いんちきで、さらにマクガフィンだつた。

by 丸太花道@乳軟部

あなうなぎ

 今では滅んだ文學の形式に狂歌といふのがありますな。有名なところで云へば大田蜀山人の

あなうなぎ いづくの山のいもとせを 裂かれて後に 身を焦がすとは

辺りでせうか。一讀、諧謔のたれが焦げる匂ひのする辺り、流石蜀山人は手練れだなあ。

 ところで多くの狂歌は(また川柳もさうなのだが)現代の目で讀むと詰らない。これは仕方のない面があつて、一ばんの理由はそれが詠ひ散らされた時代を色濃く反映するからでせう。現代の川柳も百年後の人びとには、訳が解らなくなつてゐるだらうと想像がつく。それと同じ事情である。

 併し詩の複雑さに我われが不慣れになつて仕舞つた点は、もつと大きな事情ではないでせうか。狂歌は確かに和歌のパロディだから、和歌の手法を使つて世間と自分を笑ひのめす。和歌の技法は大きく、言葉遣ひ多層的な意味を持たせることと本歌取りと考へていいでせう。

 たとへば上の蜀山人で解り易いのは"いづくの山のいもとせを"の部分だらうか。ここでは"山の芋"と"妹と背"が二重になつてゐる。前者は鰻は山の芋が変じたといふ俗説が底にあつて、"あなうなぎ"を受ける。後者が示す(私の)愛ほしいあなたの意はおそらく蜀山人の時代でも、和歌の中でしか目にしない云ひ廻しだつたらう。かうなると、續く"裂かれて後に 身を焦がすとは"が鰻が裂かれ焼かれる様子と、古風な相愛の仲が裂かれ恋心に身をやつす様が二重寫しになつて、悦ばしいのかもの悲しいのか解らなくなつてくる。まつたくややこしい。

 併しややこしいのがいけないかと云へば決してさうではなく、表側の情景と裏側にある(一種の)愛しみを一体にするのが、我が邦短詩文學の伝統藝ではなかつたか。まあ狂歌の場合、そこに和歌の素養も求められ、我われは古今新古今から遠く離れて仕舞つたのを思ひ知らされる。それは冗談にも教養が必要だつた時代から離れたのと同じなんであつて、我らが蜀山人もこれでは頭を抱へざるを得ないか。

 ここまで書いてその文學的教養が丸太にも欠けてゐることを證立てる疑問をひとつ。"あなうなぎ"の歌には本歌がある筈で書いてゐる間ぢゆう、思ひ出さうとしたのだが、どうしても出てこなかつた。博學の讀者諸嬢諸氏には是非ともご教示をお願ひしたい。
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by vaxpops | 2016-10-08 07:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)
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