが、そんな事は生真面目で時間を持余すライカ研究家に任せたい。

 問題は上述の6または10種類の50㎜レンズに、キヤノンPに似合ふのがあるか否かと云ふ点で、この中で撰ぶとすれば、50/1.5ズマリット(及びその原型となつた50/1.5キセノン)くらゐではないか。キヤノンPは(ライカ式ねぢマウント・カメラとしては)些か大振りであるから、特に沈胴式のレンズでは大きさが不釣合なのだ。このカメラは序でに云ふとストラップの取付位置が惡く、小型軽量のレンズでは肩からぶら下げた際、レンズが上を向いて仕舞ふ欠点…いや弱点…ぢやない難点を持つ事情もある。
 尤もキセノンは最小絞り値がF9であつて、絞り込んで撮影する…常用がF5.6~F11辺り…癖のあるわたくしには使ひ辛い。さうなるとライツ・レンズではズマリットが事実上、唯一の撰択肢と云つてよいのだが、ズマリットの評判は非常に微妙である。いはく、癖玉。いはく、本来のコンディションを保つてゐる個体が少ない。但ししやんとした個体であればF5.6を境に愉しめる…らしい。詰り多少なりと博打の要素が含まれてゐる事になる。ズマリットはライツ・レンズの中で比較的、廉価に属する1本の筈だが、その比較は他のライツ・レンズが対象で、他社のそれと比較すると割高感は否めない。

 ではキヤノン・ボディなのだから、キヤノン・レンズにすればどうだらう。今でこそキヤノン・レンズはEFと云ふ味も素気も無い名まへになつてゐるが、大昔はセレナー銘であつた。おそらく月に因むネイミングだらう。随分とハイカラですな。これに較べたらペンタックスのタクマー(琢磨)やオリムパスのズイコー(瑞光)、ミノルタのロッコール(六甲)と云つた日本語もぢりはどうにも野暮つたい。日本のレンズ銘でセレナー並のハイカラさを発揮したのは、六桜社の"六"に因んだコニカのヘキサノン、ヘキサーくらゐぢやないか知ら。キヤノンがこの銘を使はなくなつた事をわたくしは惜しむ。
 えーと、話が逸れました。セレナー銘には当然50㎜もある。あつた。鏡胴のかつちりした感じは好もしいが、慾しい…ぢやなかつた、付けたいとは思へない。理由があつてではなく、何となく。キヤノンにキヤノンを付けるのが、気に喰はないのかも知れないが、ここら辺りの何となくは、何となくのままにしておく方がよい。敢て云へば、セレナー銘のレンズはIV型以前のキヤノンでなくちや、収まりが惡い気がされる。M-バヨネット式ライカにヱルマー銘が似合はないのと、事情は近しいと思ふ。
 ズマリットに躊躇ひを感じ、セレナーは何となく気に喰はないとわたくしは云ふ。ぢやあどうする積りなのかね貴君は、と頴娃君のみならず、たれもがさう思はれるだらう。安心してもらひたい。ちやんと意中のレンズはある。
 ニッコールである。
 正式な呼び方は知らないが、ニコンもライカ式ねぢマウントのレンズを出してゐて、そのニッコールを狙つてゐる。セレナーに較べてレンズ銘は劣るけれど、見た目は恰好良いし、ズマリットよりも値段はこなれてゐる。確か真鍮製の可也り重いレンズだつた筈で、これならボディのストラップ取付位置の問題に有効でもあるだらう。モダーンなキヤノンに古風なニッコールは、もしかすると不釣合ひに映るかも知れないが、これは日本のカメラ史上、トラッドな組合せでもある。些細な点には目を瞑るのが、矢張り望まれる態度ではないだらうか。尤もひと口にニッコール50㎜と云つても、数多くの種類がある。細かなヴァリエイションの違ひを含めるとそれは、前述のズミクロンやヱルマー程ではないとしても多岐に渡つてゐると思はれるから、1本を撰ぶには苦労させられるのではないかと思はれる。

 標準レンズの問題は、まだまだ解決しない。
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# by vaxpops | 2011-02-28 21:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

11014-0024 湯漬け

 『国盗り物語』(司馬遼太郎)の後半は織田信長が主人公で、率直に云ふと余り面白くない。齋藤道三を主役に据ゑた前半が出色の出来である事を思ふと、これはもう、道三入道と尾張のうつけの魅力のちがひと云はざるを得ない。
 司馬はわたくしの好きな小説家なのだが、幾つかの小さな不満もないわけではない。中でも一ばんの不満は、飲食…ここはオンジキと読んでもらひたい…に対して極めて冷淡な点で、『竜馬がゆく』でも『坂の上の雲』でも『翔ぶが如く』でも『燃えよ剣』でもそれは変はらない。どうもあの作家は日常の"食べる"と云ふ行為に無頓着な傾向だつたらしい。全国各地世界各国を歩いた『街道を行く』ですら、土地土地の名産に舌鼓を打ち、地酒に目を輝かす記述が無いのだから、どれだけ擁護の論陣を張つても司馬が呑み喰ひに積極的な関心を抱いてゐたとは云へないと思ふ。
 然し呑み喰ひに冷淡な司馬であるから、たまさか文中にそれがあしらはれると、ひどく強い印象を受ける。たとへば『坂の上の雲』での煎り豆(秋山真之が好んだ)がそのひとつ。もうひとつが『国盗り物語』で信長が掻き込んだ湯漬けである。有態に云ふが、どちらも"旨さう"な描写ではない。これはもう司馬の一面なので、ファンであつても諦めねばならないだらう。

 然しだね。湯漬けと云ふのは決して、"旨さうではない"食べ物ではない。流石にそのままではちつと寂しいけれど、そこに付込む余地がある。お漬物だの佃煮だの梅干だのを用意して、ぞろりと掻き込む。白身の焼魚(庶民的を決め込むなら鯵、豪奢を気取るなら鯛)の身を毟つてもよく、酒盗や塩辛なぞがあれば、なほしめたもので、ここに到ると、簡便なのか豪華なのか解らなくなるところがまた宜しい。
 何となく、だけれども貧乏くさくつていけない…と云はれては困る。笹の葉に飯を洗つて乗せのを献じたお供の者を、『源氏(物語)にちなんでゐる』と褒美を取らせた高貴の方がをられた逸話があるくらゐで…原典が何だつたか、手元に無いのが惜しまれる…文學的にも歴史的にも湯漬けは伝統ある米の味はひ方なのだ、と申し上げてもよからう。
 さう云ふ(無駄な)知識…気分を背景に持つと、一わんの湯漬けに向かふ気概も異なつてくる。たとへば大勝負(デイトだらうが遊びだらうがはたまた仕事だらうが)のまへ、湯漬けをぐわと掻き込むのは、出陣を控へた尾張の天才児と同じではありませんか。なに、下天ノ内ニクラブレバと踊らなくても、さう云ふ"気分"に浸れるわけで、ここは強調に価する点ではないか。司馬がそんな"効能"まで意識してゐたか、と云ふと、疑問を抱かざるを得ないけれど。
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# by vaxpops | 2011-02-22 21:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)

11013-0023 レモンハイ

 酎ハイレモンやレモンサワーとも呼ばれるが、ここではレモンハイに統一しておく。焼酎とハイボールからの造語が更に変化したんだらうと思ふが、厳密に…堅苦しく云へば、ハイボールはヰスキィのソーダ割を指すから、言葉の構造はをかしい。実に下層社会的な安直さと云つてよく、わたくしのやうな下層社会に属するものには、その安直さが好もしい。

 焼酎の呑み方で一ばん望ましいのは、お湯割に梅干を入れる、だと思ふ。
 梅干を崩しながら呑るわけで、これなら熱すぎるコップが手に持てるくらゐになるまで、手持ち無沙汰にならないし、崩しては呑み、呑んでは崩しだから、少し計りは呑む速度に歯止めを掛ける事も出来なくはない。だらうと思はれる。
 尤もかるがると焼酎のお湯割を呑まして呉れるお店はあつても、梅干を用意して呉れるかまでは判らないし、大体"お湯割・梅干入り"は癖のきつい…いや有態に云へば、安ものの焼酎だから旨いので、愛らしい女性と一緒の酒席ではお奨め出来かねる。

 上等の焼酎は生のままか氷を落とすくらゐでよく、さう云ふ機会に恵まれたのなら、肴は薩摩式にするのが良い。泡盛には琉球式の肴が良く、ウォトカには露西亜式の肴が良いのと同じ理くつだ。薩摩美人が隣にゐるとなほ嬉しいが、この際贅沢は云ふまい。それにわたくしが呑むのは安ものだし、本稿はレモンハイについて無駄に熱く語るのが目的なので、本ものの焼酎については、詳しいどなたかにお任せしておく。

 改めて云ふまでも無く、レモンハイは下賎な呑みもので、いや、見下してゐるのではない。お小遣ひが厳しいけれど、どうしても一ぱい呑らなければ気がすまない夜に、これ程似つかはしい呑みものもまあ、中々見当らないでせう。
 この場合の肴は、枝豆とかもつの煮込み、ほつけの塩焼辺りの、安くつて、ちまちま食べられるものがいい。貧なるかな、と笑ふのはすぢ違ひで、かう云つた組合せが旨いんである。だからたとへばソースをたつぷりつけた串揚げや甘辛たれの串焼きももよく、辛子を忍ばせた鯵フライやハムカツなんぞもまた似合ふだらう。熱くて濃い味付けの肴を頬張つて、レモンハイで口の中を洗ふ。実に理に適ふ流れではあるまいか。
 たまにわたくしは…"たまに"と強調するところに、どうにもならぬ見栄が潜んでゐる…この"レモンハイと愉快な仲間たち"を愉しむのだが、安上がりで嬉しくなる。尤もこれは元から安上がりな呑み屋での話だから、愛らしい女性(さう、貴女の事ですよ)と一緒に愉しんだ事は無い。
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# by vaxpops | 2011-02-20 19:30 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)

11012-0022 汽笛一声新橋ヲ

『阿房列車』
内田百閒・旺文社文庫

 いちいち説明を付けるのが、これ程莫迦らしく思はれる本も無い。
 そんな真似をするくらゐなら、寧ろ冒頭の三行を丸々引用する方が余程、気が利いてゐる。

『阿房と云ふのは、人の思はくに調子を合はせてさう云ふだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考へてはゐない。用事がなければどこへも行つてはいけないと云ふわけではない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ。』

 一文目から二文目への呼吸を、文章の藝と呼ぶのに異論は出ないだらう。

 我が百閒先生には"大阪から帰る"以外に用事がないのだから、取り立てて書くべき事があるわけでもない。上述で始まる大阪行は三十一頁に渡るのだけれど、汽車が東京駅を出発するのは二十一頁目も半ばを過ぎてからで、読んでゐる方は気が気ではない。大体"何にも用事がな"く一等車に乗りたいだけで、お金を借りてもゐるのだから、そんな事で大丈夫ですかと気を遣ひたくもなり、然しその辺の心配は要らない理くつもちやんと書かれてゐて、けれども中々汽車に乗らないから矢張り、やきもきさせられて仕舞ふ。
 自分が同道者だつたら、困らされるだらうな。
 同行のヒマラヤ山系氏は、困らなかつただらうか。
 困らなかつた筈はないと思ふのだが、先生が阿房列車を走らせる際には必ず向かひの(或は隣の)席に坐つてゐたところを見ると、困りながら愉しんでゐたのかも知れない。当時の氏にこつそり聞いてみたい気もしなくないが、きつと百閒先生の筆が描くところの曖昧な口調で、はあ、と云ふだけに違ひないだらう。
 無用の旅は無用であるから、無理に云へば一等車に乗る…と云ふか、一等車の切符を買つてコムパアトに潜り込んで発車のベルを聞けば後は帰るだけでよく、考へてみたら実に贅沢な話。一等車も國鐵も無くなつた今、かう云ふ贅沢を真似するのは不可能になつた。J.R.では気分がちがふ。
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# by vaxpops | 2011-02-19 22:00 | 読書一冊 | Trackback | Comments(0)

11011-0021 大衆のP

 今の目から見ると奇妙を感じざるを得ないのだが、キヤノンと云ふ会社は比較的遅くまで、距離計式のカメラを出してゐた。一ばん最後に出た7sが1966年…昭和41年で、その5年後にキヤノンの距離計式カメラは終了する。距離計式ニコンの最終機となつたS4は1956(昭和31)年発売で、一眼レフキヤノンのビッグ・ヒット、AE-1は1976(昭和51)年発売と云ふ事を思ふと、意外なくらゐに長く、キヤノンは距離計式カメラに固執してゐたと云つていい。EOSの発売に伴ひ、FDマウントをばつさり斬り捨てた事を併せて考へると、何か事情があつたのかと勘繰りたくもなつてくる。

 距離計式キヤノンは一部の例外を除くと、初代からVIまでは羅馬式の型番、7及び7sだけが亜剌比亜式の型番が付けられてゐる。その例外はV型の派生機種…有態に云ふと廉価版の流れであるL1、L2及びL3がひとつ。もうひとつがキヤノンPで、このPはPopulaireの頭文字に相当する。キヤノンミュージアム( http://web.canon.jp/Camera-muse/camera/film/data/1956-1965/1959_p.html?p=1 )でもさう書かれてゐるから間違ひ無い。
 1959(昭和34)年発売で、50㎜F1.4レンズ付が5万2700円。50㎜F2.8付だと3万7700円だつたさうだ。因みに同系列と思はれるVI T型はボディのみで5万2500円の価格だつたから、破格の安さだつたと云へるんではないか。尤も1964(昭和39)年に発売されたペンタックスの銘機SPが、50㎜F1.8付で4万2000円だつたと云ふから、距離計式は割高感のあるカメラだつたのかも知れない。
 Populaireは仏蘭西語で、ハーフサイズ・カメラでもDemiと云ふ仏蘭西語を採用してゐるところを見ると、少なくとも当時のキヤノンは独逸式の剛健より仏蘭西式の柔美を好んでゐたのではないだらうか。実際キヤノン・デミは、昨今のデジタル・カメラでは及びも付かない洒落たスタイルのカメラであつた。この辺りの云はば"バタ臭さ"は、キヤノンの得意技だつた(過去形を使はざるを得ないのはまことに残念だ)とも云へる。
 尤もPopulaireからは、さう云つたバタ臭さは感ぜられない。V、VI型にほぼ準ずる形で、上から見るとやはらかな八角形が特徴的でもある。このオクタゴンはIV型以前のキヤノンにも共通してゐて、おそらくライカのやうな丸みを帯びさせる事が技術的に六づかしかつた名残りではないかと思ふが、それを象徴的に用ゐ続けた点は拍手に価する。形が変はらなければそこに、一貫性…大きく云へば伝統を感じる事が出来るからだ。

 機械としてのPopulaire、キヤノンPに、特筆すべき点は無い。
 金属幕横走りの1/1000秒シャッターは当時として、ごく当り前の数値だし、劇的な新しい機能が採用されてゐるわけでもない。寧ろ当時のキヤノンカメラが自慢してゐたファインダの変倍式と外付ファインダの視差補正が省略されてゐる。その代り、35/50/100㎜のブライト・フレイムが同時に、表示される構造になつてゐて、常用の画角であればカメラ単体で何とかまあ、使ふ事が可能だ。何とかまあと付けたのは35㎜画角のブライト・フレイムを一ぺんに見渡すのには、些か以上の無理がある為だが、ぜんたいの完成度が高いので、文句を付ける積りにはならない。
 序でにストラップの取付位置が惡く、肩首からぶら下げるとしつくりこないのも、弱点と云へば弱点だが、持運びを工夫する余地があると読み替へればこれも愉しみのひとつと見立てる事が出来るだらうから、文句を云ふ積りにはならない。
 詰り思ひ切つてキヤノンPは
 「凝つた機能を製造費削減の為に省略した結果、非常に簡潔で使ひ易く」
 なつたカメラと云へるだらう。日本のカメラ史上、高級機からお金の掛る部分を削り落とし、廉価版としてヒットさせる手法の、おそらく最初の、少なくともごく初期の例ではないかと思ふ。余談になるが、実はニコンにもSPと云ふ優れた、然し余りに高価なカメラに対して、廉価版の位置付けであるS3、S4を出した前例がある。が、何しろ"SPに対する廉価版"なのだから、如何ともし難い。この辺りのおつとり具合は実にニコンらしくて、わたくしには好もしく感ぜられる。今でもニコンはどこか、大衆機の作り方に不器用が残つてゐて、その源流はこのS3、S4にあるのではないかと思はれる。
 キヤノンは上手かつた。このカメラは10万台近く生産されたさうだから、成功したと云つていいでせう。元の価格が別の次元ゆゑ、比較にはならないだらうが、同時代のライカM2(1958-1968年)は約8万7000台の生産であるから、数だけ見れば驚嘆に価するとも云へる。
 この成功は後年の我われに思はぬ副産物をもたらして呉れた。写真を撮ると云ふ目的に何ら支障の無いコンディションの個体が、実に廉価で入手出来るのである。わたくしの手元にある製造番号729006も、その恩恵の結果で…いや値段は云ふまい。野暮だからではなく、後からもう1台慾しくなつた時、高額になつてゐたら困る。
 このボディには35㎜F2.8ジュピター(N7701723 マルミのプロテクト・フヰルタ付)にニコンのシャッタ釦、京セラ・コンタックスのストラップに亜米利加製のM-GRIP(本来はM型ライカ用だが、キヤノンPでも問題無く取付出来た)を付けてゐる。中々よい姿だと思ふのは、持ち主の贔屓目であらう。
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# by vaxpops | 2011-02-19 12:00 | 画像一葉 | Trackback | Comments(0)

11010-0020 いちばん桜

 Orionと云ふのは沖縄の麦酒であります。
 もう五年くらゐまへになるが、諸々の事情で三ヶ月ほど彼の地に棲んだ時期があつて、その時に兎に角お世話になつた。内地…沖縄人は県外をかう綜称するのだが…では殆ど出廻つてゐないが、Orionには幾つかの副銘柄(発泡酒等)もあつて、当時販売されてゐた全銘柄を取り替へ引き替へ、わたくしは毎日呑んだ。
 様々なチャンプルーや豚肉料理に素晴らしく適ふ。
 内地の麦酒に馴れた舌だと然し、Orionは些か物足りなさを感じるかも知れない。詰り、かるい。尤もそのかるさはたとへばバドワイザーのやうな水つぽい頼りなさではないし、沖縄式の肴は案外に淡泊でない事もあつて、寧ろ好もしい。ゴーヤのずしりと分厚い苦味にOrionのかろやかさの組合せを、わたくしはこよなく愛してゐるのであります。

 ところで沖縄では如月の声を聞くと、櫻の花びらが次々と開く。
 名まへは知らないが、内地の櫻いろとはちがふし、おそらく河津櫻に近いのではないかと思ふ。二年まへに熱海で眺めた櫻に似てゐるから、以外に理由は無いので、信用しちやあ、いけませんよ。熱海の櫻はいろが深くつて、花見とは異なる味はひがあつたなあ。

 えーと、熱海の話ではなかつた。
 さう、沖縄の櫻。
 でもなかつた。

 さうさう、沖縄で櫻が咲く頃、Orionは季節限定の銘柄を出してくる、と云ふ話をしたかつたのだ。その名はOrion"いちばん桜"。実にいい名まへですな。鮮やかな櫻花が描かれ罐も、眺めて嬉しくなつてくる。原材料は勿論、麦芽とホップのみ。日本酒が米と麹で醸造られるべきと同じく、本すぢの麦酒で、味はひはOrionのそれを更に磨いだ感じ。
 実に旨い。
 この"いちばん桜"もOrion同様、いやOrion以上に内地で見掛ける機会の少ない事が惜しまれるが…季節と地域で二重に六づかしいのだから、やむ事を得ないとは云へ…ちよつと気の利いたお酒売場なら買ひ込む事も無理ではないだらう。
 まだ寒い東京で"いちばん桜"を呑みながら、春の訪れに思ひを馳せるのは、まつたくのところ惡い気分ではない。次に来るいちばん桜の季節は、熱海の河津櫻で飾らうかと思つてゐる。
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# by vaxpops | 2011-02-11 17:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)

11009-0019 日本の、一ぱい

『日本の酒』
坂口謹一郎・岩波文庫

 日本人が"酒"と云ふ時、そこにはふたつの意味がある。
 漠然としたアルコール類全般の場合と、日本酒と。
 それは"酒"と云ふ一般的な名詞が、その中のひとつである筈の日本酒を代弁してゐる…少なくともその一角を占めてゐる事を意味してゐて、かう云つた例は世界にも少ないんではないかと思ふ。

 英吉利人が"酒"と云ふ時、そこに麦酒やヰスキィやスコッチと云つた、特定の種類が含まれてゐるとは想像し難い。辛うじて仏蘭西人や伊太利人なら、"酒"と葡萄酒が比較的密接に結びついてゐるかも知れないと考へても、余り無理は感じられないけれど、それでも日本人の"酒と日本酒"ほど緊密な関係ではなささうな気がする。この辺りは丹念に調べたら、面白い結果になると思ふが、膨大なフィールド・ワークが要求されるだらうから、取組む方は大変に違ひない。

 巻末の年譜によると、坂口謹一郎は明治三十年に生れ、平成六年に死去してゐる。十九世紀の終りに生を受け、四つの元号を歩んで、二十世紀の晩年に息を引き取つた、と云ひ替へたら、生涯に熟成の重みを感じますね。
 専門は醗酵。
 帝國大學教授にして農學博士。
 と肩書を書くと、ひどく物堅い内容を連想させられるが、まあ確かにさう云ふ一面もないわけではないが、全体としては日本酒に纏はる様々な話が散りばめられた、実に面白い一冊である。
 特に「民族の酒」と題された一章では、古代から近代までの日本酒史を駈ける離れ業を演じてゐる。坂口が美事だつたのは

・古代民間の原始的な酒を"民族の酒"
・ヤマト王権から奈良朝期を"朝廷の酒"
・平安末期から室町辺りを"酒屋の酒"
・現在に繋がる酒造りが確立された江戸期を"寒造りの酒"
・明治の西洋技術の導入期以降を"合理化の酒"

 と仮に名付けた事で、どうです、漠然と、然し日本酒の在り様の移り変はりが鮮やかに想像出来ませんか。かう云ふのを文章の藝と呼ばねばならぬ。ただわたくしが一ばん感心したのは、冒頭、次々に飛び出す日本酒の味や香りを表はす形容で

まるみ、移り香、うすい、ごくみ、こくがある、にくがある、濃味(濃醇味)、ふくらみがある、はばがある、くどい、しつこい、重い、濃い、さばけが悪い、雑味がある、ざらっぽい、がらがわるい、にぎやか、きめが荒い、こしがある、男性的な、線の太い、きれい、きめが細かい、軽い、上品、淡麗、さびしい、尻はね、はねがある、押しがある、引き込み、後味、残味…

 まつたくのところ、圧倒されて仕舞つた。さばけが惡いなんて痛烈な批判をした事がなければ、賑やかでいいねえなんて感心した事も無い身としては、語彙の貧弱さを今さらながら、反省させられる。
 ケミカルな話有り、愉快な逸話有り、萬葉集からの(些か衒学的な)和歌の引用有りで、學海余滴の愉しみを存分に味はへる本なのはわたくしが保証するが、ただ一点惜しまれるのは、お燗と冷やの美味しい呑み方について、言及されてゐない点であらう。尤もさう云つた要求をするのは、泉下の坂口博士にとつては大迷惑で
 「(ご自慢のお酒を含みながら)それは君、自分で見つけ玉へ」
と叱り付けられるかも知れない。
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# by vaxpops | 2011-02-11 00:00 | 読書一冊 | Trackback | Comments(0)

11008-0018 方言について

 方言を文字にするのは六づかしい。
 特に歴史的仮名遣ひを常用するひとにとつては。

 たとへば標準語の現代仮名使ひで「言う」は、歴史的仮名遣ひだと「言ふ」だ。
 標準語の「言ふ(う)」はところで、関西方言だと「ゆう」と云ふ発音になつて、ぢやあこれを歴史的仮名遣ひで表記すると、どうなるのか。
 「ゆう」でよい。
 関西方言の「ゆう」はワ行で変はるから、標準語での「言はない」は「ゆわない」になり、「言へ」は「ゆゑ」になる。

 …のだと思ふ。

 自信が無い。

 或は「ごあしやる」と云ふ言葉がある。
 朝廷の女官ことばですな。
 朝廷は一種の閉鎖的な社会だから、その中で使はれてゐたことばだつて、広い意味で方言と見立ててもいいでせう。
 然しその「ごあしやる」は「ごあしやる」なのか「ごわしやる」なのか「ごはしやる」なのか。

 解らない。

 自信が無い。

 またたとへば伊予ことばの「~じゃけん」と土佐ことばの「~じゃきに」は、標準語で云ふところの「~だから(~なので)」にほぼ相当するのだが、これらは「ぢやけん」「ぢやきに」なのか。
 土佐ことばは「ジ」と「ヂ」を明確に発音し分けると云ふから、「だから」の転訛である「じゃきに」は「ぢやきに」でよいと思はれるが、春風駘蕩の伊予ことばではどうなのか。

 解らない。

 自信が無い。

 たとへばは他に幾つも挙げる事が出来るが、きりが無いのでやめにするとして、実に面倒なのは何となく、想像頂けるとは思ふ。

 ここでちよつと生真面目な顔つきをすると、このややこしさは仮名遣ひが要因なのではなく、方言は話し言葉であつて書き言葉ではないところに理由が潜んでゐる。話し言葉は文字ではないから、話し手の態度…顔つきや声音…や前後の流れ、聞き手との関係…友好的なのか敵対的なのか…で、同じ言葉に複層的な意味が貼り付けられる。
 関西方言の阿房…発音は"あほ"が、その典型的な例だらう。あれは間投詞感嘆詞的に使はれたり、親愛の情を示す時に使はれたり(詰り"あほ"と云つても赦される人間の距離感)勿論、罵倒の意味でも用ゐられる。尤も罵倒で使ふ場合は強調の接頭語"ど"が付けられる事が多いけれど。
 "あほ"だけではない複層的な意味を持つ、或は持ち得る方言は、更にその使はれ方によつて発音が微妙に異なり、また時代によつて変化もする。言葉を文字で固定する書き言葉は、その細やかで複雑な発音の相違や変化には、対応が出来ない。良し悪しや優劣の話ではなく、ちがふ、と云ふ事なんです。

 もしもわたくしが、本当に生真面目であつたなら、そのちがふ、と云ふ事を踏まへながら、どう方言を駆使するかを考へるのだらうが、わたくしの生真面目はうすつぺらな仮面なので、そんな事は考へない。方言を文字にするのは六づかしいものだと、首を捻る計りだ。
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# by vaxpops | 2011-02-07 11:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)
『二日酔いのバラード』
ウォーレン・マーフィ(訳・田村義進)ハヤカワ・ミステリ文庫

 わたくしは漠然とした亜米利加を好まない。
 好き嫌ひに理由は要らない筈なので、兎に角さう云ふものだと思つて下さればよい。
 但し何事にも例外はあつて、この小説もその例外に含まれる。

 "ワイズクラックもの"と勝手に名付けてゐる分野がある。
 "ハードボイルドもの"の一要素であるジョークを…ジョークだけを極端に強調した小説、と大雑把に申し上げておかう。
 ストーリィを脹らませる為にジョークがあるのではなく、ジョークを成り立たせる為にストーリィが在る、と云へば云ひ過ぎになるだらうか。

 デヴリン・トレーシー。
 愛蘭系の亜米利加人でギャスリン・フィディリティ保険会社の臨時調査員でもある。
 ウォトカと煙草を無闇に好み、どうにもならないフルタイムのアルコール中毒のくせに、日系シシリー人のチコとうまいこと、やつてゐる。
 かれ…「友だちからはトレースと呼ばれている」さうだ…が口にするのは、碌でもない事計りだ。

 「おれは、汚れた世界の上に高く舞う自由な魂だ」
 「ギルバートとサリヴァンもおんなじだ。歌詞がまったくききとれない(中略)ヤ・パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ。これが音楽か。音の羅列じゃないか。おれは嫌いだね」
 「ちがう。おれは合衆国の秘密兵器だ。おれがくしゃみをすると、巨大コングロマリットのお偉方が風邪をひく」

 念の為に云ふと、別に特別な箇所から引用したわけではない。

 年中、こんな事を口にする、いや、こんな事しか口にしない男がゐたとして、付き合ひたいと思ふかね??
 わたくしは、厭だ。
 わたくしの厭がどこまで一般的かと云ふ点には議論の余地があるとしても、"ヤ・パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ"なんて平気で云へる男には近付きたくない。"ヤ・パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ"を聞かされたらきつと、三時間くらゐ頭痛がするに決つてゐる。
 然し小説と云ふ枠の中にトレースがゐる時、かれのジョークはその限られた枠の中で、如何にも亜米利加的な輝きを見せる。

 不思議としか、云へない。

 チャンドラーやロバート・B・パーカーを好むなら、その傍らにかう云ふ"ワイズクラックもの"を置いておくのは惡い趣味ではないだらう。

 尤も原題の「Two Steps From Three East」を"二日酔いのバラード"と訳したところだけは、感心しないけれど。
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# by vaxpops | 2011-02-06 23:00 | 読書一冊 | Trackback | Comments(0)

11006-0016 おびいこ

 おびいこと云ふのが一般的な呼び方なのかどうか、わたくしは知らない。

 単語としては、"びいこ"に接頭語の"お"がついたもので、"びいこ"は伊予ことば…正確にはその一派の燧弁(ヒウチベンと読むのださうな)で、魚を意味する(幼児)言葉らしい。燧弁は伊予の新居浜周辺で用ゐられると云ふから、何となく納得がゆく。わたくしの親族一同は勿論、親も新居浜人であるから。

 "びいこ=魚"が正しいとすれば、おびいこは単に"お魚"であつて、幼児言葉なら"おちやかな"くらゐになるのだらう…と考へる時、わたくしは微笑を禁じ得ない。
 わたくしにとつての"おびいこ"は、一般的に云ふ縮緬山椒の事であるから。

 これが、旨い。

 なに、特別な作り方をするわけではない。
 山椒と縮緬雑魚を醤油でくつつり、炊き込んだだけのものだ。
 ポイント的な部分を挙げるとすれば、醤油だけで、だらうか。どうしても味のきつさが気になるのなら、日本酒で調節する。
 六づかしくも何ともないが、これが素敵に旨い。
 そのままお酒の肴になるし、野沢菜漬の塩の薄いやつにまぶすのもいいし、ご飯に乗せて湯漬けにしたり、混ぜ込んでおにぎりにしてもよく、梅干(果肉の柔らかいやつ)と一緒に細かく叩いてもいい。
 一ばん然し美味しいのは、炊き立ての熱いやつを、お鍋からちよいと摘み喰ひする事で、咽喉から胃の腑まで熱い山椒の香りで満たされる。

 詰り、辛い。
 特に祖母が炊いたおびいこの辛さは飛び切りであつた。何せ山椒の灰汁抜きをせず、そのまま炊いたのだから、わたくしは"口に響く辛さ"の意味を、それで体得したと云つてもよい。尤も、子どもの頃からその味に馴れてゐると、スーパーマーケットや百貨店で売られてゐる縮緬山椒が逆に口に適はない。甘過ぎる物足りなく感じて仕舞ふからで、これが人生の損か得かは、一考の余地がある。

 話はちがふが、わたくしは死ぬと云ふ事に然程、あれな感覚を持つてゐない。どうもそこには、向かふ身罷つた祖母の、飛び切り辛いおびいこをまた、味はへる愉しみがあるからではないかと思はれる。
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# by vaxpops | 2011-01-28 22:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)

11005-0015 ズーム・レンズ

 ズーム・レンズと云ひ、ヴァリフォーカル・レンズとも云ふ。本来は異なる意味で使ふらしいが…たとへばライツのヴァリオ・ヱルマーやツァイスのヴァリオ・ゾナー…この稿では同じに扱ふ。どう違ふのかを気にする厳密家の方がたはご自身でお調べなさい。暇潰しくらゐにはなるだらう。

 シリアスに写真を撮るひとに、ズーム・レンズはいたく評判が惡い。
 大きいし重いし、開放値は暗いし、画角に対して無精且つ無神経になつて仕舞ふ…と云ふのが反ズーム・レンズ派の挙げる理由で、勿論それらは間違つてゐない。わたくしも気合ひを入れて撮影に臨む時は、単焦点を使ふ。

 然し非ズーム派が声を荒げるほど、ズーム・レンズは駄目なものだらうか??

 最近わたくしはズーム・レンズを購入した。
 トキナーのSZ-X 28-105㎜/F3.5-4.8(Kマウント仕様)と云ふ、今の目で見ればごく地味なスペックのレンズ。リコーの隠れ名機XR-7MIIにこのレンズを付け(念の為にSMCペンタックス50㎜F1.7も用意したが)川越を撮りに行つたんである。
 フヰルム式の一眼レフでズーム・レンズを使ふのは実に久しぶりの事で、色々驚かされた。
 最初の驚きはファインダ内の画角変化ですね。28㎜から105㎜と云ふのは昨今のズーム倍率としては寧ろ小さい方に属するのだが、実に迫力があつた。さう思へた理由はよく解らない。もしかすると(デジタル・カメラと較べて)非常に小さなファインダが錯覚させたのだらうか。
 もうひとつ驚いたのは、その使ひ勝手の良さである。ほぼ常用域をカヴァした焦点距離で、然も全域で50㎝まで寄れるのだから、余程特別な目的の撮影…たとへばストロボが使へない仄暗い庫…でなければ、ISO400のフヰルムを使ふ事で、不便に悩まされる事も無いだらう。
 川越は旧いまちで、少なからぬ数の観光客が訪れるから、さう云つた人びとを外したい時には、ちよいと望遠側に画角を変へ、ごちやごちやした感じを鷲掴みにしたければ、ひよいと広角側に画角を変へればよいのだから、これもまた軽快のひとつと云つてよい。

 トキナーで撮つた写真は、素人目にもはつきり判るほどかりりとした描写で、真夏の陰影をモノ・クロームで写したら、面白いだらうきつとと思はれた。
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# by vaxpops | 2011-01-24 14:00 | 画像一葉 | Trackback | Comments(0)
『写真とボク』植田正治写真展
 於:埼玉県立近代美術館

 写真を文字で語る事ほど愚かしい真似は無い。
 わたくしは愚か者であるが、そのくらゐは理解してゐる。

 然し観て、昂奮して、その昂奮を書きたくなつたのだから、やむ事を得ない。

 植田正治と云ふ写真家の事を知りたければ、ご自身でお調べになるのがよい。幾らでも資料が見付る筈だから。然したとへ万巻の研究書に目を通したところで、植田正治の写真は解らない…とわたくしは断言出来る。
 いやこれは植田に限らず、木村伊兵衛でも土門拳でもアンリ=カルティエ・ブレッソンでもロバート・キャパでも沢田教一でも事情は同じで、ある写真家の事を知りたければ、百万行に渡る文字の羅列では役に立たず、かれ(乃至彼女)の写真を一枚、目にしなければならない、と云ふ事だ。

 ヴァン・ゴッホの伝記を百万冊読んだところで、かれの絵について解るものだらうか??

 埼玉県立近代美術館は北浦和駅に程近い公園の中にあつて、中々気分が宜しい。
 美術館はのんびりした場所にあらねばならず、鳥取の砂丘を主な舞台とした植田にそれは似つかはしく思はれる。
 展示は非常に大掛りで、ごく初期…文字通りのアマチュアだつた頃…から晩年まで、おほむね年代順に並べられてゐた。
 一覧して驚かされたのは、所謂"スナップ写真"が絶無に等しかつた点であつた。欧羅巴で撮られた何枚かを除けば、かれの写真は一貫…いや徹底して演出に彩られ、その徹底振りは"絶対非演出の絶対スナップ"や"決定的瞬間"と云つたシリアスや生真面目を蹴散らす痛快さを感ぜられた。尤も、植田じしんはそんな事を考へもしなかつたにちがひないけれど。

 その植田演出は実に独特ではないかと思ふ。
 どう独特に思はれるのかは実際に植田の写真を見るのが最も確実な方法なのだが、それで済ますのは藝が無さ過ぎる。そこでかれの人物像と静物像を対比させてみませう。
 人物像は有名な『少女四態』左から白いワン・ピース、水玉のワン・ピース、セーラー服、白いワン・ピースの少女が"配置された"パノラミックな写真。
 静物像は『砂丘モード』シリーズから、砂丘に"集まつた"五つのハンガー。
 わたくしは『少女四態』に"配置"を、『砂丘モード』に"集まる"と云ふ言葉を用ゐた。これは意識的に使つたので、おそらくここが、植田演出の独特なのではないか。ヒトを無機質に配置し、モノを生きてゐるやうに集める。それはヒトとモノの境界線がとろけ混ざりあふ演出で、我われはその中に何か意味なり象徴性だつたり…さう、ある種のメッセイジ…を捜さうとして仕舞ふ。
 然しおそらく、その行為は徒労に終るだらう。
 植田は自分の写真にさう云つた何事かを潜ませてはゐないから、と云ふのではない。どうもその行為は、植田写真の純度を下げかねないのではないか。またそれは、植田の仕掛けた迷宮…それはヒトとモノのハザマに在る…におのづから迷ひ込む事ではないか。わたくしにはさう感ぜられてならない。

 既に言葉が過剰になつた。
 わたくしは埼玉県立近代美術館を後にするまへ、この写真展の図録を購入した。
 写真と云ふものを複雑に考へやうとする時には、この図録を眺めて、気持ちを鎮める積りでゐる。
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# by vaxpops | 2011-01-24 12:30 | 音映聴観 | Trackback | Comments(2)

11003-0013 7来りなば

 冬来りなば、春遠からじ、と云ふ。
 いい言葉ですね。
 人生の愉しみが、ここに集約されてゐる感じがする。

 春には色々の愉しみがあるのだけれど、その惡さの計画については、今のところ、触れない。

 然し惡さ―ではないな、遊びです、遊びには玩具が欠かせない。
 主な玩具は(デジタル)カメラで、そつちには不便がない。当り前の話で、カメラを百台持つてゐても、一度に撮れる写真は一枚きりなんだから、無闇に増やすのは寧ろ考へものだと云つていい。
 もうひとつの玩具はP.C.周りで、問題はこちらである、あつた。
 わたくしがこれまで常用してゐたのはEeePC900といふネットブックで、多分二年余り、使つたと思ふ。廉価な機種ではあつたが、そこそこに軽量だつたので持ち出すのにも然程抵抗がなく、厳しい使用は無理にしても、さつくり遊ぶ分には不便も問題もなかつた。

 が、壊れた。

 キー・ボードの一部が駄目になつたので、文字の入力には支障が出たわけではなかつたが、早晩、いけなくなるだらう事は容易に想像がついた。
 これは、まづい。
 そのくらゐまでは如何なわたくしでも頭が働く。遊べないのは困るし、この"いんちきマクガフィン"の更新が滞つて仕舞ふのは、感心出来た事ではない。
 なので買ひましたよ、新しいP.C.―lenovoの廉価なやつをば。
 Windows7の64ビット版で、わたくしはやうやく最新のOS環境を手にしたわけで、然しこれが実に使ひ辛い。Windowsは3.1の頃から公私共に使つてゐて、Vista以外は触つた事があるのだが、OSの機能は別として、これ程解り辛いインタフェイスを採用した理由がさつぱり理解出来ない。3.1からXPまでは大体のところが見当を付けられるやうになつてゐて、その一貫性(と云ふか旧ヴァージョンとの視覚的な互換性)をわたくしは好もしいものと思つてゐる。
 「いやいや、Windows7の方が便利ですよ」
 とマイクロソフトの社員は胸を張るに違ひないが、その便利さは、視覚で先づ感ぜられる要素なのだから、かれらの云ふ事はをかしい。第一印象は莫迦に出来ないんである。

 尤も。

 「新しい玩具」と云ふ物は、その新しさゆゑに愉しくまた嬉しいのも、また偽らざる事実でもある。
 大きな画面は眺めてゐて気分がよいし、キー・ボードを叩く感触もまた(当然ではあるが)ネットブックとはまつたく異なる心地好さなのも嬉しくなつて仕舞ふ。嬉しがつてゐるんです、要するに、わたくしは…と倒置法を濫用したくなる程に。
 7来りなば、然し"いんちきマクガフィン"の更新が頻繁になるかと云へば、それはまた別の話として、さてこの名付けて lenovo壱号で如何に遊ばうか。どうにも馴れるまでに時間が掛りさうなインタフェイスを眺めながら、わたくしは色々と頭を悩ましてゐる。
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# by vaxpops | 2011-01-10 19:00 | 画像一葉 | Trackback | Comments(0)

11002-0012 棒鱈

 堅く乾し固めた塩漬けの鱈を時間をかけて戻し、やや辛めにくつつりと炊き上げたひと皿を、わたくしの家では棒鱈と呼んでゐて、呼び方としては余り精確とは云へないが、そんな事はどうでもいい。わたくしの祖母…いやここでは砕けてばアちやんと書くけれど、ばアちやんはその棒鱈を炊き上げる名人であつて、この名人位が余所で通用するかどうかは知らない。たとへ通用しなかつたとしても、それだつてどうでもいい事で、わたくしはばアちやんの棒鱈を喰へない人びとを憐れむのみだ。

 美味しい。

 どこがどう美味しいのかは、巧く云へない。
 云へないが、美味しいんだから仕方がない。

 かういふ時に理由を考へるのは面白くない、と云ふのもある。

 然しそれでは話が進まないので、多少の説明をしておきませう。

 正月二日に親族が集まるのが、わたくしたちの習慣で、何故さう云つた習慣が出来たのかは知らない。わたくしが産まれるまへからの習慣だつたのは確実で、零歳児…詰り産まれて間もない赤ん坊に、大枚五百円のお年玉が与へられたのもこの場だつたさうだ。
 その頃から棒鱈が振る舞はれてゐたかは、何しろもの心のつく遥か以前の事なので、知らないと云ふか解らない。もの心がついてからは、必ず出されてゐるのは間ちがひがない。
 をさない頃のわたくしは、所謂御節料理が嫌ひで、すりやあ当然でせう。子供の舌にはとんかつやカレーや玉子焼やハンバーグの方が嬉しいに決つてゐる。実際のところ少年のわたくしが御節、と云ふよりお正月料理で好んだのは、お雑煮に蒲鉾くらゐのものだ。
 ばアちやんの棒鱈が急激に地位を上げてきたのはその後の事で、これは理解出来る味の範囲が広くなつたからだ、と云つていい。一度そして解ると、今度は毎年のお正月に食べるものだと云ふ事になり、更にそれが進むと、棒鱈を食べる事がわたくしにとつてのお正月と云ふ事になる。

 棒鱈…正確には『ばアちやんの棒鱈』が美味しいのには、さう云つた事情がある。ゆゑに、大袈裟に云ふとこの事情…時間的な背景を共有しないひとが食べても、わたくしのやうに舌鼓を打てるかどうか、甚だ疑はしい。九十七歳になるばアちやんは、もう棒鱈を炊けない。だから叔母が、ばアちやんの味付けで棒鱈を炊く。これを食べてわたくしは、お正月を迎へた。
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# by vaxpops | 2011-01-02 23:30 | 飲食百景 | Trackback | Comments(2)
 『坂の上の雲』に書かれてゐたと記憶する逸話。

 秋山好古真之兄弟の父親は八十九(ヤソク)と号し、正月元日には丸めた頭に頭巾を被つて、長閑な春で御坐います、と挨拶して廻つたさうだ。

 何と云ふことのない話かも知れないけれど、実際、何と云ふことのない話なのだけれど、それがひどく印象に残つてゐるのは、頭巾と長閑な春の組合せが、松山と云ふ土地柄にこれ以上は考へられないほど適つて感ぜられたからだと思はれる。

 春風駘蕩。

 我が親愛なる読者諸嬢諸子に、新年のご挨拶を申し上げる。

 長閑な春で御坐います。
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# by vaxpops | 2011-01-01 11:11 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)
 地元に戻ると、地元ことばになつて、地元のふるい友人と麦酒を呑む。

 地元に戻つてゐるので、感覚のどこかもまた、子供に戻つてゐて、そのくせ麦酒を呑むんだから、どことはなく奇妙とまあ、云へなくもない。

 尤も、大した話をするわけでもないんですね、かういふ時は。

 麦酒を呑む。
 焼きソーセイジやザワークラウトや生ハムやマリネを肴に、間にシュタインヘイガーとかいふ独逸焼酎を挟み込んだりして。
 話題はどんどん逸れ、あちこちに飛び廻る。
 お代はり毎に。
 肴が代はる毎に。
 わたくしはそれを気にしないし、友人も気にすることはない。
 真面目な話題があり不真面目な話題もあり、ぼけとつつこみは云ふまでも無く。

 要は他愛ない莫迦話。

 酔ひが廻ると夜も更ける。
 我われは再会を約して別れた。
 帰り路わたくしは、かれとの付合ひが殆ど三分の一世紀に及んでゐる事に気が付いた。
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# by vaxpops | 2010-12-31 17:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

10009-0009 きつねうどん

 狐饂飩と漢字にすると、何だか別の食べもののやうに思はれる。キツネウドン、狐ウドン、なんて云ふのもいけなくつて、矢張り平仮名のきつねうどんが一ばんいい。これはもう好みなのですと云ふしかない。

 東都に棲むわたくしが西都に戻つて最初に喰ふ…いやいや、食べるのがきつねうどんで、さういふ習慣なのだから仕方がない。お店の撰好みはしない。たとへば新幹線を使つたら、新大阪駅の在来線側にある立喰ひに潜り込むし、他の交通を使つても事情は変はらない。要するに手近なお店に入つて

 「小母ちやん、きつね」

 と云ふわけです…大坂式ではきつねそばが存在しないので、わざわざ"うどん"を付け足す必要がない…お出汁をひと口ふた口。うどんを啜りこみ、お揚げサン(お揚げには"サン"を付けるのが礼儀と云ふものだ)にかぢりつく。

 これが、美味しい。

 沁みてゐた熱いお出汁が、お揚げサンじたいのほのあまさと混ざり、口の中に溢れる。

 かういふ時にお行儀をあれこれ考へるのは野暮と云ふもので、はふほふあちあち、寧ろぞろツぺえ、或は品下れる態度で臨むべきだ。
 お葱の鮮やかな香りとうどんの歯応へが相俟つて、口福といふ言葉の意味を舌で理解する事が出来るに相違ない。

 たかだか数百円で口福とは大袈裟ですか。

 いえいえ、これが馴れ親しんだ味の特権といふものなんです。
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# by vaxpops | 2010-12-30 14:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)

10008-0008 蕎麦と冷酒

 東京は神田に美味しいお蕎麦の店がある。
 幾つもある。
 美味しいお蕎麦やが神田にしかない、と云ふわけではないけれど、東京でお蕎麦から連想出来ると云へば、矢張り神田になると思ふ。お蕎麦と云へば神田、神田と云へばお蕎麦、と云ふ連想は良い惡いの話ではなく、これがブランド・イメージといふものなんです。やむ事を得ない。

 蕎麦やでの過し方にわたくしは漠然としたあくがれを持つてゐた、ゐる。

 いたわさなんぞを肴に冷酒をちびちびと呑る。
 それからぞろりと、もり蕎麦を啜りこむ。

 これである。
 灰いろの背広にループ・タイ。ハンチング帽を被り、草臥れてゐるけれど、きちんと磨かれた革靴で。
 平日の午おそい時間帯がいいですね。昼食の煩雑が終つて、閑散としたころにひつそりと入つて、隅に坐るのが望ましい。
 それでぼそぼそ、いたわさにお酒を一本、下さい。後からもりを一まい、もらへますか、と註文するのだ。
 あくまでも地味に。
 これである。

 尤もこいつを完全に実行するには、まだまだわたくしは小僧に過ぎず、だいたい地味で品のいいループ・タイなんて、あるものかね。灰いろの背広だつて、仕立てがよくないとお話にならないし、さういふのを身に着けて似合ふのは矢張り、人生の半ば以上を過ぎてからでせう。
 先々に希望があるのはいい事だ。

 然し先般、その"予行演習"は実行に移すことが出来た。
 ジーンズにスニーカーだつたけれど、まあ、気にする事はない。
 神田の高名なお店で、酔払ひ仲間とふたり。
 残念ながらお店は混雑してゐて、閑雅には程遠かつたけれど、我われが先づ閑雅から離れてゐたので、その辺も気にせずによからう。
 互ひに冷酒を一本。
 肴にわたくしは鴨のローストを撰び、かれは牡蠣の天麩羅。鴨は辛子と白髪葱が添へられ、天麩羅は塩で。
 周りのお客は掻揚げにせいろとか、鴨南蛮とかをやつつけてゐて、お酒と肴だけが乗つかつてゐる我われの卓子はちよつと、場違ひの感が無くもなかつたけれど、なーに、気にするのは損と云ふものだ(お酒の所為でだんだん気が大きくなつてゐる)
 蕎麦やの時間はどうも独特なもので、昼間ツからちびちび呑るダメさ(ここはカタカナで書きたい)気分が実に心地好い。この心地好さを分析するのは困難だし、困難以上に野暮な態度なので、理由を考へるところまでは踏込まない。考察好きの方は、ごじしんで試してみられるがよからう。

 昼の冷酒を堪能した我われは、もり蕎麦をゆつたりと啜りこみ、蕎麦湯まで恙無く愉しんだ。
 どうもかういふ快は、神田のお蕎麦やでないといけない気がするのは、矢張りブランド・イメージの賜物で、やむ事を得ない。
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# by vaxpops | 2010-12-29 10:30 | 飲食百景 | Trackback | Comments(2)

10007-0007 アーカイヴ

 元々わたくしは、au-oneで 『月のすみつこと太陽のはしつこ』 といふウェブログを持つてゐた。
 ここエキサイトで、この 『いんちきばさらとマクガフィン』 を立ち上げたのは、au-oneがウェブログ・サーヴィスを終了さしたからで、それ以上の理由は何も無い。

 au-oneも無責任…ぢやないな、不親切ではないので、seasaa か livedoor へ移行出来る用意をしたのであるが、折角の移転なのだから、ゼロ・リ・スタートでもよからうと思つたのも、派生的な事情と云つてもいい。

 尤もわたくしは貧乏性でもあるから

 「それぢやあ、au-oneは"無かつた事"にすればいい」

 とまでは思ひ切れなかつた。たかが千数百の記事が惜しいのかと云はれれば、粒よりの駄文揃ひといふ事実が反論を許さないとしても、書き手の思ひ入れと云ふか、未練くらゐは認めて頂いても、罰は当らないのではないか。

 さういふ事情…気分で、seasaa に、『月のすみつこと太陽のはしつこ・アーカイヴ』を用意する事にした。

http://zampablack.seesaa.net/

 わたくしがどんな文章を書き、考へ方にどんな傾向があるかを手早く知りたければ、こちらを眺めるのが宜しからうと思はれる。

 まあ実のところ、今ひとつの事情もあるのだが、それは未だ、ここで書くには早過ぎる。
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# by vaxpops | 2010-12-25 21:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

10006-0006 鯖

 漢字は"魚ヘンにブルー"なんださうだ。
 長嶋茂雄伝説でさうなつてゐるんだから、間ちがひない。

 わたくしが酷愛する魚は、一に鯛、二に鮭の白身魚コンビが不動の双璧だつたのだが、この何年かで急激にランキングを上げてきたのが、魚ヘンにブルー…ぢやない、鯖なんである。
 旨い。
 どうやつて喰つても、旨い。
 ごく新鮮な鯖なら、お刺身で旨く、お酢で〆たのも旨い。
 塩焼にして旨いし、お醤油と生姜で煮いても旨いし、竜田揚げも旨いし、味噌煮が旨いのは最早、わざわざ云ふのも面倒に思へるくらゐだ。
 パーツをくまなく味はへる点で、鮭に勝る魚は無いが、調理方法で魚肉の異なる旨さを堪能出来る点では、寧ろ鯖の方が勝つてゐるのではないか。さう近年のわたくしは考へてゐて、どうもそのきつかけ…といふか事情は、自分の胃袋と舌にあるらしい。

 若い胃袋と舌は、獣肉を好む。焼肉萬歳ですな、要するに。"食べ放題"の看板にうつかり引つ掛かつて仕舞ふ世代と云つてもいい。わたくしも、さういふ世代であつた時期があつた、と遠い目で付け加へておかう。

 その時期を過ぎると、胃袋と舌はお刺身に目覚める。獣肉とは異なる脂の味に気付くわけですな、要するに。この時期に達したひとは、日本酒を冷で呑る愉しさにも目覚める事が多いと思はれる。

 さらに次の時期になると、胃袋と舌は煮炊きものを歓ぶやうになる。とろより赤身ですな、要するに。量に興味がなくなつて、ちよつぴりでいいから、美味しいものを食べる方に重きを置けるのは、この時期やうやくではないか知ら。

 この最後の…といふのは、以降の嗜好がどう変はるのか、わたくしは未だ知らないからなのだが…煮炊きもの期に到つてやつと気付くのが、鯖の旨さなんである。
 なんではなからうか。
 なんだらうと思はれる。
 焼肉期から刺身期(かう書くと何だか古代史みたいだね)に掛けてのひとが好みまた歓ぶのは、ごく粗雑に云へば脂身の味ではないか。鯖の脂も旨いのは大いに認めなくてはならないが、それ以上に特筆すべきは肉そのものの旨さではないか。
 肥つた鯖の肉をぐつと噛みしめる。その肉は崩れるやうでゐて、脆くはなく、然し獣肉とは異なる歯応へが実に心地好い。それはお刺身と〆鯖と塩焼と煮付けと竜田揚げと味噌煮に共通しながら、それぞれの味付けを美事に受け止めて、口福を感じさせて呉れる。

 鯖を肴に一ぱい呑る。
 こんな廉上がりな幸せは、探さうと思つても、中々見付かるものではない。
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# by vaxpops | 2010-12-23 22:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)

10005-0005 ペンの話

 一ばん最近に購入したカメラが、ペンなんです。
 オリムパス製。。
 正しくはオリンパスなのは知つてゐるが、オリ"ム"パスと書く方が好みなのだ。真摯で生真面目なファンの皆さま方には、ご容赦願ふ。
 オリムパスのペンと云へばおそらく、多くの読者諸嬢諸子はマイクロフォーサーズ規格の、ミラーレス・デジタル一眼カメラを連想するんではないかと思はれるが、わたくしが買つたのはそれではない。
 ペンFといふ極めて独創的な、知る限りではオリムパス以外は手を染めなかつた、ハーフ・サイズでレンズ交換も出来るフヰルム一眼レフを連想する方もをられるかも知れないが、それもまた違ふ。

 ペンS。

 ペンと名付けられたカメラの二番目の機種であり、わたくしはこれが、完成形だと思つてゐる。
 わたくしの手元にあるのは、シリアル番号が334562の個体で、Dズイコー3㎝F2.8を搭載し、目測ながら70㎝まで近寄る事が出来、バルブと1/8~1/250秒のシャッターを備へ、6枚の絞り羽根…ものの本では絞り羽根が5枚と記されてゐるが…を有する。
 このDズイコーが素晴しくよく写る。
 Dズイコーに採用された3群4枚のレンズ構成は俗にテッサー・タイプとも呼ばれる、ごく簡単な構造であつて、偉大なパウル・ルドルフの…いや、昔日の光学大国独逸の栄光を…いや、レンズ史の話はこの際どちらでもよろしい。

 目測で露出計も持たぬカメラで、素晴しくよく写るも何も無いだらう、と思ふのは間ちがひだ。
 ペンSが現行機種だつた当時に比べ、フヰルムの性能が飛躍的に向上してゐるのが、理由のひとつ。
 ハーフ・サイズといふフォーマットもまた、この場合レンズに対して、被写界震度の点で有利に働いてゐるのが、理由のひとつ。
 最も大きな理由は、ペンSで撮るのが、実に痛快である事だらう。
 ざつくりと露光を合はせ、同じくざつくり焦点位置を決める。なーに、ISO100のフヰルムを好天の野外で使ふなら、F5.6かF8の1/250秒か1/125秒の組合せで大体問題は無いし、これくらゐの露光条件なら3m辺りに焦点を決めておけば、大体外す事も無い。後は気分でちまちま弄りながら、シャッタ釦を押せばよい。

 この"大体"が痛快なんである。

 どうやつても厳密に露光や焦点を決められないのは、逆さに考へると、それらから切り離されてゐる事を殆ど明示してゐる。その点に気が付くと、写真を撮る行為そのもの…必須の前段階と思つてゐた、露光と焦点の調整を飛ばして…に集中出来る。わたくしの思ふ"大体の痛快"を多少詳しく云ふと、こんな感じになるだらうか。
 シヴィアに単体の露光計を用意し、リバーサル・フヰルムを用ゐる方がよく、距離もきちんと測る方が、Dズイコーと云ふ優れたレンズの性能を存分に発揮させられるだらう事は勿論である。勿論ではあるが、それは、愉しい行為かね。間ちがひの無い写真を確実に撮りたければ、その辺の量販店の棚に並ぶデジタル・カメラ(デジタル・カメラに記録された画像を写真と呼んでいいのか、疑問はあるのだが、ここでは踏込んで考へない)を買ふ方が余程に確実だし、いやたとへば携帯電話に内蔵されたカメラだつて、近年のは恐ろしい性能なんだから。
 ペンSを使つて撮つた写真が必ずしも、よく撮れた写真になるとは限らない。が、高揚した気分でばしばしシャッタを切つた後、さて全体、どんな写真になつてゐるんだらう、とわくわく(乃至びくびく)出来るのは、ペンSユーザに与へられた特権ではないかと、わたくしは静かに主張したい。

 シリアル番号334562は、わたくしにとつて三度目のペンSである。
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# by vaxpops | 2010-12-23 12:00 | 画像一葉 | Trackback | Comments(0)
 丸太花道…"文學部書物研究科"といふ素敵な二ツ名のプレゼントを実は、頂いてゐるんだが…が、わたくしの正式なハンドル・ネイムである。

 読みは"マルタ・ハナミチ"で、多分、五年くらゐ使つてゐると思ふ。

 ある程度の期間、同じハンドル・ネイムを使ひ続けるとそれは、一種の皮膚的な感覚をもたらすもので、ペン・ネイムや俳号雅号は当人にとつて、親に与へて貰つた名まへにきはめて近い場所を占めるのではないかと思はれる。

 尤もわたくし…といふか、丸太花道の場合、ほんのちよつと、妙な来歴がある。

 元々それは、わたくし自身のハンドル・ネイムではなかつた。
 ある事情で、わたくしが自分の事を、それを他人の事として書く事になつたわけです。
 今回は自分じしんの話なので、一人称を多用してゐるけれど、本来それは好みに合はない。
 ゆゑに別人のノン・ノンフィクションとして書かうと思つたのが、丸太花道の登場するきつかけだつた。
 "他人"の話題と云ふ体を取つてゐた事情があつたから、その際は呼び捨て表記ではなかつた。
 皮肉と自嘲の意味を混ぜ込んだ当時の表記は"丸太花道先生"であつて、かれは物慾に非常に弱い人物として描かれた。

 ああ、そこの貴女、検索を掛けてもその頃の文章を見つけることは出来ませんよ。
 すべて削除されてゐますからね。

 "別人と云ふ設定の"キャラクタ、だつたわけだ、要するに。
 勿論かいうふ設定はわたくしの独創ではなく、たとへば百閒内田栄造が随筆に登場させた藤田百鬼園先生が思ひ浮ぶとほり、文學的な背景がある。
 ぱくりではなく、文學的背景と呼ぶと、中々恰好いいでせう。
 然し百閒先生は、百鬼園先生と最後まで"別人"のままであつたが、わたくしの場合、さうはいかなかつたわけで、この辺りはまつたくのところ文學的な態度ではないけれど。

 いつの間にか、お鍋の中の肉が煮崩れて仕舞ふやうに、とろとろと、わたくしと"別人であるところの(筈の)丸太花道"は一体となつて仕舞つた。
 尤も、生れのちがひは小さな痕跡を残してゐて、丸太花道への正式な呼びかけは未だ、丸太先生のままである。
 わたくしがえらいわけではないので、その点は誤解してはならない。
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# by vaxpops | 2010-12-22 09:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

10003-0003 vaxpopsと丸太花道

 わたくしのエキサイトIDはvaxpopsである。

 見れば解る通り。

 意味は無い。

 有体に云へば、何となく、響きで決めたに過ぎない。

 何故、vaxpopsの響きが気に入つたのかも、既に記憶から抜け落ちてゐる。

 いい加減なものですね、我ながら。

 長年、常用してゐるハンドル・ネイムは丸太花道であつて、本来ならばこの名まへを、きちんと表に出しておきたい。

 どうもエキサイトの仕様上、それが出来なささうに思はれるのが、どうにも釈然としないのだけれど。

 だつて、さうでせう。

 IDなんて飾りです、えらいひとにはそれが解らんのです。

 (咳払ひ)

 IDは裏で何かしらの管理を担当してくれればそれでよいのであつて、こんなのを表に出したところで、どうと云ふ事にも、ならないでせう…おそらくは。

 ハンドル・ネイムといふのは、わたくしを指し示す記号の一種だから、その辺がひとつ、アレだとちと、困惑させられて仕舞ふんである、
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# by vaxpops | 2010-12-21 09:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)

10002-0002 分類学

 Wikipediaによると

 「分類学(ぶんるいがく、英: Taxonomy)とは生物を分類することを目的とした生物学の一分野。生物を種々の特徴によって分類し、体系的にまとめ、生物多様性を理解する。 なお、広義の分類学では無生物も含めた事物(観念も含めて)を対象とする。」

 と定義されてゐる。Wikipediaを全面的に信用するほど、わたくしは無邪気でも愚かでもない積りだが、"分類学"に限れば、まあ大体、こんなものだらうと思へる程度の記述ではないかと思ふ。

 で。

 この記述で気になるのが、後半の部分ですね。

 「広義の分類学では無生物も含めた事物(観念も含めて)を対象」

 と云ふ事は(拡大解釈を重ねると)ウェブログのカテゴリもまた、分類学の一種に含まれるのではないか。
 本来、ウェブログに書かれた文章群のカテゴライズは、ある程度の数に達して(或はそのウェブログを終了さすに当たつて)(理想を云へば優れた読み手に依つて)行はれるべきことで、話を大きくすると、ある藝術家の研究に用ゐられる手法の仲間とも云つていい。さうですね、パブロ・ピカソ辺りが分かり易い例ではないだらうか。青の時代からゲルニカ、それ以降までかれの作風は細やかに分類されてゐて(その妥当性はこの際、問はない)勿論その分類にピカソじしんは関はりが無い。晩年のピカソがアトリエでこつそり、過去の自分の作風を年表式に分類してゐる姿を空想するのは、愉快ではあるけれど。

 話が逸れた。

 えーと。

 さうさう。

 ウェブログのカテゴリの話でした。
 百本、千本と記事が重なると、その質は問はないとして…文章は決して、数が質に転化しないものですからね…書き手の癖や好む話題の傾向が浮んでくる。
 望む望まないの話では勿論ない。
 使ひ古された"文ハ人ナリ"といふ云ひ廻しは、使ひ古されてゐるだけあつて、侮れない程度に事実を含んでゐるものなのだ。ナントカ占ひや心理学テストとか云ふお遊びより余程、それは精確なんだから、怖いですね、ええ、本当の話。
 ただ怖いと云ふのは、カテゴライズされた側の心理であつて、傍から眺める分には痛くも痒くも無い。
 どこかのたれかが苦心惨憺の挙句、書き上げたものを、他のどこかのたれかが、尤もらしく鹿爪らしい顔つきで切り分けたものには、他のどこかのたれかが何を考へてゐたのかも透けてゐるのであつて、さういふのに目を通すのは、密かな…いや寧ろ陰湿なと云ふべきか…愉しみであらう。

 だとすれば。
 だとすれば、なのだが。

 ウェブログの書き手であるところのわたくしが、予めカテゴリを設定するのは、読み手の密かで陰湿な愉しみを邪魔する行動になりはしないだらうか。
 まあ、わたくし如きの駄文を相手に、そんなことをするほど酔狂なひとはをられないに違ひないし、百万が一その(無駄な)労苦を厭はぬひとがゐたとしても、その結果が(広義の)分類学の中に収められるとは、とても思へないのだけれど。
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# by vaxpops | 2010-12-20 23:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)
 ばさらには婆娑羅などの漢字表記もあるさうだ。
 ばさら者とか婆娑羅大名とか、さう云つた言葉がご記憶にある方も、をられるのではないか。
 わたくしは"ばさら"と聞く度に、佐々木道誉を連想するのが常なのだが…随分以前の歴史もので、陣内某が演じてゐたと思ふ…どちらかと云へば、好き者にしか知られてゐない名まへかも知れない。
 言葉の使はれ方としては、後代の"傾奇者(カブキモノ)"に近い。
 反権力、華美、粋と教養。
 尤も、傾奇大名といふ呼び方はなく、その辺りにばさらとかぶきの違ひ…時代だつたり身分意識だつたり権力の在り方だつたり…が潜んでゐるのではないか、とも思はれるのだが、これは根拠の無い空想。
 まあ、ばさらだらうがかぶきだらうが、頭にいんちきを付けると、元の言葉に貼り付く印象が、一ぺんに逆転して仕舞ふ事には変はりが無い。

 マクガフィンには漢字の表記はないけれど、その代はりMcGuffinの綴りがある。
 ものの本によるとそれは
 「蘇格蘭で獅子を捕まへる為の」
 道具なんださうな。
 蘇格蘭は"スコットランド"なので、ちよつと字面が判り辛いと思はなくもないが、愛蘭が"アイルランド"で芬蘭が"フィンランド"なのを思ふと、何となく文字の構成に一貫性が見えてくるから不思議なものだ。
 それは兎も角、蘇格蘭人にさういふ需要があるのか、わたくしは知らない。
 そもそも蘇格蘭に獅子がゐるのかといふ疑問もあるが、それもわたくしは知らない。
 確かなのは蘇格蘭に獅子がゐるとしても、それを捕まへる道具を必要とする蘇格蘭人は、ごくごく少数派であることで、マクガフィンは、非常にニッチな需要を満たす道具なのであらうと云ふ事だ。
 世の中はまことに複雑に出来てゐる…と云ふのは大うそで、本来的なマクガフィンがどういつた意味合ひ、位置付けで使はれてゐるかは、ご自身でお調べなさい、なーに、時間のかかる調べものではない。
 アルフレッド・ヒッチコックを鍵にすれば、ちよつとした暇潰しくらゐにはなるだらう。

 何を云はんとしてゐるのか、よく解らない??

 さう、そこが狙ひ目なんである。
 曖昧で模糊で尤もらしくて、然も空虚。
 皆々様方よ、呉々もわたくしに騙されてはならない。
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# by vaxpops | 2010-12-17 00:30 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

一ばん最初はご挨拶

 辿り着かれた皆々さま方に、ご挨拶申し上げる。

 このウェブログには、幾つか、そしてささやかながら、ご注意頂きたい事どもがあるので、予めご案内申し上げる。

■仮名遣ひについて
 原則的には、歴史的仮名遣ひでの記述となります。
 今後も目を通さうとお考へになられた、奇特な少数派には、諦めて慣れて頂く以外に方法はありません。
 尤もわたくしの仮名遣ひは、きはめていい加減なものであり、一部は意識して間違つた仮名遣ひを用ゐる場合もありますので、併せて用心が欠かせません。

■一人称について
 原則的には"わたくし"を使ひますが、文章によつては"私"や"おれ"となる事もあらうかと思ひます。

■コメントやトラックバックについて
 何れもこちらから積極的に拒む事はしない積りですが

 ・エキサイトブログをお持ちでない方。
 ・お持ちでもそれを公開されてをられない方。
 ・お持ちでかつ、公開されてゐても、コメント自体が"記事を読んでゐない"と判断される方。

 は、基本的に"をられない方"だと看做します。
 ※このウェブログ開始以前から存じ上げてゐる方は、例外と致します。

 ・コメント、トラックバック、ご自身のウェブログ等での引用や"お気に入り登録"はご自由に。
 ・然し著作権の類は一切放棄致しません
 ・またコメントその他で不利益を蒙つても、わたしは責任を負ひません。
 ・わたくしの発言への異論反論は拒否しません。
 ・但し上記の場合、そちらにて、じつくり議論さして頂くことがあるかも知れません。

 わたくしは"クレメンティア"を旨としてをりますが、莫迦に対してのそれは持合せがありません。
 莫迦は無視を基本の態度と致しますが、こちらが十分に攻撃的な気分の時は、その限りではありません。

 なほ、エロであるかないかに関はらず、業者のコメント・トラックバック等は無警告・無条件で見付け次第、削除します。
 また業者でなくとも、わたくしが不適切と判断したコメント・トラックバック等も同断とし、いづれの場合においてもそれによつて何らかの損失・不利益が発生したとしても、わたくしは一切の責任を負ひません。

■更新頻度について
 目標、週一回以上…と今は申し上げておきませう。
 わたくしは浅学菲才の身であるので、さうさう、話の種を多く持つてゐるわけではないのです。

 では、これより、ゆるゆるのお付合ひをお願いし、改めてご挨拶申し上げる。
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# by vaxpops | 2010-12-17 00:00 | Trackback | Comments(0)