いんちきでさらにマクガフィン

by 丸太花道@乳軟部

タグ:思ひつき ( 66 ) タグの人気記事

讃歌

こまつた時は鯖味噌罐に頼る。

素早く更に云ふと安直に頼る。

安直で旨いのだから仕方ない。

廉な購入が出來るのも有難い。

湯煎すればもつとうまくなる。

湯煎しなくてもうまいけれど。

鯖はごはんのお供、麦酒の友になるし、味噌にはマヨネィーズを混ぜるだけで、和風のドレッシング擬きになる。

精々が百円位だから贅沢ではないとして、直ぐに飽きる味でなく、メーカーで微妙或は大きく異なるのも宜しい。

些か下品に直箸で、またはお皿にあけて形だけは調へて、どちらも鯖味噌罐を味はふには望ましい態度であるか。

鯖と味噌と罐の麗しい合一よ。

豪奢でなく華麗でなく美味の。

心急く空腹にひと罐のあらば。

甘辛く堅くやはらかな肉と骨。

箸を持ち麦酒を開けるその時。

貧寒の夜は居酒屋へ姿を変ゆ。
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by vaxpops | 2017-03-13 07:15 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)

フヰルムカメラで遊ばう

 第一にフヰルムカメラは事實上、滅んでゐる。
 第二にフヰルムカメラを私は、隠居してゐる。
 なのに"フヰルムカメラで遊ばう"と云ふのはどうも烏滸の沙汰ではないかとも思はれるが、さういふ些細な点に拘泥するのは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ…この際あまく見てもらひたい。

 最初に考へるべきは"事實上、滅んでゐる"点で一部には反論もありさうだが、数奇者向けだけが残つてゐると見立てるのは誤りではない筈だし、数奇者は常に少数派でもある。さういふカメラは絶滅目前の野性動物と同じで、人工的に繁殖させる企てを継續させなければ消え去つて仕舞ふ。ただ数奇者相手の商ひでも商ひとしては残つてゐるから、その気になればフヰルムカメラを使へなくはない。割高だし不便でもあるけれど。
 不便といふのは商ふお店の激減と、そこで必要な時間が激増したことで、簡単に云へば撮つたその日の内に、その日の寫眞で遊びにくくなつた。逆に云へば、時間を掛けるのを前提にすれば、フヰルムカメラの遊びはまだ成り立つ余地がある…と書くと、前提が何かをかしくないかと感じるひとが出てきさうに思はれる。
 そこで説明すると私の属するニューナンブは"スーパーどんたく"でフヰルム対決をするのが慣例だつた。一本のフヰルムを半日掛りで撮影をして、当日の現像プリントに出し、その夜の肴にする趣向である。デジタルカメラのやうにその場で画像を確認出來ないのを逆手に取つてゐて、互ひに何を見て、どんな寫眞になつたのかが、何時間か後になつて判るのがいい肴になる。それが前述の事情で實施が六づかしくなつた。フヰルムカメラを隠居した私だから、デジタルカメラに移行していいのだが、それだとこの稿が成り立たない。

 カメラ…寫眞を始めたのは四半世紀余り前だつたのを思ひ出した。その頃の私にはおつき合ひをしてゐた女性がゐて、デートの際には必ずカメラを持ち出したのはいふまでもない。あちこちに出掛けては寫眞を撮つて、プリントを次のデートで見せる。彼女はその中で気に入つたのを何枚か撰ぶから、それをプレゼントする。あの寫眞はどうなつてゐるのだらう。かうして文字にすると恥づかしいね。
 恥づかしいが、デートと次のデートの間も云はば寫眞の樂しみだつたのではないか知ら。その場で一緒に液晶画面を覗きこめるデジタルカメラの樂しみはそれとして、プリントを家で見直しながら、どれが気に入られるだらうと考へるのは、何だか幸せな気分だつた記憶がある。都合よく修正が掛つてゐるだらうとは思ふが、そこを自分で認めると身も蓋もなくならうと云ふものだ。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、丸太にもそんな時期があつたのだねと微笑むに留めて頂きませう。
 ここで考へたいのはフヰルムで撮ると待たなくちやあならないのだが、その待ち時間はデジタルカメラでは味はへない点。では待ち時間そのものを、やむ事を得ないのではなく、その一面は認めるとしても寧ろ、積極的に遊びの要素とするのがよいのではないか。撮るのと現像プリントと見るのを分ければ樂しみ…肴にする機会を増やせるでせう。もし撮る時間自体が長大になつても、その長大な時間が記録乃至記憶に変ずる(可能性或は期待がある)わけで、間延びするだらうか。併しフヰルムカメラ一台ですべてをまかなへはしないから、どうにかなるだらう、きつと。
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 と、ここまで書いた私は自縄自縛の危険を感じてゐる。

 フヰルムカメラの徒花と呼んでいい規格にハーフサイズといふのがあつた。キヤノン・デミ、リコー・オートハーフ、コニカ・アイや京セラ・サムライ。そしてハーフサイズの原型、元祖で頂点のオリンパス・ペン。
 ライカ判の半切で使ふカメラなので、フヰルムの撮影可能な枚数に対して倍の数が撮れる。長い時間を掛けて撮るなら、かういふカメラの方がプリントの段階で面白がれる度合ひが高くなるのではないか知ら。正月に入れたフヰルムが次の正月まで残ると揶揄はれたカメラだが、まさかそこまで極端にはならないとしても、数ヶ月くらゐは必要さうなところが好もしい。
 オリジナルのペン系統なら(意外なほど重いけれど)持ち出すのに躊躇を感じない大きさだし、少し凝つた眞似をしたければペンFといふ、世界に類例のない変態…誉め言葉ですよ、念の為…カメラだつてある。
 ペンSと同Fは以前に持つてゐて、上から見た時の操作部位の配置がほぼ同じだつたのは非常に感心した。最初の設計が正しく、またスタイリングが優れてゐた證拠ですね、これは。知る限り、同じ方向性での成功例はライカとR1からGRに續くリコー以外になく、フヰルムの愉快と樂しみに設計とスタイリングへの敬意を加へれば、SでもFでもペンは有力な候補に成り得る。…のだがフヰルムカメラを隠居した私が、こんなことを考へ出すのはまつたくのところ、あやふい。
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by vaxpops | 2017-03-09 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

ありふれた

 竹輪。
 人参。
 それと赤ウインナ。
 ごくありふれた煮物…つき出しなのだが、ちよいと渋い好みだねえと思ひたくもなる。
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 尤もありふれてゐるのは我が邦の話だけかも知れない。ロンドンやパリやアムステルダムで一ぱいひつかけるとして、かういふ渋好みな小鉢乃至小皿は出てくるものなのか。鰻の肝やら身の欠片を甘辛く色濃く煮つけたのをつまみつつ、ギネスやバスのパイントを呑むのはきつと愉快にちがひないのだが。それともマドリッドに行かねばならないか。あすこなら烏賊や貝をオリーヴ油で炒めあげたつき出しに期待出來さうな気がする。さういふのをつつきながら、葡萄酒をがぶがぶ呑るのもまた、惡くない愉しみの筈である。
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by vaxpops | 2017-03-07 08:00 | 飲食百景 | Trackback | Comments(0)

不見転

 さう滅多にないが、不見転で呑み屋に入ることがある。知らない町中で呑みたくて堪らないと思はない限り。或は見知つた町でも気の迷ひで何だか通ひ馴れたお店で呑む気分ではない場合。繰り返すがさう滅多に感じることはなく、私くらゐの年齢になると、進取の気性が乏しくなるものだからやむ事を得ない。ただ些か開き直ると、何度も通ひたくなるお店はさうさう見つかるものではないし、それでなくても好もしさを感じる幅は狭くなつてゐる。詰りうまい肴、そこそこの酒精、快い客あしらひが揃つてゐなければ(それで廉なら云ふことはない)、宜しいものだと思へないのだから、不見転を極力避けようと考へるのは寧ろ道理ではあるまいか。

 それでも不見転で呑む夜をなくすのは、意外の悦びから離れることでもあつて、絶やして仕舞ふのは詰らない態度である。店構へ、暖簾の具合、中から漠然と伝はる匂ひ。それで稀におやと思へる時がある…かう書くと、もう少し具体的に書き玉へよ、君は文章が表藝なのだらうと云はれるのではないかと思ふが、確かに表藝と宣してはゐても、それと文章が巧いかは別の問題である。つけ加へれば職業文筆家でも、呑み喰ひに纏はる微妙な感情を記すのは三大困難のひとつ(残りは惡くちと下品る話題)で、信じられないなら近所の本屋で食べものに関はる文章に目を通してみ玉へ。サヴァラン教授や檀一雄、吉田健一といつたいはばクラッシックは例外だが、丸一日探してひとつ見つかれば上々だと断言出來る。それくらゐの難事を私のやうな浅學菲才が書けたとすれば偶然、いや偶然ではなく奇瑞に恵まれた結果である。
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 だから漠然のまま、兎に角おやと感じるお店が稀にあるのだといふことにして、そのおやと思つたのが果して正解だつたかどうか。それは概ね、お店に入つた時に素早く、愛想よく迎へて呉れるか…どうぞこちらへと席を勧めるのでも、どうぞお好きな席へと云ふのでも…で最初の印象が、こちらの様子を伺ひながら、何を呑みますかと尋ねる間の取り方で次の印象が決る。
 最後につき出しが口に適ふかで、ここが可也り大事な点になる。念を押すが別に趣向を凝らした小鉢を用意してもらひたいと考へるのではなく、かういふところを蔑ろにしないかどうか。私のささやかな経験から云ふと、つき出しが口に適へば他の肴も大体はうまい。うまいといふ云ひ廻しには無理があると思はれるかも知れないが、他に基準を用意する方がもつと無理になる。

 出汁の具合や火の通し加減。
 塩や胡椒や醤油の使ひ方。
 葱や木ノ芽のあしらひ具合。

 たとへばそんな風な細分化は出來なくもないとして、細分化したら解り易くなるとも限らない。一枚の寫眞、一回の演奏に心を打たれ、それを幾つもの要素に分割した話をして、伝はるものだらうか。化学の分野なら兎も角、何が何%といふ手法を呑み喰ひに応用するのは些か強引に思へる。色々の渾然がつき出しの旨さ…そこから期待される肴の旨さの素で、そこにはその夜の気分やら空腹の具合、或は晝に何を食べたか、また独りなのかたれかがゐるのかが含まれるし、それらで大きに変化する。それらが塩梅よく一致した時、不見転だつたお店はその町に足を運ぶ機会には通ふべき一軒へと進化する。さう滅多にないことで、うむ合格だと呟けた夜はその町の格まで上がる。
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by vaxpops | 2017-03-06 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

二重の疑念

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 やる気があるのかと疑念を抱きたくなる。

 ただ"食べればハッピー めでたい"の惹句で使はれてゐる活字の

『まあこの程度でかまはないか。といふか他の活字、よく知らないしね』

感覚は、寧ろ感心すべき箇所かとも思はれて、となるとこれは巧妙きはまる包装なのかと別の疑念が浮んでくる。

 まさか、ね。
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by vaxpops | 2017-03-05 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

横たはる

月が眠る。
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といふのが大嘘なのは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にとつて自明の筈で、瓦斯コンロの火なのでありますよ、これは。

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by vaxpops | 2017-03-04 08:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(2)

指示代名詞

 散らかして、撮つて。
 少し計り、加工して。

 これだけのことで、何となく思はせぶりでそれつぽくなるから、寫眞…画像といふのは不思議なものではありませんか。
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 もつと不思議なのは、それつぽいの"それ"が何を指してゐるのか、さつぱり解らないことで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、これは一種の詐欺と考へる方が宜しからう。
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by vaxpops | 2017-02-25 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)

虚々實々の下田行⑤

 世の中には驛辮といふものがある。驛(の)辮当または驛賣辮当の略だと思はれるのだが、ここは驛辮でなくちやあ、しまらない。率直なところえらく割高だし、抜群にうまいかと云へばさうでもないのだけれど、特別急行列車に乗る以上、欠かすわけにはゆかない。それにうまいかと云へばさうでもないのは、特別急行列車に乗らないで喰ふ時の話で、そんな莫迦げた眞似をするひとは、さうさうゐないでせう。裏を返せば正しい状況…即ち特別急行列車の乗客となる場合の驛辮はまつたく樂しみだしうまいもので、驛辮を用意しない撰択は有り得ない。
 驛辮には名物と呼ばれるものとさうでないのがあつて、どちらかといへば私は後者を好む。名物驛辮は確かにうまいのだが、知る限り一点を豪華にする傾向(たとへば米澤牛)があつて、花やかさに欠けるきらひがある。驛辮はお辮当ではあると同時に麦酒のつまみにもするのだから、これではちつと困つて仕舞ふ。近所のお辮当屋で買ふなら食事とひとつと考へて済むが、驛辮のややこしさ肴の兼用が要求される点で、さうすると好もしく思へるのは幕の内辮当ではないか。かういふ話を随分以前にも書いた気がするが、仮にさうだつたとしても随分以前なのだから、もごもご誤魔化せばよいか。

 世界の鐵道でどんな種類の驛辮があるのか、私は知らない。ただ漠然と想像するに我が邦の幕の内辮当のやうに賑々しいお辮当は少ないのではないかと思ふ。美食と云へば佛國と中華が浮ぶけれど、かれらが食卓のお皿には熱情を注ぐのは容易に理解出來るとして、鐵道のお辮当に同じ熱を持つとは考へ辛い。パンに何かのペースト、ハムとチーズや、鶏肉とナッツを炒めたのに燻製か塩漬け、まあ精々がそのくらゐで、まづくはなくても羨ましくもない、そんな感じがされる。實物を食べたら、丸でちがふ意見になるかも知れない。
 併し我が邦のお辮当に対する情熱は大したものと云ふべきで、その辺で買へる何百円かのそれでもそれなりにおかずが用意されてゐるし、盛りつけだつて一応は気が配られてもゐる。その気の遣ひ方は、實に盆栽のやうな印象を禁じ得ず、美的な方向の終着点と思へる場所に着地したのが松花堂。桃山趣味…身も蓋もなく云へば寄席趣味に行き着いたのが幕の内辮当ではないかと思はれて、やうやく話が戻つてきた。長い道のりだなあ。

 ところでその幕の内辮当はまことに奇妙に思はれる。和食と呼べないのはまあ妥当として、日本食かと云へばしつくりしない。中華や佛國式でないのは当然だから、矢張り日本食の範疇に入れざるを得ないのだらうが、では日本食のどこに入れるのが適切か知ら。こんなことで頭を悩ませるのは閑な證なのはよく承知してゐても、気になるのだから仕方がない。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には眞似してもらひたくないね、かういふ姿勢は。
 生物學の分類で、一属一種(用語としては不正確ですよ、念の為)といふのを思ひ出した。ある分類に属するのが特定の一種だけの例は幾つかあるのだが、絶滅した生物だと他に分類出來ないから(新たに)ひとつを割り当る場合もあるさうで、何となく凄むを感じる。さういふ分類の考へを食べものに緩用すれば、眞つ先に獨立したカテゴライズをされさうな代表としてカレー饂飩が浮んでくる。あの非常に特殊な麺料理はカレー饂飩といふ獨立した一門を作らなければ日本食の中に位置づけるのが困難で、この点は稿を改めて無駄に熱く書かうと思つてゐるが、我らが幕の内辮当もカレー饂飩同様に獨立の一門を用意するのが望ましいのではなからうか。

 ごはん。

 胡麻塩。

 櫻でんぶ。

 鶏そぼろ。

 かりかりの小梅。

 鰤の照焼き。

 玉子焼き。

 椎茸と人参を炊いたの。

 金平牛蒡。

 コロッケ。

 ハンバーグ。

 海老フライ。

 白身魚のフライ。

 ナポリタン・スパゲッティ。

 ポテトサラド。

 焼賣。

 肉團子。

 春雨の中華風ドレッシング和へ。

 書き出した種々は思ひつくままなのだが、これらがちんまりと、併し賑々しく勢揃ひするのは幕の内辮当くらゐで、これが当り前の日本食なら、も少し全体の均衡を調整するにちがひない。かういふカーニバル的な食べものを從來の範疇に収めるのが無理のある話で、日本食属の中にカレー饂飩目と並べて幕の内辮当目を用意するのがよからうとする私の主張は、さうさう無理のあるものではないでせう。

 幕の内辮当がカーニバル的とすれば、それを味はふのは矢張り、カーニバル的を場所が好もしいとするは当然の帰結と云ふべきで、やつと特別急行列車が登場する。特別急行列車を旅行の手段ととらへるのは誤りではないにしても理解としては単純に過ぎて、ここは"毎日(日常、或はケ)からさうではない場所(非日常、或はハレ)を繋ぐもの"と考へたく、ハレはカーニバルとほぼ同義と受け取つて差支えへはない。カーニバルには酒精と食事を欠かしてはならず、それは非日常…ハレへの供物と位置づけられる。ハレへの供物なのだからそれは花やかでなくてはならぬ。何やら循環論法みたいになつてきたが、ハレ…花やか…賑々しさを象徴させるのに、幕の内ほど似合ひのお辮当はなささうに思はれる。

 そこでここからが本題。
 何しろ"虚々實々の下田行"なのだから、そこを避けるわけにはゆかぬ。
 下田…伊豆急下田驛を目指すのは小田原から乗車する特別急行列車の"踊り子"號で、大体一時間半から二時間くらゐ掛かる。この一時間半乃至二時間が詰り、ハレへの通り道となる。もつと云へば小田原驛はハレの入口と位置づけられる場所となるから、ここでどんなお辮当を買ふかはきはめて重要な課題になるだらうとは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも十二分にご想像頂けるにちがひない。

 上を見ると、(情報自体は新しくないけれど)賣店は入れない場所も含めて驛の規模に似合ふくらゐの数があると気づかされる。考へると小田原驛は東海道本線だけでなく、東海道新幹線に小田急小田原線、箱根登山鐵道、伊豆箱根鐵道大雄山線にあるのだから、賣店が少ないのは寧ろをかしい。上のリンク先を更に見ると、どうやら幅を利かしてゐるのは[東華軒]らしいことが判つて、ではどんな辮当があるのか知らと確かめてみる。

 中々ヴァラエティに富んでゐるなあ。但しクラッシックな幕の内辮当が慾しければ、[崎陽軒]といふことになる…ここで役に立たない知識を披露すると、"崎陽"は長崎の異称。日本風に変化した中華料理は横濱でも神戸でもなく、長崎に源流があるのだね…が、[崎陽軒]は横濱スタヂアムでベイスターズを応援しながら食べるのが一ばん旨さうで、但し野球場は一種のハレだから、特別急行列車同様、似合ふ可能性は高く、ここは悩ましい。

尤もやああれが旨さうだ、いやこれも捨て難いぞと賣店をうろうろするのもハレの樂しみである。従つて当日の天候やお腹の具合、予想外のお辮当に気を惹かれての気分の変化で、おもむろにこれと決めるのが正しくまたあらほましいのは云ふまでもなく、今から目星をつけておかうとするのは、カーニバルの礼儀に反する態度であらう。

 さういふことは十分に理解してゐるのだが、何せ小田原驛での乗り替へ時間は限られてゐる。せめて大まかな方向くらゐは決めておかないと、手ぶらで"踊り子"號に駆け込む破目になりかねない。

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by vaxpops | 2017-02-24 07:00 | 企画万巻 | Trackback | Comments(2)

沈黙と饒舌

 ある寫眞が一枚あるとする。その一枚の寫眞を見るひとがゐるとする。その一枚の寫眞と見たひとの間に何かしらの…肯定的否定的はこの際問はないとして、何かしらの反応があつたとする。寫眞が表現(もつと大きく云へば藝術)になるとすればこの瞬間或はこの瞬間しかないのであつて、音樂でも絵画でも彫刻でも映画でもその辺りの事情は変らない。勿論不肖丸太が弄する文章だつて例外ではなく、無人の平原に打ち捨てられたオデュッセイアに何の値うちがあるだらう。

 簡単に云ふとそれ、表現乃至藝術は作り手と観る(聴く)側の共犯でしか成り立たない。

 さういふ視点に立つと、作り手は表に出して終り、後は共犯者の登場を待つのがあらまほしい態度となるのは改めるまでもなく、少なくとも文章に関しては詩を例外にすれば誤りではないと思はれる。このウェブログで云へば高校を卒業したくらゐの、詰り平均的な讀解力があれば理解出來る(厭み半分につけ加へると、歴史的仮名遣ひだから讀みにくいとは云はせない。高校卒業くらゐの讀解力があれば、普通の口語文と変らないし、もし本気でさう思はれるなら、それは現代日本語を理解する能力が致命的に欠如してゐると断定してほぼ間違ひない)から、意図的にさうされない限り、誤解曲解される心配はない。誤解曲解されたとすれば、讀者のおつむが余りにもアレだつたといふ極端な例外を除けば、さうされる程度の文章しか書けなかつた丸太が惡いんである。

 では寫眞ならどうかといへば、必ずしも作り手の要因と云ひきるのが六づかしい。解釈の余地が文章…散文より遥かに広いからで、抽象性が高いと云ひかへても宜しからう。
 抽象性の良し惡しでなく、それが受け手の解釈の幅を広げ(得)るといふ話である。
 さてそれでも作り手は沈黙を"守る"のがあらまほしい態度だらうか。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、閑でひまで何もすることのない午后に考へてもらひたい。それで考へたことを教へてもらひたい。讀者諸嬢諸氏の見方がどうなのか、非常に興味がある。序でながら、些かなげやりなことをご容赦賜りたい。
 この辺りまでが前置きで、私は寫眞に関する限り、表に出した後
「いやその寫眞はね」
と話をする…後出しをするのにまつたく抵抗を感じない。[いんちきばさら]で寫眞を上げつつ、その説明に終始することは殆どない筈だが、それは意味がないどころか、無駄だと思つてゐるからに過ぎず、隙があればあんなことを考へこんな狙ひだつたと、それがうまく運んだか失敗に終つたかと話をしたい。
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 こんな風に書けばきつと
「それは狡い。寫眞だつて(文章と同じく)表に出したら沈黙を守り、受け手の解釈に任せるのが正しい態度だ」
と批判されさうだが、私の場合(我が親愛なる讀者諸嬢諸氏とは異なる立場)、文章が表藝、寫眞は余技で、余技であるからそこに表現だの藝術だのの意識または気分はない。有り体に云へば遊びであつて、不眞面目と非難されるのはこまる。遊びなのだから眞面目に取り組むのは当然で、その遊びについて饒舌になる、ならうとする、なつて仕舞ふのは非難される態度だらうか。

 何も云はない。沈黙を守り續けることで受け手の解釈を広げ、豊かな"共犯関係"を結ばうとするのは勿論ひとつの手法。私はそれを否定する者ではない。それと相反する方法があつたつてかまはないし、相反する方法が"共犯関係"を拒むかといへば、それはまた別の話ではないかと思ふだけのことで、讀者諸嬢諸氏は如何お考へだらう。
 たとへば今回の画像は何かの意図があつたわけでなく、仮にあつたとすれば、余りにも捻りのない宣伝文句に苦笑ひが浮んだくらゐしか思ひ出せない。それをトリミングしてモノクロに変換して周辺減光をかけただけである。さうすると何となく勿体振つた雰囲気になつたのだが、かういふ画像を使ふなら、饒舌を添へなければ成り立ちさうにない。ある寫眞が一枚あるとして、その一枚の寫眞でどんな風に"共犯関係"を結ぶかには色々な手法があつて、その云ひ訳も色々とあつて、私の立場からそれを書いてみた。

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by vaxpops | 2017-02-14 07:15 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(4)

カタチとシルシ

 イコン…iconときいて、即座にツァイスを連想するひとはきつと少数派だとは思ふのだが、この[いんちきばさら]に限つては例外かも知れない。寫眞…カメラ…レンズ好きにとつてツァイス・イコンは特別の銘の筈で、たとへばハッセルブラッドSWCの38ミリ・ビオゴン、RTSコンタックスの50ミリ・プラナー、Gコンタックスの16ミリ・ホロゴンと挙げればきりがない。だからこれ以上は控へるし、第一ツァイス・イコンは今回の話と関係がない。

 それでイコンとは何ぞやと考へるとそれは象徴である。カタチとシルシ。漠然とした何事かを明瞭に示す為の記号(のやうな)何物かと云へば解りにくいけれど、基督教の宗教画を思ひ浮べればよささうにも思ふ。宗教画のすべてがさうだとは云へないとして、最上のそれが持つ美しさは理窟や神學を飛ばして、眞善美をぢかに感じさせる。その"ぢかに"がイコンの役割…靱さではないか。尤も丸太の勝手な解釈だから、イコン學者につつこまれるのはこまつて仕舞ふ。

 かういふ(丸太には似合はない)ことを考へたのは画像の所為で、西多摩の某酒藏で撮つた。
 甑…コシキだらうと思はれる。
 粗雑に云へば酒米を蒸す器械で、酒醸りの大元と受けとつていい。何斗だか何石だか、我われの想像には収まらない量にちがひなく、立ち並び立ち上る湯気を思ふと、壮観なのだらうなと思はざるを得ない。蒸された米が醗酵し、搾られ、濾されて、肴と共に登場する。さういつた連想を刺戟するのがこの極端に図案化された画像で、お酒を示すカタチとシルシ…即ちイコンと呼んでいい。
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 すりやあ丸太が呑み助だからだよと云はれたら、頭を掻いて誤魔化すしかないのだけれど。
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by vaxpops | 2017-02-09 08:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)