いんちきで、さらにマクガフィンだつた。

by 丸太花道@乳軟部

密かな樂しみ

 前後は覚えてゐない。昔の日本人は随分と歌を詠んだ、といふ話。名も残らない、和歌を習つてゐる少女が、嬉しいことがあつたと詠み、哀しいことがあつたと詠み、先生に褒められたといつてまた詠んだ、そんな話。

 かういふ風潮がいつ頃まで残つてゐたか、私は知らない。永井荷風は断腸亭に揮毫を求められたと記してあるし、内田百閒もその著書に幾つかの句を載せてゐる。また丸谷才一にもユーモラスなものがあるが、いづれも發句であつて和歌(乃至短歌)ではない。それでもこの世代の人びとに、何かと云へば詠む習慣は(薄つすらでも)あつたのは事實と思はれる。ここから考へるに、明治から大正にかけて産まれたひとには、多少なりとも歌ふ感覚はあつたのだらう。

 今ではゐないでせうね、かういふひと。辛うじて川柳が余命を保つてゐる程度ではないか知ら。それに川柳詠みといつても、何かにかこつけ、一句を捻つてゐるとは思へないから、五七五(七七)の短詩は、滅んだのに等しいと見立てても誤りにはならないと思へる。

 不思議ではある。
 短い文章(の一種)だから、現代向きの形式だと思ふんだが、ちがふのだらうか。

 かう書くと、古くささうとか、季語だの枕詞だの何だのと、規則が解らないとか、反論または文句が出てきさうで、古くささは兎も角、諸々の規則の方は、私もさう思ふ。併し知らなければ詠めない理由があるわけでなく、序でに知らうとすればよいので、支障があるとは云ひにくい。
 發句の形式でも短歌の形式でも、取敢ず、字を並べてみればよささうな気がされる。勿論それは字数だけがあつた、最初は変形の散文だらうが、別にかまはないでせう。偶には言葉が上手く嵌まりこむ瞬間だつてあるだらうし、 定型詩の方が、さういふ機会に恵まれる筈である。

 ここまで云へば、勘のすすどい我が親愛なる讀者諸嬢諸氏のことだから、ははあ丸太は自由律の散文詩に苦手を感じてゐるのだな、と推察されるだらう。
 正しい。
 僅かな例外を覗けば、自由律の散文詩は解らない。多くの場合、一讀して、これは果して詩なのか知らと不思議になつて仕舞ふ。尤もらしい改行と、意味の重ならない抽象的な言葉と、貧弱な譬喩。そんな風に感じるのが殆どで、迷惑だよね、ああいふのを讀まされるのは。いや失礼。

 とは云へ、仮にも詩を書かうかとするなら、言葉の撰び方は慎重丹念が求められるでせう。そんな場合、好き勝手な形式より、定まつた型で工夫を凝らす方が好もしいと思へるんだが、をかしな見立てだらうか。
 そこまで云ふなら丸太はどうなのか。詠んでゐるのか、と疑問を持たれるのは当然。結論をそこで申し上げると、詠んでゐる。但し他人さまに見せられるかどうかは、まつたく別の話。これは丸太の密やかな娯樂なんである。
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by vaxpops | 2017-07-06 07:00 | 徒然諸々 | Trackback | Comments(0)
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