いんちきで、さらにマクガフィンだつた。

by 丸太花道@乳軟部

朧の如き昆布なり

 月見饂飩乃至蕎麦といふのがありますな。好物である。饂飩も蕎麦も玉子も好物なのだもの、月見饂飩乃至蕎麦を厭ふ理由がない。ことに寒い季節に出されると何だか嬉しいもので、中秋の名月を連想するのだらうか。
 余談ひとつ。チユウシユウは中秋とも仲秋とも書きますが、これは意味がちがふ。前者は旧暦の八月十五日…來年の新暦でいへば十月四日ださうな…、後者は旧暦八月…旧暦の秋は七八九の三ヶ月でその真ん中の意…を指すさうで、ややこしいね、これは。
 余談はこれくらゐにして、月と秋(と紅葉も?)は我らがご先祖の愛した風景で、それを俗に崩した工夫はたれの發明だらう。玉子をぽんと割り入れるだけなら、その辺の小父さん小母さんでも思ひつけさうだが、それを月見と見立てたのは風雅な名づけである。尤もその辺の小父さん小母さんだつて、和歌のちよつとした心得くらゐ持つてゐたのが江戸期の都市だから、莫迦にしてはいけないだらうな。

 どうしてこんな話を始めたかといへば、月見(と略しますが)には本來とろろ昆布が必要なのだといふ説を思ひ出したからで、玉子にひと刷け、被せるのださうな。これが月を隠す朧の雲なのは改めるまでもないでせう。月見なのだから月を見せたいところを、おぼろに隠すところが如何にも奥床しいね、秘してこそ花か。
 とここまで書いて思ふのは、もう何年もとろろ昆布を食べてゐないなあと気がついたからで、詰り幼かつた、または少年だつた私にとつて、あれは比較的にせよ馴染みのある食べものだつた。祖母が作つてくれた俵のおにぎりに一枚のとろろ昆布、旨かつたなあ。土曜日の午后だつたと記憶してゐる。一体に孫にあまくて、ただの一ぺんも叱られたことがないのだが、この話はしだらなく續くので留めませう。何年か経てば会ひにゆける。

 昆布をかためて削るといふ發想はどこから出てきたのか。元はどうも蝦夷から堺への輸送時に出來た黴の部分を使はない工夫だつたさうだが、当り前に考へると、その部分以外を切り落とす方が樂ではないだらうか。
 そこで連想されるのは削節である。腐敗を嫌つて干し堅め、それを削る工夫は鰹かどうかは別として干し魚に淵源があるだらうとは想像が容易だと思はれるし、さういふ前例があれば応用は出來るだらう。兄妹とまではゆかなくても、親戚くらゐにはなりさうな気がする。かういふ方式で作られる食べものは外の國にもあるのか知ら。たとへば中華料理にはわざわざ干してから、水またはお湯で戻して、煮て焼いて揚げてなどと凝る気配が濃厚だが、そこには"せざるを得ない"といふ切迫した感じはしないね。かれらの食事はあくまでも豪壮で、料る感覚がどうもちがふのではないか。

 中華料理の花やかさはそれと愛でまた羨めばよいとして、とろろ昆布の地味さ加減だつて捨て難い。東都では見掛けないのはおぼろといふ饂飩にとろろ昆布を乗せたもので、まことにしみじみとした一ぱいなのだが、江戸流の粋から見るとその地味具合が辛気くさく感ぜられるのだらうな。とは云へごく淡くちのお出汁にちよつぴりの醤油、そこに一枚のとろろ昆布を加へるとお吸物の完成で、これを料理と呼んでいいのかどうか。そこは大きに疑問ではあるけれど、少し重め宿醉ひの朝にお味噌汁すら躊躇はれても、これならまあ何とかなる。饂飩も蕎麦も抜いて玉子をあはせれば、中秋でなくても月見を愉しめる。
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by vaxpops | 2016-12-11 07:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)
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